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あけて  作者: aー
3/3

第3話

 エアコンの修理業者は翌日に来てくれたったが、結局直らなったらしい。

「最近、三階寒いですよね」

「ねー。でも外を歩くと遠回りだし」

「二階のトイレは直りましたよね」

「ねー。よかったよかった」

 後輩の百合子が、どこか緊張したような顔で声を潜めた。

「いのり先輩」

「にゃんだい?」

「三階の男子トイレで誰かに声をかけられましたよね?」

「ああうん、昨日ね、寒いのに濡れてる子がいたんだ! 慌ててタオルを探してる間にどっかいっちゃったんだけどね、風邪ひかなかったかなぁ」

 元気なら良いけどと呟けば、百合子は神妙な顔を近づけてきた。

 毎朝セットしている前髪がふわりと揺れ甘い香りがして、今日も美人さんだなとぼんやり思った。

「それ、もしかして冬に行方不明になった子じゃなかったですか?」

「うん? 休学中の? むりっしょ。建物に入れないよ」

「実は、もう死んでるんじゃないかって噂なんです。幽霊なら入れますよね?」

 この子、昨日ホラー番組でも見たのかしら?

 まるでどこかの課長のようだと苦笑してしまう。

「・・・幽霊ってしゃべれるの?」

「わかんないですけど、最近北館で女の子を、この南館で男の子のほうを見たって人が後を絶たないんです」

「よくわかんないけど、なんで今? 行方不明になったのは冬だよね?」

 ずずいっと更に近寄られ、白くて細い指先がいのりの肩をがしっとつかむ。見た目に反して凄い力があるものだ。正直肩に食い込んで痛かったが、なんとか我慢した。

「こうは考えられませんか」

「う、ん?」

「もともと前から現れていたけど、夏になるまであんまり気づかれなかったとか」

「・・・いや無茶な。今年は五月から暑かったし、みんな半袖だったよ。冬服着てたら逆に悪目立ちしてもっと有名になっちゃうよ」

「そっか・・・確かに、目撃情報は今月に入ってからなんですよね」

 この子、仕事中にそんな情報を集めていたのか・・・

 シフォンの柔らかな花柄ワンピースに、白いカーディガンを合わせた可愛い雰囲気なのに、表情はゴルゴのようでちょっと迫力がありすぎて怖い。

「とにかく先輩」

「にゃにかな?」

「先輩は純真な人なので、悪いものを呼び寄せてしまうかもしれません」

 なんだって?

「お守りとしてこれを持っていてください」

 ようやく肩からどいたと思ったら、何故か天使の羽のような形のブザーを手渡された。

 ブザーと百合子の顔を何度か往復する。

「えらく物理的なお守りだね。ありがとうございます」

 素直ないのりは、とりあえず彼女の前でネームホルダーに着けてみると、大変満足げな顔をされてしまった。ちょっと解せない。

「幽霊かどうかはわからないけど、設備不良の場所が多いみたいだから、百合子ちゃんも気を付けるんだよ」

「ありがとうございます! そうだ、通販でお祓いセットが売ってたんです。買ってみましょうか」

 通販ってそんなのまで扱ってるのか・・・大変だな、通販会社も・・・いやまって、それって需要あるの?

 いのりが不思議そうにしていると、百合子は自分のスマホを取り出して見せてくれた。

盛り塩セットや呪詛返しのお札、丑の刻参りセットetc.・・・

 丑の刻参りセット・・・まさかの二千円もしないことに驚きつつ、思わず口を開いた。

「それは飯田課長に勧めてみたらどうかな?」

「そうします!」

 逆効果になりそうで怖いけど言わないでおこう。そう判断したいのりは、数日後、後悔することになった。



夏休みも二週目に入ると、だんだんと来館者が固定されてくるものだ。

 その知らせは、またもや百合子からもたらされた。

「大変です先輩! 除霊に失敗したみたいです!」

 ジョレイ?

