第2話
2025/9/13 少々手直ししました
翌週、いのりは月曜日に休みをもらっていたので、三連休を楽しんだ後の出勤だった。
「あれ?」
『ご依頼いただいたトイレの件でお話ししたいことがります。出勤したら一度施設課にお越しください 飯田』
施設課の課長である飯田からメモが残されていた。
御年五十五。いつもなぜかツナギ姿で、ザビエルのように頭がちょっと寂しい飯田は、女性至上主義で男に冷たいことから、一部の教職員に嫌われている。
いのりや他の女性には優しいが、距離が少々近いことから苦手意識を持たれやすいタイプでもあった。
「昨日飯田課長が張っていきました」
デスクに貼られたメモを見ていたら、後輩司書の曽我百合子が教えてくれた。
百合子は名字を呼ばれるのを嫌っているため、百合子ちゃんと呼ばなければならい。前職は市役所職員だったのだが、結婚してから退社した。
夫は営業職で、百合子よりも四つ年上。筋肉質でプロテインが大好物の彼は、まあまま二枚目だった。
彼女が唯一気に入らないのはその名字だったので、名前で呼んでほしいとのことだった。
別にいいじゃないかと思うのだが、譲れない点なのだろう。
「そっか、ありがとう」
大学図書館ではエプロンはせず、決まった制服もないので、ネックストラップを確認して、かばんをデスクの一番下の引き出しに入れて鍵をかける。
このネックストラップは身分証である職員証と、セコムのセキュリティカードも兼ねているため、学内を歩くときは必須なのだ。
教職員は黒いストラップ、学生や学外者は別の色のストラップを身に着けている。
黒というだけで、学生には相手が自分よりも上の立場の人間と教えることができるのだ。
「北館行ってくるねー」
「はーい」
夏の日差しがじりじりとして暑いので、いのりは施設課がある北館まで中廊下を使っていこうと階段に足を向けた。図書館は二階にあるので、中廊下がある三階には階段で向かわなくてはならない。
少し歩いただけで息がきれる己の運動不足を実感しながら、なんとか三階へ上がった。
二階には男女のトイレが、そして三回には男性用トイレのみがあり、今は誰も入っていないのか、天井のライトはついていない。
その前を通り過ぎようとしたとき、またふと、水の音を聞いた。
前と違い、便器の水が流れるような音ではなかった。
ポッ・・・ポッ・・・ポッ・・・ポタッ・・・
あれ、手洗いの方かな?
不思議に思ったが足を進めるしかない。
それにしても三階は誰もいないのか、先生たちの研究室とちょっとした教室があるはずなのに、しんとしていて、少しひんやりした空気だった。
夏休み期間は、オープンキャンパスや入試以外、廊下のエアコンは切ってあるはずなのにと首を傾げたとき、なんとなく背中に視線を感じて振り返る。
しかし誰もいなかった。
天井のライトも、いのりが歩いている場所だけつくから、誰か居たら光と足音で気づくはず。
きっと気のせいだろうと思い、いのりはまた足を進めました。
三つの建物をむすぶ中廊下は大変日当たりが良く、足元以外が全面ガラス張りなので冬景色は圧巻ですが、エアコンのついていない夏は地獄だった。
それなのに今日はずいぶんと冷房が効いているせいで、日差しがむしろ暖かく感じられるほどだった。
それは東館に近づくほど強くなった。
昨今、経費節減をうたっているわりに、うっかり冷房を切り忘れたのだろうか。そう思いながら、ぞくぞくするような、風邪をひきそうな寒さから逃げるように施設課に足を運んだ。
「おはようございます。今日冷房ガンガンにきいてますね、もう廊下寒かった~」
施設課には飯田のほかに、新人の鈴木がいた。
学内には鈴木という教職員が三名、佐藤という教職員は三名。小林にいたっては四名もいるので、ややこしい。
そんな失礼なことを考えつつ、二人に声をかけた。
「今、北も東も全部切ってありますよ?」
「ええ、寒かったですよ?」
「集中管理ですもん、ああやっぱり。南も廊下は切ってありますよ」
「でも寒かったんです。壊れてないですか?」
二人は顔をみあわせ、それからおもむろに「見に行きますね」と鈴木が確認に行ってくれた。
「佐橋さん。実はね」
鈴木を見送っていると、ふいに飯田が口を開いた。
「あ。課長、おはようございます」
「おはよう、先週の男子トイレの件なんだけど」
「はい。お忙しい中見ていただいて、ありがとうございます」
スマイルはゼロ円だと笑顔を振りまけば、飯田課長は嬉しそうにうんうんと笑った。
