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「となりの席のアカシックレコード〜全知全能だけど、空気だけは読めません〜」  作者: 源三郎


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第6章 最終査定

監査官アルシヴ(あるしゔ)は、明石コトハ(あかし・ことは)に帰還推奨を出した。


理由は、単純だった。


コトハが変わり始めているから。


メロンパンを食べて泣いたこと。

友達を作ろうとして失敗したこと。

誰かの秘密を守ろうとしたこと。

体育祭で負けて、胸に残るものを知ったこと。


宇宙情報管理局にとって、それらはすべて異常値だった。


けれど凡田一ぼんだ・はじめにとっては、もう違う。


それは、コトハがこの学校で過ごしてきた時間そのものだった。


第6章では、コトハの体験研修に対する最終査定が行われる。


全知の彼女が、初めて自分の気持ちを言葉にできなくなる。


そして、平凡な少年が声を上げる。


最終査定の日。


凡田一ぼんだ・はじめは、いつもより早く学校に来ていた。


理由はひとつ。


落ち着かなかったからである。


下駄箱で上履きに履き替え、廊下を歩く。

まだ朝の校舎は人が少なく、窓から入る光もどこか薄い。


今日、明石コトハ(あかし・ことは)の体験研修に対する最終査定が行われる。


結果によっては、コトハは宇宙情報管理局へ帰還する。


そして、自分たちの記憶からも消えるかもしれない。


そう考えるだけで、胸のあたりが妙に重かった。


「平凡な朝って、こんなに静かだったっけ」


凡田がひとりでつぶやいたとき、廊下の角から声がした。


「凡田くん」


コトハだった。


いつも通り、黒髪はきれいに整っている。

制服のリボンも曲がっていない。

表情も、いつも通り静かだ。


ただ、手には小さな紙袋を持っていた。


「おはよう」


「おはようございます」


「それ、何?」


「メロンパンです」


「朝から?」


「はい。最終査定前の情動反応再確認として」


「食べる理由が重い」


コトハは紙袋を見下ろした。


「本来、メロンパンは食用です」


「そこは軽くていい」


「では、朝食です」


「急に普通になった」


「普通は重要です」


その言い方が、昨日の凡田の言葉をなぞっている気がした。


俺は普通しか持ってないからな。


冗談みたいに言った言葉を、コトハは覚えている。

記録としてだけではなく、たぶん、胸の中に。


凡田は、少しだけ視線をそらした。


「最終査定、緊張してる?」


コトハはすぐには答えなかった。


その沈黙が、もう答えだった。


「全知記録存在に、緊張という反応は本来不要です」


「本来は、だろ」


「はい」


「じゃあ、今は?」


コトハは紙袋を少し握った。


「分類中です」


「分類できたら教えて」


「君にも共有します」


「報告書みたいに?」


「口頭で」


「それなら聞く」


そこへ、校内放送が流れた。


『迷子のお知らせです』


凡田は天井を見上げた。


「朝から?」


コトハも放送を聞いていた。


『宇宙情報管理局所属、監査官アルシヴ様。最終査定会場は視聴覚室です。繰り返します。そこは家庭科室です。冷蔵庫を査定しないでください』


凡田は目を閉じた。


「今日も元気に迷ってるな」


「監査官アルシヴは、高次元座標には強いです」


「冷蔵庫には弱いんだな」


「冷蔵庫は開閉式低温保存箱です」


「コトハまでそっちに寄らなくていい」


コトハは少しだけ首を傾けた。


「家庭科室から視聴覚室までは、直進後、右折、階段を上がり、左折です」


「簡単だな」


「アルシヴにとっては、複雑です」


「階段が上下を発生させるから?」


「はい」


「廊下が左右を発生させるから?」


「はい」


「世界、難しすぎるだろ」


さらに放送が続いた。


『監査官アルシヴ様。卵は査定対象ではありません。冷蔵庫を閉めてください』


凡田は額に手を当てた。


「最終査定前に卵を見つめる監査官、嫌だな」


コトハは真剣に言った。


「卵は生命発生の可能性を持つ対象です」


「やめろ。朝の家庭科室を宇宙規模にするな」


「では、食材です」


「それでいい」


緊張していたはずなのに、凡田は少しだけ笑ってしまった。


コトハも、ほんの少しだけ表情をゆるめた。


その小さな笑いのあと、廊下に静けさが戻る。


凡田は思った。