「飯田課長、昨日帰りに階段から落ちて怪我をしたそうです。足の骨を折って、全治一か月だって!」

「そうなんだ、早く良くなると良いね」

 私なみのドジさなんて、課長もついていないねと言えば、問題はそこじゃないと突っ込まれた。

「声を聴いたそうです」

「声? なんの?」

「“あけて、さむい、ここからだして”って」

 あけて?

 そういえば前に私も聞いたような・・・・

「ここから出してってことは、どこかに閉じ込められているのかな。じゃあ、あけては・・・扉を開けて? 寒いってなんだろう・・・」

「どうしましょう先輩、私怖いですぅ」

 泣き顔も可愛いねなんて言ったらセクハラになってしまう。

「階段から落ちたのは偶然かもしれないよ。幽霊って死んだ人なんだよね? 攻撃してくるなんて、無理じゃない? 幻聴を聞いたのかもしれないし、決めつけるのは良くないよ」

 そう言えばなぜかまた、そうじゃないと叫ばれた。

 気づいたときには利用者の視線が痛い。

「先輩だって、幽霊に遭ってるじゃないですか。私庶務課から聞いたんですよ」

「にゃんて?」

「先輩、男子トイレの前で濡れた男の子にあいましたよね」

「ああ、この前の」

 それがなんだって?

「監視カメラを確認したら、先輩は一人で立ち止まって、一人で突然慌てて先生の部屋のドアをたたいたそうです。最初から、あの場所には先輩しかいませんでした。私だって映像を見たんで間違いないです」

「・・・私、嘘ついてないよ?」

 驚きよりも戸惑う。この子は何を言っているんだろう?

「はい、先輩は嘘をついていないと思います。先輩はそういう人じゃないし。それに映像には、不思議な白い球体が映っていました。実は、あの場所では今月に入ってから同じようなことが何度も起こっているんです」

 同じようなこと?

 首を傾げたいのりに、百合子は声を潜めてつづけた。

「この真夏にカーディガン姿の男子学生が、気づいたらそばに立っているんだそうです。いつもどこかしら濡れていて、さむい、あけてって!」

 やっぱり、あけては、開けてなのだろうか。

 もし本当にそれが現実に起こったこととして、なぜ開けてなのだろう?

 ふと、誰かがそばに立っているような気がして背中がゾクゾクした。

「百合子ちゃん。二人のこと、警察も調べているみたいだし、もう少し様子見しようか」

「なんでそんなに落ち着いているんですか⁉」

「百合子ちゃん」

 いのりは常々こう思っている。

「生きてる人間より怖い存在なんて、ありはしないんだよ」




 百合子から聞かされた話を思い出しながら、いのりは書類を出しに北館へ向かっていた。

三階のエアコンは故障の原因がわからず、今も寒いまま。

 あまり学生は来ない時期とは言え、先生たちからの抗議も入ってきているようだった。

 行方不明になった二人に電話をかけた人物については、現在捜索中。学内からなのは間違いがないが、個人の研究室の電話ではなかったと聞いた。

 庶務課は、何故かそれ以上を調べたくない様子で、頑なにわからないという回答を続けていた。

 しかし人は、内緒ごとほど喋りたいものだ。

 その日、ランチタイムが一緒になった庶務課のパート、平井がぽつりと零したのは、ある意味で衝撃だった。

「あの電話ね、学長室からかけられたの。でもその時間帯、学長は出張に行っていて、誰も部屋にはいなかったはずなのよ」

 学長はプライドだけは高い人で、自分が知らない情報があることを絶対に許さない。不安と不信が強くて、よく怒鳴るタイプの七十代。内外に敵が多く、余計に不安を募らせている男だった。

 もともと医療系ではなく、環境学を専攻していたはずなのに、どうしてか医学博士を取得して入ってきた。卒業したのは国立とはいえ田舎の大学。彼よりも優秀な教授は山ほどいたが、執念で学長の座に上り詰めた人でもあった。