「実はどうもね、トイレの自動洗浄機能なんだけど、オフになってたみたい。ほら、春に色々工事入ったでしょう? その時一週間ぐらいトイレ使わないってことでオフにしたまま忘れてたんだって。びっくりしたよ、全館切ってあるんだもの。オンにしようとしたらできなくて、今業者を呼んでるから、治るまでちょっと待ってね」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「でも、金曜日の夜と、さっきも水が流れていましたよ?」
「ゴム栓の交換が必要かもしれないと思って、昨日南だけはやってみたんだ・・・トイレの自動洗浄機能なんだけど、オフになってたみたい。ほら、春に色々工事入ったでしょう? その時一週間ぐらいトイレ使わないってことでオフにしたまま忘れてたんだって。びっくりしたよ、全館切ってあるんだもの。オンにしようとしたらできなくて、今業者を呼んでるから、治るまでちょっと待ってね」
ところで、と飯田課長が続けた。
「・・・佐橋さん、半年ぐらい前に行方不明になったカップル、知ってる?」
いきなり話が飛んだな?
話の流れがわからなくて、つい警戒してしまう。
「えっと、昨年度後期の試験中に体調不良のため退出して、そのまま行方不明になった男女がいるのは聞いてます。休学届が出されたのは見ましたけど」
大学図書館は、在学生の状況を確認することがある。それは学生への貸し出しの際に、必要な情報だからだ。
基本的に誰でも使用することはできるが、立場によって貸し出しの期間や冊数が変わってくるため、在学生と休学、停学、退学などの情報をチェックする必要があるのだ。
休学や退学になると貸し出しをするのに別の手続きが必要になる。
病気療養のために休学する生徒は毎年いるし、医療系があわなくて自主退学する学生も多い。自分の道を探したくて退学する学生もいれば、試験中に不正をして停学をくらう学生もいる。停学の場合は期間によってはやはり手続きが必要なので他人事ではない。
医療系なのに血が苦手という学生は存外多く、解剖の授業の時に倒れてしまう学生のためにベッドを用意するほどだ。廊下に並んだベッドはある意味で圧巻である。
しかもなんなら健康診断で採血されただけで倒れる学生もいて、なぜこの世界に入ってしまったんだと可哀想になる。
尚、小規模大学では解剖の授業ができないため、県内の国立大の解剖に立ち会わせてもらい、昔とは違って別室で画面を使ってみるという状況にも関わらず、やっぱり倒れてしまう学生が毎年いる。
情けなさ過ぎて今年は何人だったという報告をする教員が、隠れて賭け事をしている姿は見て見ぬふりをしなければ、うっかり参加して、今年は〇人かなって言ってその通りになると、大変いたたまれない気持ちになってしまうのだ。
いのりは初年次にヒットをかまして、それ以降参加しないと心に決めた。
「その子たちね、どうも事件に巻き込まれたんじゃないかって話だよ」
「事件?」
「試験中に二人そろって慌てて教室を出ていったんだよね」
いのりは、その二人のことを思い出す。
二人は看護科四年生で恋人同士だった。
教職員の考えでは、就職したとたん破局するだろうという予想で一致していた。
この世界、よくあることである。
看護師は離婚率も高い職業だし、寿命も平均より短い傾向にある。
それほど激務なのだ。
それでも国試合格までは、切磋琢磨してさっさと卒業してくれという気持ちが強いのも一致した。
女子は馬場恵。めぐちゃんと呼ばれていたのを学内で見たことがあった。
今どきの女の子で、実習のために髪はお団子にしていることが多かったが、イベントなどではふわふわの可愛い巻き髪を見せてくれた。
去年の学際では、満面の笑みを浮かべて、わざわざ焼きそばのチケットを売りつけに来たため、しょうがないなと言いながら、もちろん買った。
男子は木本圭一。のぼっとした田舎の少年のような人った。
二人は二年生の時から付き合いだして、めぐ、けいくん、と図書館でも仲良しな姿を遠慮なく振りまいてくれた。
刺激の少ない司書にとって、長期ウォッチング対象だったのだ。
「その、めぐちゃんとけーくんが、どうしたんですか?」
「・・・男の方は下宿に戻らず、女の方はアパートにも戻っていないんだった。財布やスマホは見つかっていないけど、私物を全部部屋や学内に置いたまま姿を消しているから、何らかの事件に巻き込まれたんじゃないかって。通信記録を警察が調べたら、この学内から二人に電話をかけた奴がいるみたい」
「試験中にですか?」
二人は、特別優秀というわけではなかったが先生受けは良かったはず。
しかも四年生の後期試験は他の学年と違い一月に行われる。
「それでさ、その話を聞いた看護の先生たちが犯人探しに乗り出したの」
犯人探し!
