ラテリース
朝の空気が私に語りかけていた。
まだ私は世界との境目が曖昧なような、夢うつつな心地だった。例えるなら赤ちゃんがゆりかごの中でむずがるような、ふわふわとした心地。
しかし、私の肩をしっかと掴むグレイシスさんの手の感触から、そこには境目があるのだと、ハッキリとした感覚が湧いてくる。朝ですよと起こされているような感覚だ。
『ありがとう、駆けつけてくれて助かったぜ。開きすぎだ、自我がとろけるところだった』
「自我がとろけるとは……」
ほんの少しだけ焦りを含んだカマドの言葉と、怪訝さを隠さないグレイシスさんの声が聞こえる。
私はどこか遠くにそれを聞いていた。
「ラテリース殿、大丈夫か」
「ん……」
「ラテリース殿?」
頭がふわふわとしていた。お酒を飲んで心地よく酔っているような感覚に近い。でも感覚は開いていて、今までよりも数段多くの気配が深く分かる。
『悪かった。俺が思うより素質が大きいことと、記憶がなくてアイデンティティの土台が一部崩れていることの両方が原因で、世界に混じるところだった』
「世界に混じるとは」
『分かりやすく言うと、こいつという人間がいなくなるところだったんだ。いや、なくなりはしないんだが』
ふぅん? なんか、紅茶とミルクを混ぜ合わせるとミルクティーになって、二度と紅茶とミルクには戻らないとか、そんな感じなのかな。
まだ頭がふわふわとする。
世界がきらきらと瞬いていて、朝の日差しや風や木々の囁き声が聞こえるような気がする。いや、それは間違いなく彼らの囁き声だった。
屋敷に使われている古い木が、朝の空気の変化にまったりと膨らんでいるのが分かった。多分、定規で測っても分からないほどのほんの微かな差しかないけれど、そうじゃないんだ。確かにのびのびと膨れている。気持ちよさそう。
一番足の速い光の気配が笑っている。彼らは足が速いからあっというまにここも通り過ぎて、次の場所に朝を伝えに去っていく。また明日も会えるでしょう。
『存在を固定しよう。俺もきちんと名前を呼ぶよ、ラテリース』
「ん……」
カマドに名前を呼ばれた、気がする。ラテリース? 君がその言葉を口に出すのははじめてだね。なんだっけ、それ。
グレイシスさんが私の顔を覗き込んできた。表情に乏しくても心配してくれているのが分かる。分かりやすい。グレイシスさんってこんなに分かりやすかったかな。
「ラテリース殿、眠いのか?」
『まだ戻り切ってねぇんだ。輪郭がほんのちょーっとばかり滲んでやがる。悪いが触ってやれねえか?』
「触る?」
『体の境目をな、意識させないといけないんだ』
カマドの指示を受けて、グレイシスさんは迷うような、躊躇うような手つきで私に手を伸ばしてきた。
ぺとり、とその手が私の頬に触れる。そのまま、もにもにとほっぺを揉まれた。
「ラテリース殿、」
『悪いが、今は余計なものくっつけないで呼んでくれ』
「……ラテリース」
名前を呼ばれる。それが私の名前だっけ。
グレイシスさんの手が私の両手を掴んだ。手のひらと手の甲を包まれて、それから指を一本一本確かめるようにすべる。気づいたら、指を交互に組んで絡めるように手を繋がれていた。
指。そうか、私にも指があるよね。
「ラテリース」
指を解いて、次はまたほっぺだ。そのまま手が輪郭をたどって、頭を撫でられた。もふもふとした髪をかき回されて、そのうち髪の一房をするすると手に取られる。
私の髪ってそんな色だっけ。そんなにもふもふとしているのか。
もう片方の手が反対のほっぺを触って、そちらは輪郭を下にたどっていく。顎のとがりまで指がつたい、顎の下をくすぐられて、首、肩と降りていった。
私の形ってそんな感じだったっけ。そうやってあやされるように触られるの、結構悪くないね。
「ラテリース」
触り方が優しいのが心地よくて、すりすりと大きな手に顔を押し付けた。あったかい。
グレイシスさんが少し気まずげに身じろぎした。ちょっと照れているような気配がある。
「……かまどの妖精殿、幼いとはいえ婦人にあまりベタベタ触るのは抵抗がある。そろそろどうにかならないか?」
『ラテリースはもともと記憶がなくて自分が曖昧だったから、ちょっと時間かかるぜ。あと、胴体と心臓の感覚もあるといいんだが』
「抱擁をしろということか? ……はあ」
ぎゅうと大きくて温かいのに包まれた。
とくんとくんと揺れているものがある。
私の輪郭がなんとなく分かる。それから、包んでくれている人の中でとくんとくんと優しく揺れているもの、それと同じものが私の中にもあるのが分かった。
「さすがに接触はここまでが限度だ」
『それでいい。そのままくっついていてくれ』
グレイシスさんは黙ってそうしてくれた。
少しずつ、少しずつ自分の輪郭が分かってくる。世界と一体化していたような安心感や微睡む感じが徐々にほどけて、体の感覚が戻ってくる。