 彼が学長になるとき、数名の教授が優秀な新人研究者を引き連れて辞めていったことは今でも語り草だ。

「今ハワイでしたっけ?」

「うん、なぜか語学研修についていったの。まったく、本当に毎年大学のお金で好き勝手してくれるわよね。英語なんて話せないくせに」

 平井のストレスもだいぶ溜まっていたのか、その後はお弁当をつつきながら愚痴のオンパレードだった。

 最後にもたらされたのは、今日は警察官が大学に来ているということ。

「私もですか?」

「そうなの、あなたも目撃者だから」

 あの日トイレの前で出会った学生について話を聞きたいと、午後に警察が訪ねてきたのは、仕方のないことだった。


「こんにちは、突然すみません。今お時間大丈夫ですか? 自分は、吉瀬署のもので、赤堀といいます。こっちは坂野です。自分のことは赤堀と呼んでください。こいつはばんちゃんって呼ぶと喜びます」

 吉瀬市の中央部にある警察署の名前を言われて、はあ、と気の抜けた返事をしてしまう。

 生まれてこの方、警察のお世話になったのは不審者対応講習会や、免許更新の時。そして痴漢被害に遭った時。

 幽霊らしき存在に遭ったからと言って、わざわざ警察が出張ってくることが信じられない。

 警察手帳を見せてくれた赤堀勇は、二十代後半に見える男だった。所属は刑事課。きりっとした二枚目で、鋭い瞳を細めて笑ったようだった。薄い唇に笑みが浮かんでいるがいかんせんスーツを着た狐に見られているような不思議な印象だった。

 なぜか、赤いキツネのうどんが食べたくなった。

 すぐ後ろに立っている坂野亮は、目じりの皺がくっきりついていて、こちらは四十代前半に見える。こちらも所属は刑事課。

 嫌そうな顔で赤堀を見て顔をしかめているのが意外だった。

柔道を長くしているのか、耳の形が特徴的で、体もがっしりしている。

 まるでゴリラとキツネのペアに戸惑いつつも、いのりも名刺を渡した。

利用者を驚かせないように図書館の前の廊下で話しているが、時折坂野が上を気にするようなそぶりを見せた。

「こちらを見ていただけますか」

 赤堀差し出したタブレットには、数日前のいのりの姿。あの三階の男子トイレの前の映像だ。

 別方向の二つの監視カメラの映像を編集したもののようで、慌てふためくいのりの様子が残っていた。

 あの時、確かに見たはずの学生の姿はどこにもないことに眉をよせた。

 まさか本当に、幽霊だったとでもいうのだろうか。

 しかしいのりはしっかり彼の声を聴いている。

「・・・どうして」

「この時、あなたは学生と話をしたそうですよね? 教授にタオルを求めた」

 映像は続く。いのりと教授がいなくなったすぐあと、庶務課の平井と、施設課の飯田がやってきてあたりを見渡し、トイレの前の水たまりに気づいた様子だった。飯田がトイレに入ったら、天井のライトがついて、それからすぐに出てきて首を横に振っている。

