『喉の奥の腐った蜜』
本作に目を留めていただき、ありがとうございます。
私は、派手な感情の動きよりも、淡々と過ぎていく時間や、世界の物理的な仕組みを描写することに惹かれる書き手です。そのため、ここにある物語も、劇的な救済よりは「それでも続いていく生活」の記録に近いかもしれません。
少し硬質な文章もあるかと思いますが、不完全な世界のありようを眺めるつもりで、読んでいただけると幸いです。
01
目が覚めると、口の中が腐った果実の味で満たされていた。
Kは舌を動かしてみた。上顎に張り付いた唾液が、糸を引くように粘りつく。昨夜、歯を磨かずに寝た記憶はない。それどころか、ここ数日は酒も飲んでいなかったはずだ。なのに、この内臓の奥からせり上がってくるような、鼻をつく甘ったるい悪臭は何だ。
身体を起こすと、平衡感覚が半拍遅れてついてきた。視界の端で、西日が畳の目を焼き付けている。埃が光の筋の中で無秩序に舞っていた。Kはその不規則な運動を、意味もなく目で追った。
頭が重い。脳味噌が頭蓋骨の中でふやけて、ひと回り大きくなっているような圧迫感がある。咳払いをしようとした。
「あ、」
音が、出なかった。いや、空気は出た。声帯も震えた。だが、それはKが三十年間聞き慣れてきた、あの頼りなく掠れた自分の声ではなかった。耳の奥で、鼓膜が奇妙な共振を起こした。まるで濡れた指でワイングラスの縁をなぞったときのような、神経を逆撫でする高い倍音が、自分の口腔内で反響している。
Kは喉仏を押さえた。熱い。皮膚の下で、何かが脈打っている。
洗面台へ向かう足取りがおぼつかない。床板が軋む音が、やけに遠く聞こえる。自分の感覚のフィルターが、一枚の分厚い油紙で覆われてしまったような疎外感があった。鏡を見た。顔色は土気色で、目の下には黒い隈が張り付いている。いつも通りの、生気のない中年男の顔だ。
だが、口を開けて喉の奥を覗き込んだ瞬間、Kは息を飲んだ。
見えない。喉の奥が、暗い。
ただの暗闇ではない。光を吸い込むような、湿った黒色がそこにあった。扁桃腺が腫れているわけでもない。ただ、そこにあるべき肉の色が、ドス黒い空洞に置き換わっているような錯覚。
水を飲もうと蛇口を捻る。水流がシンクを叩く音が、耳障りなノイズとして脳に突き刺さった。コップに水を汲み、一気に流し込む。水が喉を通過する感覚がない。液体が、あの黒い空洞に触れた瞬間、抵抗なく霧散してしまったかのような、不快な欠落感。
Kは口元を拭った。手の甲に、べっとりと脂汗が滲んでいた。風邪か。それとも、もっと悪い何かか。
壁の薄い隣室から、テレビの笑い声が漏れてくる。その無機質な電子音が、Kの不安を苛立ちへと変換させた。思考がまとまらない。ただ、喉の奥に居座る「異物」が、呼吸をするたびに微かに震え、何かを吐き出したがっているような生理的な衝動だけが、強烈に意識された。
Kは逃げるようにシャツを羽織った。この部屋の淀んだ空気自体が、自分の喉を腐らせている原因のような気がしたからだ。
02
アパートの鉄階段を降りると、夕方の湿った風が頬を叩いた。路地裏には、残飯と古油の臭いが沈殿している。Kは口元を手で覆いながら、最寄りのコンビニエンスストアへ向かった。喉の違和感は消えるどころか、歩く振動に合わせて、食道の奥で何かが蠢くような感覚へと変わっていた。
自動ドアが開く。店内の冷気が、汗ばんだ首筋にまとわりつく。蛍光灯の白々しい光が、網膜を刺した。
レジにはいつもの店員がいた。名札には「T」とある。いつも気怠げに爪をいじっている、茶髪の若い女だ。彼女にとってKは、レシートと共に捨てられるゴミのような存在であり、Kもまた、彼女を風景の一部としてしか認識していなかった。
Kはミネラルウォーターと、のど飴をカウンターに置いた。喉が渇いているのに、唾液が溢れてくる。その矛盾した生理現象に、Kは微かな吐き気を覚えた。
「……百二十円」
TはKを見ずに言った。バーコードリーダーを通す手つきは乱雑で、プラスチックの商品がカウンターにぶつかる乾いた音が響く。Kは財布を開いた。小銭がない。千円札を取り出し、トレイに置こうとした指先が震えた。
「す、すみません。細かいのがなくて」
謝罪の言葉だった。少なくとも、Kの脳内ではそう形成されたはずだった。だが、唇の隙間から滑り落ちた「音」は、Kの意志を完全に裏切っていた。
それは言葉というより、あたたかい蒸気の塊だった。意味を持った言語として鼓膜に届く前に、直接脳髄を撫で回すような、湿度と粘り気を帯びた振動。それが、Kの口から吐き出され、Tの顔面へと直撃した。