なんだか好奇心を刺激するワードだ。
「え、でも本当に事件なんですか?」
「いやいや、そうじゃないよ。なんていうか・・・電話をかけた犯人? 庶務に履歴をだして相手を探せって。試験の邪魔をしたやつが絶対にいるはずだって」
「あの、でも試験中は特に電話なんてかけませんよね? 事務方もそれは徹底しているはずですけど」
「そ、だから犯人は他の学科の先生じゃないかってもう、ピリピリしてるの」
「それは大変ですね」
この人、私に愚痴を言いたかっただけなんかな?
そう思い始めたいのりに手招きした飯田は、声を潜めるように耳元に手をやって口を近づけた。
セクハラやぞって思うけど、ここは我慢。
「じゃあもっと大変な話」
「はい?」
酒焼けした声が耳の中で響いた。ぞわぞわして気持ちが悪かった。
「その二人が、最近学内で目撃されてる」
「・・・え? でも」
それは難しくないだろうか。
首を傾げたいのりに、少し距離を取った飯田が、やはり声を潜めたまま続けた。
夏休み期間中は職員も減るが、それでも事務局内に十数人はいるのだ。
「おかしいよね? その話を今の四年生がしていて、昨日庶務が調べたんだけど、結局カメラには映ってなかったんだ」
学生たちはネックストラップについている学生証がなければ、ドアがあかず、建物に入ることができないようになっている。
休学している彼女はそもそも学内を歩けるはずがない。
せいぜい、学食や売店までは入れるけれど、特にこのコの字型の建物は各階にセキュリティがあり、時間によっては全ての扉に自動でロックがかかり、在校生や教職員以外は移動すらできなくなるのだ。
休学者も、手続きで必要となる北館の入り口までしか入れない。
学内に危険な薬品が保管されていて、セキュリティは厳しいのだ。
「他人の空似では? 看護は実習着を着てお団子にしたら、みんな同じ顔に見えますよ?」
「そう、多くの人はそう思った! でもあの学生たちは、ぜったいにめぐちゃん先輩だって言い張ってね。話もしたんだって」
「事件解決ですね。復学したらまた教えてください」
よかったじゃないか。と頷けば、飯田が緩く顔を横に振った。
「寒いの、ここから出してっていって、消えちゃったんだよ」
「この真夏に寒い、ですか? やっぱりエアコンが壊れているんでしょうか?」
修理費かかりそうだなと他人事に思っていると、課長がまた首を横に振る。
「・・・カメラ映像、僕もその時の見てみたんだけど、なんか丸っぽい白い光が浮遊していて、学生たちがそこに向かって声をかけている様子だった」
「カメラのレンズが汚れていたんでしょうか。乾いた布で拭けば良いですかね?」
「君はなんだってそう、現実的な話にしようとするかな!? これって幽霊ってことじゃないの!?」
いきなり耳元で叫ばないでほしい。唾が頬に飛んできて気持ち悪い。
いのりはハンカチでそっと抑えて、抗議の目線を送りるが、時すでに遅し、事務局内の多くの視線を集めてしまった。
「あの、課長。調べてきました」
その時、後ろから鈴木の控えめな声が届いた。
「・・・アプリで室温を調べたんですが、エアコンもつけてないのに、十度を切っていました」
誰が見ても明らかにガタガタと震えているのは、寒かったからだよねと確認したくなるほど顔色が悪い。
空気をかえたくてアプリって、室温まで見れるのあるんだーって呟けば、呆れたような視線を頂いてしまい反省した。
「この前と同じ・・・です」
この前?