 二人は3階の研究室を一つずつノックして、それから教室も確認しているようだった。

 しかし学生の姿はやはりどこにもなく、映像はここで終わった。

「どうして、あの子映ってないんですか」

 最近はAI技術が発達しているので、誰かが消してしまったのだろうか。ずいぶんと質の悪いいたずらだと思いながらも、どこか落ち着かない気持ちになった。

「この場所で、あなたは学生を見た」

 赤堀は確認するようにもう一度動画を再生していのりをのぞき込んだ。

 まるで嘘をついていないかを見ているように。

「はい、足元が濡れていて・・・寒いというので慌てて先生に助けを求めました。図書館に帰るより、先生たちの研究室のほうが近かったから・・・」

「どうして寒かったんですか」

「エアコンが壊れているようで・・・この建物はまだなんとか、でも隣に行くとすごく寒いんです」

「ご案内いただけますか。このトイレも」

「はあ・・・でも私、男子トイレの中には入ったことがないですが」

 何故か坂野がぶっと噴き出した。

「前までで大丈夫ですよ」

「わかりました」

 いのりは、二人を連れて階段に向かった。



 階段を一歩進む毎になんだか体が重く感じるのは気のせいだろうか。

 空気がだんだんとひんやりしてきて、けれど前回ほどではないなと思う。

「エアコンが壊れているとか」

「みたいです。業者を呼んだとききました」

「普段は、こちらはあまり来られない?」

 赤堀たちは平気な顔でいのりの横を、まるで挟み込むかのようにして歩く。

 捕まった宇宙人になった気分を味わいながら、いのりは足を動かした。

「・・はぁ。疲れた」

 うっかり呟けば、坂野が残念そうな顔をして言った。

「失礼ですが、もう少し運動をされたほうがいいかと」

 本当に失礼である。

 いのりとて運動はしたいと思っているが、いかんせん歩くだけでも危険なのだ。

 ある意味才能ともいえるほどのドジを舐めてもらっては困る。

「・・・あちらです。私は中まではご一緒しません」

 ぷいっと顔を坂野からそむけると、なぜかジッと見られた。子供っぽいと思われたのかもしれない。

「入りませんよ? 彼にあったのはすぐそこ、出入り口ですもん!」

 私は変態じゃないと叫びたい気持ちで言えば、ふっと、なぜか室温が上がった気がした。

「俺が見てくる」

「頼む」

 坂野は特に追求することもなく赤堀に言うと、するりと駆け上がりトイレに入った。すぐに天井のライトがついたのがわかった。

 明かりがついただけなのにホッとしたような気持になったのはなぜなのか。

「・・・彼は、どんな様子でした? 表情は?」

「うつむいていたので、でも寒そうでした。風邪をひいてないといいんですけど」

 赤堀は少しだけ冷めた目をして横を向きました。

「幽霊だって話もありますけど?」

「幽霊だったら風邪をひかないでしょうか」

 いのりとしては真面目に言ったのに、何故か盛大なため息をつかれてしった。

「それ、天然? それとも計算ですか? どっちにしろ面倒な人ですね」

 え?

「まあいいけど、坂野遅いな」

 今、大変失礼なことを言われた気がする。

 赤堀をジッと見上げると、彼はあからさまに視線をそらした。

 赤堀は身長百七十五センチほど、いのりよりも二十五センチは高そうで、さらに坂野は身長百九十センチを超えた巨漢だ。

 こんな彼らに全力で追われたら世辞の句を詠んで人生をあきらめることだろう。

 いのりのような小柄な女性にとって、男は体が大きいというだけで怖い。

「ちょっと中を見てきます。ここに居てくださいね」

「はい」

 男子トイレ前で待機とか、ちょっと恥ずかしいんだけどな。

 けれど赤堀はさっさとトイレの中に入ってしまう。それからしばらくして二人して出てきた。何やら小声で話している。

「一応確認ですけど、ここって人が入ると電気がつくんですよね?」

「はい、手動で切ることもできるらしいですけど基本的には人感センサーを付けたままになっています。夜中まで研究される先生もいらっしゃいますから、安全のために切ることはありません」