Tの手が止まった。レジを打つ指が、空中で硬直する。ゆっくりと、コマ送りのような不自然さで、Tが顔を上げた。
Kは息を止めた。Tの目が、異様だった。
白目の部分が充血し、瞳孔が極限まで開ききっている。焦点が合っていない。彼女はKを見ているようで、Kの背後にある虚空の一点を凝視しているようでもあった。口が半開きになり、そこから浅く、早い呼吸が漏れている。
「……あ……」
Tの喉から、空気の漏れるような音がした。Kは後ずさりそうになった。病気だ。この女も、自分と同じ病気に感染しているのではないか。
だが、次の瞬間、Tの顔に浮かんだのは苦痛ではなかった。頬の筋肉がだらしなく緩み、目尻が下がり、気味の悪いほど恍惚とした笑みが張り付いたのだ。まるで、何年も待ち焦がれていた恋人が、突然目の前に現れたかのような、あるいは極上の麻薬を血管に打ち込まれた直後のような、理性のタガが外れた表情。
「いいえ……いいんです」
Tの声が変わっていた。先ほどまでの刺々しさは消え失せ、砂糖を煮詰めたような、甘く、媚びるような響きを含んでいる。彼女はカウンター越しに身を乗り出した。制服の胸元がカウンターに押し付けられ、形を変えるのが見えた。
「お札……崩さなくていいです。私の、使ってください」
意味が分からなかった。Tは自分の財布をポケットから取り出し、震える手で小銭をレジに叩き込んだ。その動作は常軌を逸していた。焦燥と、奉仕への渇望。Kを待たせてはならないという強迫観念と、Kに何かを捧げたいという異常な執着が、彼女の指先を不器用にさせていた。
Kは恐怖した。何が起きている。
レジ袋を受け取る際、Tの両手がKの手を包み込んだ。その掌は熱く、汗で湿っていた。
「また、来てください。すぐに。……絶対」
最後の言葉は、懇願というより呪詛に近かった。Tの爪が、Kの手の甲に食い込む。痛みよりも、その生物的な温もりの気持ち悪さが、Kの背筋を駆け上がった。
Kは手を振りほどき、逃げるように店を出た。背後で、自動ドアが閉まる音が遮断機のように響いた。掌に残る湿った感触を、ズボンで何度も拭った。だが、あの粘着質な熱は、皮膚の奥に浸透して消えない。
心臓が早鐘を打っている。自分の声がおかしいのか。それとも、世界中がおかしくなってしまったのか。アスファルトの照り返しが、やけに眩しく感じられた。
03
翌朝、Kは出勤した。休むわけにはいかなかった。非正規の事務職という立場は、一枚の薄いガラス板の上を歩くようなものだ。一度足を踏み外せば、そこには社会的な死が口を開けて待っている。
満員電車に揺られながら、Kはマスクの下で口を固く閉ざしていた。昨夜のコンビニでの出来事は、悪い夢だったのだと自分に言い聞かせた。Tが薬物をやっていたのかもしれない。あるいは、自分が疲労で幻覚を見ただけだ。そう結論付けるのが最も合理的だった。
だが、喉の奥の「それ」は、昨夜よりも明確な質量を持って存在していた。唾液を飲み込むたびに、甘い腐臭が鼻腔に抜ける。まるで喉の奥に、別の生き物が寄生して、宿主の養分を吸い上げているような感覚。
オフィスに着くと、いつもの停滞した空気が流れていた。電話の呼び出し音。キーボードを叩く乾いた音。コピー機の排気ファンの唸り。それらが混ざり合い、灰色のノイズとなって空間を埋めている。Kは自分の席に座り、パソコンを起動した。画面の光が目に痛い。
「Kさん、これ、間違ってるんだけど」
背後から声がした。お局のSだ。神経質な痩せぎすの女で、Kの些細なミスを見つけては、皆の前で吊し上げることを唯一の娯楽にしている。Kは振り返った。Sが書類を突きつけている。その目には、いつもの嗜虐的な光が宿っていた。
Kは書類を受け取ろうとした。
「申し訳ありません。すぐ直します」
言わなければよかった。あるいは、ただ黙って頭を下げればよかったのだ。Kの口から漏れた音は、またしても変質していた。
それは謝罪ではなかった。Kの声帯が震えた瞬間、オフィスの空気が一変した。空調の音が消え、蛍光灯の明滅がスローモーションになる。Kの発した音波は、Sの鼓膜を震わせるだけでなく、彼女の脊髄を直接駆け上がり、脳幹を麻痺させる毒のようだった。
Sの動きが止まった。怒りで吊り上がっていた眉が、みるみるうちに力なく垂れ下がっていく。口元が緩み、書類を持つ手が震え始めた。
「……い、いいのよ」
Sの声が上ずった。彼女は頬を赤らめ、少女のように恥じらいながら、書類を胸に抱きしめた。