こういうやり取りも、消えるかもしれない。


何でもない朝。

どうでもいいツッコミ。

宇宙規模にズレた言葉。


そんなものが、急に惜しくなった。


「コトハ」


「はい」


「行こう。アルシヴが卵と和解する前に」


「卵との和解は困難です」


「そこは広げなくていい」


ふたりは視聴覚室へ向かった。


視聴覚室には、すでに数人が集まっていた。


担任の桜庭レイコ(さくらば・れいこ)先生。

学級委員長の白金歌音しろがね・かのん

地下アイドルとしても活動する星宮ミーナ(ほしみや・みーな)。

そして、窓際には白猫の猫宮ねこみやが丸くなっている。


人数は多くない。

けれど、コトハがこの学校で関わってきた人たちだった。


桜庭先生は腕を組んでいた。

冷静沈着な表情は崩れていない。

ただし、右手は視聴覚室の備品棚に軽く触れている。


凡田は思った。


たぶん、あの棚も亜空間につながっている。


「先生」


「何ですか、凡田くん」


「ここ、視聴覚室ですよね」


「はい」


「備品棚に武器とか入ってませんよね」


桜庭先生は微笑んだ。


「何のことでしょう」


「質問の答えが透明すぎて怖い」


白金歌音が小声で言った。


「凡田くん、今は深追いしないほうがよろしいですわ」


「委員長が止めるならやめる」


星宮ミーナは、いつもの明るい笑顔で手を振った。


「コトハちゃん、おはよー」


「おはようございます、星宮さん」


「今日は応援に来たよ。必要ならペンライト振る」


凡田はすぐにつっこんだ。


「最終査定でペンライトは違う」


ミーナは人差し指を立てる。


「でも、気持ちは照らせるよ?」


「ちょっといいこと言ったみたいにするな」


コトハが真剣にうなずいた。


「光量は重要です」


「コトハも乗らない」


歌音がそっと痛バ風の小さなポーチを机の下に隠した。


凡田は見なかったことにした。


いや、見えていた。


でも、秘密は守る。


コトハもそれを見ていたが、何も言わなかった。


第3章で学んだことが、ちゃんと残っている。


その事実に、凡田は少しだけ胸が温かくなった。


視聴覚室の扉が開いた。


アルシヴが入ってくる。


黒に近い長衣。

胸元の星図の紋章。

冷たい眼差し。


ただし、片手に卵を持っていた。


凡田は即座に言った。


「持ってきたのかよ」


アルシヴは淡々と答えた。


「家庭科室で発見した」


「返してこい」


「査定対象ではないことは理解した」


「なら返してこい」


「しかし、割れやすい」


「だから持ち歩くな」


桜庭先生が静かに手を差し出した。


「アルシヴさん。こちらで預かります」


「これは重要物資か」


「家庭科部の備品です」


「備品」


「はい」


「地球では、生命可能性を備品として管理するのか」


「卵です」


凡田が言った。


「卵だ」


歌音も言った。


「卵ですね」


ミーナも言った。


コトハも静かに言った。


「卵です」


アルシヴは全員を見た。


「多数決により卵と認定する」


「最初から卵だよ」


凡田のツッコミに、視聴覚室に小さな笑いが起きた。


その笑いはすぐに消えた。


アルシヴが空中に光の板を出したからだ。


そこには、硬い文字が浮かんでいた。


『最終査定』


視聴覚室の空気が変わる。


アルシヴは教卓の前に立った。


今度は迷っていない。


そのことが、逆に少し怖かった。


「これより、対象個体、明石コトハの地球体験研修に関する最終査定を行う」


コトハは立ち上がった。


「はい」


「中間査定において、対象個体には複数の情動反応、判断遅延、記録非開示が確認された」


光の板に、これまでの項目が並ぶ。


『メロンパン摂取時の涙』

『友人形成過程における非効率行動』

『秘密保持による記録非開示』

『体育祭敗北時の情動反応』

『約束保持者への依存傾向』


凡田は最後の項目を見て、眉をひそめた。


「依存って言い方、悪くないか」


アルシヴは凡田を見た。


「観測結果だ」


「約束を大事にしただけだろ」


「約束保持者への反応が強い」


「それ、悪いことなのか?」


「査定中だ」


「答えを先送りにするな」


「地球人は結論を急ぐ」


「宇宙人は言い方が冷たい」


桜庭先生が軽く咳払いをした。


「凡田くん、まずは最後まで聞きましょう」


「すみません」


凡田は口を閉じた。


けれど、拳だけは少し強く握っていた。


アルシヴは続ける。