 夜の校舎というのは、昼間にはない不思議な雰囲気がある。

 その時間を苦手に思っている先生は一定数いるので、スイッチを触る人はいない。なんならどこにスイッチがあるか知らない人の方が多いだろう。

「トイレの水が勝手に流れるのは知っていますか?」

「ええ、もちろん。そういう仕様ですよね。でも最近・・・業者を呼んだはずですけど・・・詳しいことは施設課に訪ねてください」

「あなたはここの職員ですよね? 答えられないんですか?」

 また人を馬鹿にしたような顔で笑う赤堀の、なんと感じの悪いこと。

 なんだか先ほどよりもイライラしたように見えるが、何をそんなに怒っているのだろうか。

「私はlibrarianです。事務局のメンバーではありませんから。何かお聞きになりたいなら、電話をお貸ししますよ?」

 司書は、教員でも職員でもない。一応何かあれば職員側の手伝いはするが独立機関だ。

「らいぶ・・・なに?」

「司書です」

 国家資格もある、ちゃんとした司書として胸を張った。

「へえ」

 明らかにどうでもいいという顔をされてしまった。とても残念である。

「・・・もう良いですか? 会議の資料を作らないといけないんです」

「図書館って本を置いてあるだけなのに、会議なんてするんですね?」

「予算を貰うのには、図書館の有用性を証明し続けなければなりませんから」

 世の中は世知辛いのだ。

 図書館は金食い虫。その有用性を証明するためには、来館者数の増加や、学内アンケートで良い事を書いてもらえるよう努力を続けるしかない。

 じゃないと予算を切られてしまって、先生たちが研究することもできなくなる。

「有用性なんてあるんですか」

「図書館は世界中とつながっています。先生方が研究をするうえで必要なデータベースは、個人で契約できないものもあります。雑誌の購入も、論文の取り寄せも、私たちが図書館だからできるんです。市立図書館や県立図書館、大学図書館ではそれぞれ求められる価値がちがいますから、有用性の証明についてもやり方が違うのは当然です。ほかにご質問は?」

 こんな嫌みは日常茶飯事とはいえ、いのりとしては良い気分ではない。

「・・・あなたは普段、どんな仕事をするんです?」

「私は主に、データベースの講習会や、使い方に関するマニュアル作成、論文の取り寄せや検索、特許に関するご相談、著作権に関する講習や、広報の作成。会議資料の作成などでしょうか」

 本当はカウンターに立ちたいけれど、気づけば裏方がメインになってしまった。いのりはこう見えても長く勤めている。

 毎年の決算の時期など頭を抱えながら業務をこなすのだ。

 図書館と言ってもいろんなものを買うので、経費に関してもいのりの仕事だった。

「特許? 図書館で?」

 何故か坂野が食いついてきたのを意外に思いながら、いのりは続けた。

「知的財産管理技能士の資格もありますから。大学は企業と共同開発などもしていますから、特許や秘密保持契約についてのご相談も個別に受けています」

 小さい大学だからこそ、仕事内容は濃い。これが大きい大学になると、それぞれ専門のスタッフがいるものだが・・・

 田舎の世知辛さよ。

 しかしやはり、国家資格を持っているだけで拍がつくのか、近年ではいのりを目当てに図書館に来てくれる教員も増えた。

 結果オーライというやつなのだ。

「へえ、ただの小さい人じゃなかったんですね」

 一回殴ってもいいだろうか。なんだろう、このむかつく態度は。

「赤堀さんはキツネさんみたいですね」

「顔ですか? 自分みたいな顔、好きです?」

「動物愛護の精神はありますが、人間になると可愛くないので興味がもてません」

「・・・結構酷いこと言いますね? 小さい癖に」

 先に大人げない事をしたのはあなたですよ。心の中で言い返した。

「じゃ、こっちの坂野はどうですか?」

「・・・首が痛いです」

 見上げると。

「・・・・・・・・・・」

 坂野はこれでもかと眉を寄せて見下ろしてきたが、なんだか情けない顔にも見えた。もしや傷つけてしまっただろうか。

「あ、すみません。ええと・・・強そうだなと思います」

「こいつ、有段者なんですよ」

「はあ。そうですか」

 だからなんだろうか。じいっと見ていると、赤堀はつまらなそうな顔になった。

「あなた、ハニトラとか絶対ききそうにないですね」

「せめて私の好みの人を連れて来てくれませんか、ちょっと無理があります」

「えーっ、自分、結構モテるんですよ?」

 自意識過剰じゃなかろうか?

「じゃあ、お話はきけたので、今日はここで帰りますね」

 今日はって何だろう?