「Kさんが悪いんじゃないわ。私が、説明不足だったの」
周囲の視線が集まる。隣の席の同僚が、口をあけてSを見ている。当然だ。あのSが、ミスをした人間に謝っている。しかも、熱に浮かされたような、とろけた目でKを見つめながら。
Kは戦慄した。やはり、自分の声がおかしいのだ。
Sが机に手をつき、Kの顔を覗き込んできた。化粧の濃い匂いが鼻をつく。
「ねえ、体調悪いの?顔色が悪いわ」
その言葉には、過剰なまでの慈愛と、粘つくような執着が含まれていた。Sの手が伸びてくる。Kの額に触れようとするその指先は、まるで貴重な宝石に触れるかのように震えていた。Kは反射的に身体を引いた。椅子が床を擦る不快な音が響く。
「大丈夫です」
短く答えた。その短い一言でさえ、Sにとっては至上の福音だったらしい。彼女は「ああん」と小さく声を漏らし、その場に崩れ落ちそうになった。
Kは恐怖と共に、ある種の異様な「快感」が腹の底で蠢くのを感じた。
これは何だ。いつも自分を見下し、ゴミのように扱っていた人間が、自分の発する単なる音の羅列によって、骨抜きにされ、無様に醜態を晒している。その光景は、Kの歪んだ自尊心を満たす、強烈な蜜の味を帯びていた。
喉の奥が熱い。もっと喋れと、寄生虫が暴れている。Kは拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで、その衝動を必死に抑え込んだ。
04
昼休み。Kは社屋の裏手にある喫煙所に逃げ込んだ。誰もいない。換気扇から吐き出される油煙と、濡れた吸い殻の臭いが充満していたが、今のKにはそれが唯一の安息だった。震える手で煙草に火をつける。紫煙が肺に入ると、少しだけ脈拍が落ち着いた。
だが、思考は定まらない。あれは偶然ではない。再現性がある。自分の声には、何らかの「毒」が含まれている。他者の理性を溶かし、本能を剥き出しにさせる毒だ。
視線の先に、野良猫がいた。薄汚れた三毛猫で、いつもゴミ箱を漁っている警戒心の強い個体だ。普段なら、Kが視線を向けただけで逃げ出すはずだ。Kは吸い殻を消した。
実験だ。人間で試すのは恐ろしい。だが、この現実感のない浮遊感を地面に繋ぎ止めるためには、確証が必要だった。Kは猫に向かって、小さく口を開いた。
「……おいで」
囁き声だった。だが、その音は、喫煙所の空気を震わせ、目に見えない波紋となって広がった。
猫がびくりと反応した。逃げるかと思った。しかし、猫は逃げなかった。それどころか、喉をゴロゴロと鳴らしながら、一直線にKの足元へと歩み寄ってきたのだ。
猫はKの革靴に身体を擦り付けた。一度ではない。何度も、何度も、執拗に。その眼はとろんと濁り、口から涎を垂らしている。Kは猫の頭を見下ろした。
動物でさえ、このザマだ。
しゃがみ込み、猫の背中を撫でた。骨と皮ばかりの感触。だが、その生き物はKの指先一つに全身を委ね、至福の声を漏らしている。
Kの内部で、決定的な「何か」が壊れる音がした。
これは、力だ。今まで自分は、誰からも必要とされず、誰の記憶にも残らない透明人間だった。だが今は違う。この喉さえあれば、世界をひっくり返せる。あのSを跪かせることも、コンビニの女を玩具にすることも、すべて思いのままだ。
喉の渇きが、強烈な飢餓感へと変わった。怖い。けれど、もっと欲しい。
その時、喫煙所のドアが開いた。入ってきたのは、総務部の若い女子社員だった。Kとは面識もない、華やかな世界に住む人間だ。彼女はKと目が合うと、露骨に嫌な顔をして踵を返そうとした。
行くな。Kの思考よりも早く、喉の怪物が反応した。
「待って」
その言葉は、粘着質な糸となって、彼女の背中に絡みついた。彼女の足が止まる。
ゆっくりと振り返るその顔から、嫌悪の色が抜け落ち、代わりにあのコンビニ店員と同じ、虚ろで熱っぽい陶酔の色が満ちていくのを、Kは冷めた頭と、高揚する肉体の両方で感じ取っていた。
もう、戻れない。Kは口元を歪め、引きつった笑みを浮かべた。
世界が、腐り落ちる音がした。
読了、ありがとうございます。
ページを閉じても、彼らの時間は止まりませんし、私たちの生活も続きます。それが時間であり、それが人生であると、私は考えています。
明快な答えや、わかりやすいカタルシスは提示できなかったかもしれません。それでも、この不完全な記録の中に、確かな「生活の手触り」のようなものを感じていただけたなら、書き手としてそれ以上の喜びはありません。
貴重な時間を割いていただき、本当にありがとうございました。