「対象個体、明石コトハ。君は地球研修の継続を望むか」


コトハの目が、ほんの少しだけ揺れた。


視聴覚室が静まり返る。


彼女は全知だ。

全宇宙の言葉を知っている。

人類が使ってきたあらゆる表現も、文学も、告白も、別れの言葉も、祈りも知っている。


それなのに。


コトハは、すぐに答えられなかった。


「私は」


声が止まる。


凡田は息をのんだ。


コトハは自分の胸に手を当てた。


「私は、地球研修の継続を」


また止まる。


アルシヴは無表情で記録する。


『回答遅延』


凡田は思わず言った。


「待てよ」


アルシヴは視線だけを向けた。


「何だ」


「今のは、遅延じゃなくて」


「何だ」


凡田は言葉を探した。


迷っている。

悩んでいる。

怖がっている。

言葉を選んでいる。


どれも正しい気がする。

でも、どれも少し足りない。


「今のは、ちゃんと考えてるんだよ」


アルシヴは淡々と言う。


「全知存在にとって、考えることは遅延だ」


「人間にとっては、考えることだ」


「対象個体は人間ではない」


その言葉に、視聴覚室の空気が冷えた。


コトハは何も言わない。


凡田の中で、何かが小さく音を立てた。


怒り、というほど強くはない。

けれど、黙っていたくないと思った。


「コトハは、人間じゃないかもしれない」


凡田は言った。


「でも、ここで考えてる。ここで迷ってる。だったら、それをただの遅延って呼ぶのは違う」


アルシヴは光の板を操作した。


「地球人、凡田一。君の発言は感情的だ」


「そうだよ」


「査定には不向きだ」


「でも、俺は監査官じゃない」


凡田は一歩前に出た。


「俺は、案内係だ」


コトハが、凡田を見る。


「凡田くん」


「約束したからな」


凡田は少しだけ笑った。


「最終査定まで案内係を続けるって」


その言葉に、コトハの表情がほんの少し動いた。


アルシヴは沈黙する。


「発言を許可する」


「急に偉そうだな」


「私は監査官だ」


「知ってるよ」


「では話せ」


「命令形が強い」


「話してください」


「急に丁寧」


「地球人は形式にうるさい」


そのやり取りに、白金歌音が小さく笑い、星宮ミーナも肩の力を抜いた。


短い笑いだった。


でも、そのあとに来た静けさは、さっきより少しだけ温かかった。


凡田は深く息を吸った。


「俺は、宇宙のことはわからない」


光の板も、査定基準も、全知存在の安定性も。


どれも凡田には大きすぎる。


「でも、コトハがここで何をしてきたかなら、少しだけ知ってる」


凡田はコトハを見た。


「最初に教室へ来たとき、コトハはパンをくわえて『遅刻だぁ〜』って叫んで入ってきた」


星宮ミーナが小さく吹き出した。


歌音が口元を押さえる。


桜庭先生も、ほんのわずかに目を伏せた。


アルシヴは記録した。


『初日、食品保持状態で叫声を発した』


凡田は言った。


「記録すると変になるからやめろ」


「事実だ」


「事実だけど、変だ」


「対象個体はなぜその行動を」


「転校生の定番を再現したかったんだよ。ズレてたけど」


コトハが静かに訂正した。


「高確率導入パターンです」


「ほら、まだズレてる」


小さな笑いがまた起きた。


凡田は続ける。


「でも、あの日から始まったんだ」


教室の沈黙。

メロンパン。

初めて食べて泣いたコトハ。


「コトハは、メロンパンの味を知ってた。でも、食べたら泣いた」


アルシヴが言う。


「既知情報に対する過剰反応」


「違う」


凡田は首を振った。


「知ってることと、やってみることは違う。コトハはそれを初めて知ったんだ」


アルシヴは黙る。


凡田は歌音を見る。


「友達を作ろうとして、距離感も間違えた。相手の秘密を言いそうになったり、言っちゃいけないことを言いかけたりした」


歌音は少し頬を赤くして、視線をそらした。


机の下のポーチが、ほんの少し揺れた。


「でも、言わないことを覚えた」


コトハは、歌音のポーチを見た。


そして、何も言わなかった。


歌音は小さく息を吐いた。


「明石さんは、ちゃんと守ってくれていますわ」


その声は、いつもの優雅な委員長の声より少し柔らかかった。


アルシヴが記録する。


『記録非開示により、周囲個体の安心感が上昇』


凡田は少しだけうなずいた。


「そういうことだよ」


星宮ミーナが手を挙げた。


「あたしも言っていい?」


アルシヴは彼女を見る。