「また、うかがうかもしれません」

「爽やか系美中年が一緒ならいいですよ。眼鏡をかけていて、スーツで、手の筋が綺麗な人を所望します!」

「・・・また自分らが来てあげますね」

 ちっ。

 一度だけ赤堀と坂野は、得体のしれないものを見るような目で、トイレに視線をやったと中廊下を通じて北館へ歩き去っていった。

 しばらくその姿をみやり、それから図書館に戻った。


『・・・あけて』


「ん?」

 階段の途中で何かが聞こえた気がして周りを見渡したけど、何もなくて首を傾げた。




 夜、いのりは自宅の湯船で昼間のことを思い出していた。

 以前本で読んだのだが、本来行方不明になった人の担当は生活安全課のはず。それなのに、刑事課の二人がやってきたということは、学生たちの件は事件性があると判断されたのかもしれない。

 そもそもこの日本で年間どれだけの人間が行方不明になっていることか。

 わざわざ警察が動いたということが、何かを予感させた。

 それにあの二人の最後の様子、きっとすでに現場の下見は済んでいたように思う。帰るとき、迷わずに北館に向かったのが良い証拠だ。

 入試の際は迷子防止のために、足元に養生テープで道を作って、移動できる場所を視覚的にわかるようにする徹底ぶりを発揮しても、迷子が出る学内だ。

 あの二人の刑事は、迷いなく北館に向かった。わざといのりを三階に連れて行ったとしか思えなかった。

 行方不明の学生たちが図書館を利用していたことはすでにつかんでいたのだろうが、何か疑われているのだろうか。

 なんだか気分が重くなったなと思い、いのりは風呂を出ることにしました。

身体を拭いて髪を乾かそうとした瞬間、腐った水のような臭いがした。

もしかして洗濯機だろうか。最近も掃除をしたはずだがと顔を上げたとたん、鏡の中で見知らぬ男がいのりの隣に立っていた。いつの間にか、いのりの手を青白い手がつかんでいる。

「ふぎゃっ⁉」

 ぽかぽかしていた身体が、まるで氷水をかけられたかのように血の気が引いて叫んだ瞬間、それは消えてしまった。

「な、なに? いまの、なに?」

 昼間に変な二人組の相手をしたせいで、思いのほか疲れていたのかもしれない。

 ぶるりと震えて、もう一度温まろうかとも思ったが、なんとなく嫌な気持ちになって結局そのままリビングへ足早に向かった。

 テレビをつけると、いつもより少しだけ音量を大きくした。冷蔵庫から缶チューハイを取り出してプルタブをあけたとき、音に気付いた弟がやってきた。

「ねえちゃん、男帰ったんだ?」

「え?」

「男連れてきたでしょ。全然挨拶さしてくれんから、待ってたんに」

 なんのこと?