それにつれて、体の疲労感がずんとのしかかってきた。うーん、気怠くって、疲れた、すごく、眠い、かも……。体が温かいことと、私の形を引き戻してくれた手に安心感を覚えて、そのままうつらうつらとしてしまう。
しばらくして、不意にグレイシスさんが問う。
「かまどの妖精殿、ラテリースの記憶がないというのは本当か?」
なんでそんなことを聞くんだろう。でもダメだ、眠たくて声も出せない……。
『ホントホント。先代が知識を受け継ぎたくて別の世界から連れてきたんだが、そのときに名前も家族も生い立ちも全部なくなっちまったらしい』
「それは、あまりにもひどい仕打ちじゃないか」
『俺だってわりぃとは思ってるよ』
カマドが苦い声を出した。
あれ、カマドらしくない声だ。
『初めて会ったときは、なんだ随分と気が弱くて泣き虫な奴なんだなと思ったんだぜ。ビクビクメソメソしてよぉ』
「……想像できないのだが」
グレイシスさんが眉を顰めて私を見下ろしている。
でも、本当だよ。初めてカマドにしゃべりかけられたときに、私はすごく泣いちゃったんだ。そのあとはしばらく何を話してもビクビクメソメソしていたし、ひとときでもカマドが消えるのを怖がった。
カマドは戸惑っていたよ。本当なら私には、先代から引き継がれた基礎的な知識があるはずだったらしい。カマドのことも、なんで召喚されたかも、基本的な錬成のことも、召喚される時に教えられているはずだった。
実際にはそれどころか自分のことまですっからかんだったけど。
一ヶ月、カマドは私のことをよく構ってくれた。錬金術をやれって言うのも、思えば私がなんのためにここにいるのか分からないことを怖がったからだ。私が少しでも嫌がれば、むしろカマドは私に錬金術など勧めなかっただろう。
『お前は記憶がなくなったことをひどい仕打ちだと言ったな。本当にその通りだ。自殺してもおかしくない』
「……」
『だから、せめて、ラテリースの望む通りに過ごさしてやろうとしてたんだ』
グレイシスさんが息を呑んだような気配がした。
カマドは、しかし直後にシリアスな空気に耐えられなくなったのかちょっとおどけた声を出す。ずっと頑張って低く真剣な口調で話していたけれど、彼は本来気まぐれな妖精さんなのだ。
『オイ、こんなに人間の感性に寄り添った考え方をできるのは俺だからなんだぞ! 普通の妖精は人間のことなんざなんも分かってねえんだからな』
「……知っている。長らく古い妖精については研究されてきた。一昔前までは邪悪なものだと言われていたが、近年、彼らはこちらに好意をもっていることが分かってきている。価値観の違いのせいか、悲劇的な結果になることが多いが」
『へぇん』
そうなんだ?
『どーなっちまったんだ。俺の知る限り、人間は妖精とうまく付き合っていたぜ。中でも妖精に気に入られて、たくさん関わってくる奴が魔法使いだとか魔法技師だとか錬金術師だとか言われてんだ』
「今は古い妖精との交流方法は、魔女の協力を得て研究されているものだ。古い妖精自体、滅多に見かけない」
『そーかい。じゃあ俺も姿は出さねえ方がいいな』
カマドがふんと鼻を鳴らした。『こんなことを言うのはガラじゃねえんだけどな』と前置きする。
『おい、ラテリースを泣かせるんじゃねぇぞ』
「しない」
グレイシスさんは即答した。心なしか、私を抱きしめてくれる腕の力が強くなった気がする。
「アルバンの薬を作ってくれると、全力を尽くすと言ってくれた。最大の感謝と敬意を払っている」
静かにそう言うグレイシスさん。律儀な人だ。
「それだけではなく、まさか、ラテリース自身もそんなに大変な状況だったとは思いもしなかった。私は最初、随分と不躾で高圧的な態度をとった自覚もある」
『……』
「この子は、少し危ういな」
『ふん』
二人の間では、なんだか無言のうちに何かの協定が結ばれたようだった。言葉はなくとも、なんとなくそんな感じがする。
カマドとグレイシスさんは、しばらく沈黙していた。嫌な沈黙じゃない。ちょっと仲良しになりましたか?
その証拠に、次の会話は柔らかな雰囲気で交わされている。
「というか、名前はラテリースのままでよかったのか? 私がつけてしまった名前なんだが」
『ラテリースが呼んでいいって許可したんだろ。もとの名前が分からねえんだからあるもので固定するしかねえ』
「そういうものか」
『確かに、ちょこっと存在の形が変わっちまってるけど、一番奥のところは変わってないから、多分、大丈夫』
「そういうものか……?」
グレイシスさんは不安げに私を見下ろした。
それを最後に、ギリギリ保たれていた私の意識はふっつりと途切れた。というか、ここまでの会話もほとんど眠ったまま聞いていた。
あるいは全部、夢だったのかもしれない。
だってね、二人とも案外見栄っ張りな気がするから、私にこんな会話は聞かせないと思うんだよね。