「発言を許可する」


「なんか面接みたい」


「査定だ」


「じゃあ、査定っぽく言うね」


ミーナは明るく笑った。


「コトハちゃんは、未来がわかってても、今のあたしたちを見ようとしてくれるよ」


アルシヴは記録する。


「未来情報より現時点観察を優先」


「そう、それ」


ミーナはうなずいた。


「あと、たまに言い方が怖いけど」


「星宮さん」


コトハが少しだけ反応する。


「でも、最近はちゃんと止まるよ。言っていいか、考えてる」


「判断遅延だ」


アルシヴが言う。


ミーナは首を振った。


「それ、優しさじゃない?」


視聴覚室が静かになる。


その一言は、思ったよりまっすぐだった。


凡田は、アルシヴを見た。


「ほらな」


「何がだ」


「遅いことが、悪いことばかりじゃないってこと」


アルシヴは答えない。


桜庭先生が口を開いた。


「明石さんは、知っていることをすべて言える生徒です」


その声は落ち着いていた。


「けれど、それを言わない選択を覚えました。教師としては、それを成長と見ます」


アルシヴは言う。


「成長は、全知記録存在に必要か」


桜庭先生の右手が、備品棚から離れた。


「必要かどうかだけで、生徒を見たことはありません」


その言葉に、凡田は少し驚いた。


先生の声は冷静だった。

けれど、そこには確かな熱があった。


「学校は、必要なことだけをする場所ではありません」


アルシヴは、光の板を見つめた。


何かを計算しているようだった。


そのとき、窓際の猫宮が、にゃあと鳴いた。


全員がそちらを見る。


白猫は机の上に飛び乗り、アルシヴの光の板の前に座った。


「猫宮」


凡田がつぶやく。


アルシヴは眉をひそめた。


「非合理的対象が査定領域に侵入」


猫宮はしっぽで光の板を軽く叩いた。


文字が乱れる。


『最終査定』の表示が、一瞬だけ『最終にゃ定』になった。


凡田は吹き出しかけた。


「猫宮、今のはわざとか?」


猫宮は知らん顔で毛づくろいを始めた。


アルシヴは真顔で言った。


「査定表示に猫語干渉」


「猫語なのか、それ」


「分類不能だ」


「じゃあ決めつけるな」


コトハが小さく言った。


「猫宮は、たまに宇宙語を理解します」


「さらっと怖い情報を足すな」


桜庭先生が咳払いをした。


「猫宮、そこは降りなさい」


猫宮は降りなかった。


むしろ、アルシヴの前で丸くなった。


アルシヴは困ったように光の板を持ち上げる。


「視界が白猫で占有された」


「どかせばいいだろ」


「接触してよいのか」


「猫だぞ」


「猫は許可制ではないのか」


「たぶん違う」


猫宮は、アルシヴの袖に前足を置いた。


それだけで、視聴覚室の緊張が少しほどけた。


ギャグみたいな光景だった。


宇宙規模の最終査定。

その中心で、白猫が監査官の袖を押さえている。


凡田は笑いかけて、けれどすぐにコトハを見た。


コトハは、猫宮を見ていた。


少しだけ、安心したような目で。


この学校には、変なものが多い。

魔法戦士だった先生。

推し活を隠す委員長。

武装しかける地下アイドル。

宇宙語を理解する白猫。

方向音痴の監査官。


そして、全知なのに空気だけは読めない転校生。


凡田は思った。


こんな日常、普通じゃない。


でも、もう大事だった。


アルシヴは、猫宮を避けながら光の板を操作した。


「証言は確認した。しかし、対象個体本人の意思が必要だ」


視線が、コトハへ戻る。


「明石コトハ。君は地球研修の継続を望むか」


コトハは立っていた。


いつもより少しだけ、肩が小さく見えた。


「私は」


また、言葉が止まる。


今度は誰も急かさなかった。


アルシヴも、光の板に『回答遅延』とは記録しなかった。


コトハは胸に手を当てた。


「私は、残りたい」


声は小さかった。


でも、はっきり聞こえた。


「理由は」


アルシヴが聞く。


コトハは目を伏せた。


「理由を、完全には説明できません」


「説明不能か」


「はい」


コトハは顔を上げる。


「メロンパンを食べたときの涙も、体育祭で声援を聞いたときの熱も、凡田くんが約束を守ったときに胸に残ったものも、私はまだ完全には説明できません」


凡田は息を止めた。


コトハの声は、少しだけ震えていた。


「でも、消したくありません」


視聴覚室が静まり返る。