 首をかしげると、八歳下の弟は朗らかに笑う。どうしてか、ぞっとした。

「ねえちゃんの男、ずいぶん寒がりやね。この真夏に分厚い上着とか、暑くなかったん?」

 彼はどこかおっとりした言い方だったが、少々気に入らないという目をしていた。

「それにしてもずいぶん若く見えたけど、何歳? あれ僕より年下やない? やっぱり大学だと若い男と知り合えるん? いやー、ねえちゃん罪づくりやね」

 何がおかしいのかケタケタ笑う弟に、そっと訪ねた。

「ねえ、その人・・・紺色の服着とった?」

「えー? あー・・・うん。たしかそんなん。黒か、紺か。袖のとこが白やったけど」

 風呂から上がったばかりなのに、体は凍えるほど冷たくなったのがわかる。

「ねえちゃん?」

 弟の正樹がそっと顔を覗いたが、うまく答えられなくて見上げるようにして見つめた。普段はおっとりと笑っている正樹が真剣をすると、少し近寄りにくい雰囲気になる。

 正樹はそっと背中をさすって、それからゆっくりソファに座らせた。

「ねえちゃん、どした? 言って?」

 いつの間にか手は震えていて、それに気づいた正樹が缶チューハイを取り上げてテーブルに置くと、ぎゅっと右手でいのりの両手を包み込む。

 意外と固い掌と、暖かさに心がほどけていくようだった。

 正樹の落ち着いた声に従うように、いのりは少しずつ、ここ最近起こっていることを伝えた。

「そっか・・・わかった」

 全てを聞き終えた正樹は、しずかに頷いてくれた。

「どうしよう正樹・・・」

「もう寝れ。なんも心配せんでいいよ、僕がおるから」

 そう言いながら弟は、さきほどつかまれた手に湿布を張ってくれた。

 いのりは気づいていなかったが、湿布の下は、人の手のような形の痣ができていた。




 三日前から、北館に研究室を持つ富永准教授が体調不良で休んでいるという話が飛び込んできたのは、閉館した直後だった。

 残っている利用者がいないか、忘れ物はないか、簡単な掃除と確認をしながら百合子と見回った時のことだ。

「富永って・・・まりん先生?」

「はい、看護のまりん先生です」

 富永真凛は、もと自衛官で現役時代に看護師の資格を取った人だった。入ってきたときには、元自衛官にはみえないと言われるほど細くて髪もサラサラだった。腰まであるストレートヘアに、いつも暗めの色のワンピースを好んで着ている人。

 いのりの中ではそんなイメージしかない。

「風邪かしら、はやく良くなるといいね」

「・・・違うんです」

「違う?」

 もう閉館したにも関わらず、百合子は声を潜めた。

「まりん先生、行方不明になった女子に付きまとわれてるみたいですよ。家に出たんですって、女の子が!」

 そういえば女の子は北館にでるんだっけ。

「お風呂に入っていたら、髪を洗っている最中に誰かの手が自分の手に当たったらしくて、慌てて振り向いたら居たんだそうです! 真後ろに行方不明になった女の子が!」

 風呂場でセクハラは幽霊に共通する点なのだろうか・・・・?

 ここで私も同じような目に遭ったと言ったら大変なことになりそうだわと、どこかのんきに思ってしまう。

「それで、先生は無事だったの?」

「それが、驚いたときに足を滑らせて腰と頭を強打したとかで・・・大事を取って検査に行ったらそのまま入院になったそうです」

「そうなの、よっぽど酷い傷だったのね」

 のんき発言に、百合子が盛大なため息をつく。

「違うんですよ。自分の家のお風呂に幽霊が出たって騒ぎまくって帰るのを拒否したんです」

 そのまま居座っているらしい。現在は必要もない検査を受けるために実費を支払って居残っているとか。

 ホテルを取ればいいのにと呟いたら、一人になるのが怖い人もいるんですと言われた。

確かにいのりも、弟のおかげで落ち着くことが出来たので納得である。

「問題はここからなんです」

「どこ?」

「まりん先生が、ナースの前でぽろっと言ったんですって・・・馬場さんは、私のせいじゃないって」

「うん?」

「その病院、うちの学生が実習に入っていたそうで、そこから話が広がったそうです」

「患者の情報を流す時点で、その学生はもうダメだね」

 実習先のどんな情報も決して流してはいけない。習ったはずなのに、うっかり広めてしまったのだそうだ。

 ・・・いや、うっかりとか関係ないから。

いのりは心の中で突っ込みながらも続きを待った。

「その学生については上が今協議しています。そんなことより、問題は馬場さんの名前が飛び出したことなんです。おかしくないですか? いきなりお風呂場に幽霊がでたからって、なんで“私のせいじゃない”って言葉になるのかって」

 そりゃそうだ。

「馬場さんの件に、先生は何か関わっているじゃないかって警察が行ったそうです」

 百合子の情報収集能力どうなっているのか。実にうらやましい能力である。

「そこで突然、先生は面会謝絶になりました」

「じゃあ結局、先生のお話は聞けなかったの?」

「実はそうでもないようです。面会謝絶は警察が帰った後になったそうです」

 なぜそのタイミング?

「平井さんや名越さんが言うには、まりん先生は二人の行方を知っているか、知っている人を知っているんだって。だから警察には話したけど、大学の関係者には話せないんじゃないかって」

 暇すぎて推理大会が始まったのかな?

