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一線を微妙に越えようとする「やくしまるえつこ」の歌声

 最近の日本のミュージシャンでは「神聖かまってちゃん」が一番好きで、その次に好きなのが「相対性理論 (やくしまるえつこ)」だ。

 

 ところで先程、今頃になって恐縮だが、やくしまるえつこの「アンノウン・ワールドマップ」をきいた。

 

 普通に(いい曲だなあ)と思ったのだが、ふと神聖かまってちゃんと類似の部分を感じたのでメモしておきたい。

 

 それは何かと言うと、やくしまるえつこの歌声が微妙に一線を越えようとしている、という事だ。

 

 これはどういう事かというと、歌う際の感情の高まりが、本来歌うべき音程とか、うまい歌手が歌うべきあるラインを微妙に越えようとしている、という事だ。

 

 わたしは「神聖かまってちゃん」と「やくしまるえつこ」を比較したが、神聖かまってちゃんのボーカルは感情剥き出しに歌う、男性のボーカルだ。やくしまるえつこは、どっちかというと可愛らしいアニメっぽい女性の歌声で、表面的には真逆にみえる。

 

 ただ、両者共に、既存の現実に苛立ちを感じていて、それを越えようと指向しているというのは共通している。

 

 そういう意味では、神聖かまってちゃんの場合は思い切り怒鳴るように、語るように歌い、人々が心地よいと指定するラインをらくらくと越えていく。

 

 ただ神聖かまってちゃんは、音楽的にも整備されていて、ボーカルが踏み外す事によって失われるメロディを他の楽器で補完している。それゆえに神聖かまってちゃんの破調は、音楽的には曲としては整合性が保たれている。

 

 一方、やくしまるえつこの歌声は神聖かまってちゃんほどには、ラインを越えていかない。ただ彼女の震えるような声は明らかに、微妙にラインを越えようとはしている。

 

 それによってやくしまるえつこは何かを指し示そうと、あるいは、自分の中の何ものかを表現しようとしている。

 

 しかしこの感情の高まりは一定のラインをわずかにはみ出るや否や、また規定のラインに戻って、心地よい確かな歌声へと帰っていく。

 

 やくしまるえつこの曲は久しぶりに聴いたのだが、彼女なりのこのバランスの取り方はユニークで面白いものだと思う。

 

 私はこの、一定のラインを越えようとする歌声は、世界の在り方に対する微かな苛立ちと理解している。


 歌詞の中に、女の子同士の愉しいおしゃべりをした事がない、といった一節がある。これなどは既存の「女子」のイメージにうんざりして、そうした場所を離れていこうとしている姿勢を現している。

 

 神聖かまってちゃんの場合は例えば「大阪駅」という曲で一人旅する自分自身のイメージが描かれるが、それはこの世界に対する苛立ちから、「ここ」とは違う世界への旅立ちを指向している。改めてやくしまるえつこの曲を聴いて、やくしまるえつこの中にもそうした未知のものへ向かおうとする姿勢があるのが聞き取れた。

 

 私にとってはこうした姿勢の有無が、これらのアーティストを既存のポップアーティストと分ける分水嶺となっている。

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