「この教室で聞いた声も、友達になろうとして失敗した時間も、秘密を言わないと決めたことも、猫宮の白いしっぽも、君が隣でつっこむ声も」


コトハは凡田を見る。


「私は、消したくありません」


凡田は、何か言おうとして、言えなかった。


言葉が出ない。


でも、それでよかった。


今は、コトハが自分で言葉を探している。


全知なのに、未完成の言葉を。


「これが、地球研修の価値かどうかはわかりません」


コトハはアルシヴを見る。


「けれど、私にとっては、もうただの記録ではありません」


アルシヴは長く黙った。


光の板に、いくつもの文字が浮かんでは消える。


『説明不能』

『情動反応』

『記録非開示』

『成長』

『周囲個体への影響』

『対象個体本人の意思』


凡田は一歩前に出た。


「アルシヴ」


「何だ」


「宇宙の価値とか、記録の安定性とか、俺にはわからない」


「だろうな」


「そこ、少しは包め」


「事実だ」


「まあ、そうだけど」


凡田は苦笑した。


それから、まっすぐアルシヴを見る。


「でも、コトハがここに来てから、俺たちは変わった」


歌音がうなずく。

ミーナも、桜庭先生も、何も言わずに聞いている。


「コトハだけじゃない。俺も、白金さんも、星宮さんも、たぶん先生も。普通だと思ってた毎日が、ちょっと変になって、ちょっと面倒になって、でも前より面白くなった」


アルシヴは光の板を見た。


「面白い、は査定基準にない」


「作れよ」


凡田は言った。


「かわいいもな」


猫宮が、にゃあと鳴いた。


まるで賛成しているようだった。


アルシヴは猫宮を見た。


「非合理的対象の同意を確認」


「猫の鳴き声を急に採用するな」


「君が作れと言った」


「そこだけ素直だな」


小さな笑いが起きた。


凡田は、その笑いを聞いてから続けた。


「コトハが残ることに、宇宙規模の意味があるかは知らない。でも、俺たちにはある」


声が、少しだけ強くなる。


「消えてほしくない」


言ってから、凡田は自分の胸が熱くなるのを感じた。


こんなにまっすぐな言葉を言うのは、たぶん初めてだった。


平凡な自分には似合わない。

けれど、今はそれでいい。


「コトハのことを、なかったことにしないでほしい」


コトハが、凡田を見ていた。


その目は、いつもより少しだけ潤んでいるように見えた。


アルシヴは黙っていた。


長い沈黙だった。


視聴覚室の時計の音が、やけに大きく聞こえる。


光の板の上で、アルシヴの指が、ゆっくり動いた。


『情動反応』『成長』『記録非開示』――並んだ文字を、彼は一つずつ見ていく。


「……このいずれも」


アルシヴが、低くつぶやいた。


「宇宙情報管理局の記録には、存在しない」


凡田には、その意味がすぐにはわからなかった。


「どういうことだ」


「我々は、宇宙のすべてを記録してきた。だが、対象個体がこの教室で得たものは、どの記録にもない。前例がない」


アルシヴは、初めて少しだけ、迷うように間を置いた。


「記録を司る機関が、記録にない事象を、汚染として消去するのか。それとも――観測を続けるのか」


それは、査定基準への問いではなかった。


たぶん、アルシヴ自身への問いだった。


やがて、アルシヴは光の板に手を伸ばした。


表示が変わる。


『最終査定結果』


凡田は息を止めた。


コトハも、歌音も、ミーナも、桜庭先生も、猫宮まで動きを止めた。


アルシヴは言った。


「中間査定、帰還推奨」


その言葉に、凡田の胸が冷える。


だが、アルシヴは続けた。


「最終査定、条件付き継続許可」


光の板に、新しい文字が浮かぶ。


『対象個体、明石コトハ』

『地球研修継続を許可』

『ただし、全知機能の段階的制限を実施』

『体験による未記録情報の取得を継続観察』


凡田は、すぐには理解できなかった。


「それって」


アルシヴは淡々と言う。


「地球残留を許可する」


白金歌音が両手を口元に当てた。


星宮ミーナが小さく跳ねた。


桜庭先生は、ほんの少しだけ息を吐いた。


猫宮は、何もなかったように毛づくろいを始めた。


凡田はコトハを見た。


コトハは、立ったまま瞬きをしている。


「私は、残れるのですか」


「条件付きで」


アルシヴは言った。


「全知機能は少しずつ制限される。未来予測、即時記録参照、感情解析など、一部機能は段階的に低下する」


コトハは静かに聞いていた。


「つまり、私は知らないことが増える」


「そうだ」


「明日のことも」


「一部は不明になる」