 名越さんというのは、庶務課の課長を務めている四十代手前の男で、いつもうつむいていて、酒も飲まないタイプなので、あまり飲み会にも来ない。とにかくヘビースモーカーで、こっそり外に出て吸っているのは公然の秘密だった。

外と言うのは学外という意味で、大学は敷地の周辺も禁煙扱いにしているから、どうしても煙草を吸いたかったら近くのコンビニまで行かなくちゃならない。

 なんたる執念であろうか。

「でも、警察には話した?」

「そうみたいですよ」

 その時、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。すりガラスから誰かの影が映っている。

「ひゃっ」

 百合子ちゃんが大げさに悲鳴を上げて、いのりの背中に隠れた。

「見てくるね」

「ゆ、幽霊だったらどうするんですか⁉」

 やんわり笑って手を振る。百合子が付いてくることはなかった。

 図書館のドアは簡単に鍵をかけただけの状態なので、すりガラスの外に誰がいるのか見えるようになっている。

 そこに居たのは、先日の刑事たちだった。

「こんにちは、もう閉館ですか?」

「はい、こんにちは。夏休み期間中は十六時半までなので本日は閉館しました」

 そう笑顔で伝えて扉を閉めようとしたら、あろうことか赤堀が足を扉に突っ込んで閉めさせなくした。

 なんて乱暴な! 驚いたいのりは一瞬力を抜いてしまう。慌てて全力で扉を閉めようとするが、血管が浮き出るほど手に力を込めた赤堀がにやりと笑う。

「なんですか、警備員を呼びますよ!」

「安心してください、こっちは本物の警察です」

「安心できるものですか、足をどけてください!」

「あなた、最近はどうですか? 幽霊、見ました?」

「今目の前に不審者ならいますけど⁉」

 こっちは一生懸命扉を閉じようとしているに、赤堀は涼しい顔で続けた。

力量の差を思い知らされた気がして、ちょっとむかついた。

「・・・俺たちは、あなたが心配なんです。少し話がしたいのでお時間をください」

 後ろから呆れた顔で坂野が出てた。

「助けて坂野さん! 変質者がっ」

「まさか自分のことですか? 喧嘩売ってます?」

 ムッとした赤堀は、えいっと言って扉を大きく開けてしまう。状態を崩したいのりは、そのまま前につんのめった。

「ひゃああっ、百合子ちゃん逃げてぇっ」

「あんた本当に失礼だな」

 ネームホルダーをつかまれたいのりは更に仰天した。

 これが天下の警察官のやることか。絶対に抗議を入れてやる。

「それで、最近はどうですか?」

 赤堀が何事もなかったかのように話をつづけた。この男の精神はいったいどうなっているのだろう。

「・・・どうもしません。ただいま絶賛、変質者につかまっているだけです」

「ほら、先日・・・だれだっけ、まりりん先生? が、怪我をしたじゃないですか、知ってます?」

「・・・まりん先生のことなら、さっき教えてもらいました」

「まりりん先生も、幽霊を見たらしいんですよ」

「今目の目の前の変質者のほうが、私は怖いです」

 いいからさっさとネームホルダーを手放せ。

「あなたは大丈夫かと心配になりまして。そうだ、今から探検に行きましょう! 大丈夫です。あなたのことは自分らが守ってあげますよ」

 頼まれてもいないことをぺらぺらと続け、そのまま赤堀は歩き出した。

「ば、坂野さんヘルプ!」

「赤堀、さすがにそれはどうかと思う」

「じゃあ仕方ないですね、ほら、手をだして」

「へ?」

 ちょっとまて、なぜ手錠・・・先が読めなくて呆然としていたら、何故か赤堀と手錠でつながれてしまった。

「すみませんね。自分、人と手を握るの、気持ち悪くて嫌なんですよ」

「ひいいいいっ! ば、坂野さんんん⁉」

「・・・はぁ。赤堀」

 坂野は一応注意してくれようとしたらしいが、赤堀は全く耳を貸さずすたすた歩きだした。それでも歩みは以前よりもわずかにゆっくりだったが、いのりは気づかない。

「痛い、痛いよぅ」

 うう、と泣き真似をすれば、赤堀が虫を見るような目をして、器用にも口元だけで笑った。

「大げさ」

 こいつは敵だ。


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