「人の気持ちも」


「記録参照に頼れなくなる」


「テストの答えも」


アルシヴは少しだけ間を置いた。


「それは努力せよ」


凡田は思わず言った。


「急に先生みたいなこと言った」


桜庭先生がうなずく。


「正論です」


「先生まで」


コトハは自分の手を見た。


「知らないことが増える」


その声には、不安があった。


けれど、ほんの少しだけ、別のものも混じっていた。


期待。


凡田には、そう聞こえた。


「大丈夫だろ」


凡田は言った。


「知らないなら、一緒に考えればいい」


コトハは顔を上げる。


「君と?」


「俺だけじゃなくて、みんなで」


歌音が微笑む。


「勉強なら、私もお手伝いしますわ」


ミーナが手を挙げる。


「放課後の寄り道なら、あたしが教える」


桜庭先生が眼鏡を押し上げる。


「授業中の居眠りは許しません」


猫宮が、にゃあと鳴く。


凡田は猫宮を見た。


「猫宮は何を教えるんだ?」


アルシヴが真顔で答えた。


「睡眠効率」


「それは合ってる」


コトハは、少しだけ笑った。


今度は、はっきりと。


その笑顔を見て、凡田は胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。


アルシヴは光の板を閉じた。


「最終査定を終了する」


「ありがとう」


凡田が言うと、アルシヴは少しだけ目を細めた。


「礼を言われる判断ではない。観測結果に基づく査定変更だ」


「はいはい」


「はいは一回でよい」


「先生か」


「今のは地球教師的発言だったか」


「かなり」


アルシヴは一瞬だけ考えた。


「記録する」


「しなくていい」


視聴覚室の空気は、もうさっきとは違っていた。


張り詰めた緊張は消え、少しだけ疲れて、少しだけ温かい。


コトハは凡田の隣に立った。


「凡田くん」


「何」


「君は、約束を守りました」


「まあな」


「最終査定まで案内係を続けるという約束です」


「そうだな」


「では、次の約束を希望します」


凡田は少し身構えた。


「何の?」


コトハは、少しだけ考えた。


そして言った。


「知らない明日を、案内してください」


凡田は黙った。


急に、言葉が胸の真ん中に落ちた。


重くはない。

でも、ちゃんと残る言葉だった。


「それ、かなり大きい約束じゃないか」


「はい」


「俺、普通の高校生なんだけど」


「知っています」


「全知じゃないし」


「今後、私もそうなります」


「道に迷うかもしれないぞ」


コトハはアルシヴを見た。


アルシヴは言った。


「迷った場合は、確認行動と呼べ」


「呼ばない」


凡田は即答した。


コトハは少しだけ笑った。


「では、迷ったときは、一緒に考えます」


凡田は頭をかいた。


「……わかった」


「約束ですか」


凡田はうなずいた。


「約束だ」


コトハは胸に手を当てた。


「記録しました」


少し間を置いて、続ける。


「ここにも、残しました」


凡田は、何も言えずにうなずいた。


チャイムが鳴る。


いつもの授業開始の音だった。


でも、今日は少し違って聞こえた。


終わりの音ではない。


次が始まる音だった。


アルシヴは扉へ向かう。


凡田は念のため声をかけた。


「アルシヴ」


「何だ」


「出口はそっちで合ってる」


「当然だ」


アルシヴは堂々と扉を開けた。


そこは、掃除用具入れだった。


沈黙。


アルシヴは、ゆっくり扉を閉めた。


「確認行動だ」


凡田は深く息を吸った。


「最後までそれかよ」


視聴覚室に、今日いちばん大きな笑いが起きた。


コトハも笑った。


今度は、記録するためではなく。


その場にいるために。


第6章では、コトハの体験研修に対する最終査定を描きました。


アルシヴの方向音痴や堅い言葉によるギャグを入れつつ、後半では凡田が第1章から積み重ねてきた出来事を自分の言葉で証言しています。


コトハは「残りたい」と初めて自分の気持ちを言葉にしました。

完全な説明ではありませんが、だからこそ体験としての重みが出る場面です。


最終査定の結果、コトハは地球に残れることになりました。

ただし、全知の力は少しずつ制限されます。


次章では、コトハが「知らないこと」と向き合う、新しい日常へ進みます。

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