「佐橋さん」
「何ですか?」
「君、祓い屋とか知らない?」
「・・・お友達にはいませんが、いたところで、経費落ちるんですか?」
ううぅっと禿頭を抱えた課長。はらり、はらりと二本も髪の毛が落ちていく。
大丈夫かしら。この夏で完全なつるっつるになりそう。
いのりが場違いなことを考えていたら、とりあえずエアコン業者を呼ぶことで話がついた。
なんとなく、先ほどの話は他の人に伝えにくいなと思いながらも、いのりはまた中廊下から図書館へ戻る。
廊下はやはり寒く、急ぎ足で進んでいたらトイレの前で一人の男子学生がたたずんでいた。
「こんにちは」
いのりの勤める大学では、挨拶は全ての基本! という精神のもと知らない人にも挨拶を徹底している。返事をしないと知らない教員からも怒られるので、新入生などは毎年驚いている。
しかしここで身についた挨拶は、社会人になっても役立つもの。
いかに勉強ができても、社会に出たら結局人間性が大事なのだ。
うつむいたまま返事をしない学生に、いのりは、まあ今は気分が乗らないのだろうと特に考えることもなく通り過ぎようとした。
ふと、彼が厚着をしていることに気づいた。もしかして、この寒さで体調を崩してしまったのかもしれない。
いのりが近づいたことで、ふっと暖かなライトが点灯した。
あれ、と思ったのは一瞬だった。
「寒くないですか? ずっとここに居たの? よかったら図書館きます?」
うつむいているせいで細部までは見えないけれど、どこかで見た顔だなと思った。
「・・・あけて」
「え?」
「・・・さむい」
ぽたり、ぽた。と彼の足元が濡れていることに気づくと、慌ててまわりを見渡した。
「大変! 風邪をひいちゃいますよ、先生近くにいないかな?」
キョロキョロと周りを見れば、少し離れた場所の研究室に明かりが灯っているのが目に入る。
「ちょっと待っていてね、タオル借りられないか聞いてみるね!」
慌てて適当なドアをたたくと、不思議そうな顔の男性が顔を出した。放射線科の内藤だった。
二人の子持ち、奥さんも違う大学で助教授をしていて、あちらは心理学の専門家だと聞いたことがあったが、今のいのりにはどうでもいいことだった。
「お疲れ様です、先生、タオル貸してください!」
早口に言えば、黒ぶちメガネの奥が見開かれた。
「・・・タオル? え、なんで?」
「学生が濡れちゃったみたいなんです、こんなに冷房ガンガンなのに!」
「・・・どこ?」
内藤はこれからどこかへ出かける予定だったのか、手には黒いカバンがあり、もう片方の手には灰色のキャリーケース。もしかして学会に出かける予定だったのかもしれない。
いのりはここで初めて、自分が失礼なことをしていると気づいた。
大学の教員は偏屈な人が多いのだ。相手を怒らせてしまうかもしれない。
「・・・だれもいないけど、別の階?」
「いいえ、すぐそこのトイレ・・・あれ?」
いつの間にか天井のライトは切れていて、男子の姿はなかった。
おかしいなと、また周りを見渡す。
「・・・佐橋さん、その学生、どんな奴だった?」
慎重な様子で聞かれて、いのりは思い出しながら口を開いた。
「お顔はほとんどみえなくて・・・・でも足元が濡れていたんです。寒いって。あの、本当です」
「ああうん・・・佐橋さんは嘘をつかない人だもん。僕は知ってるよ」
ありがたいお言葉であるが、しかし感動している場合ではないのだ。彼が風邪をひいてしまう。
「ねえ佐橋さん・・・そいつ、もしかしてカーディガン着てなかった? 両腕の袖だけ白で、あとは紺色の」
はて、どうでしょう・・・呟いて思い出そうと努力した。
とりあえず声をかけただけで、彼の恰好は・・・
ああそうだ。この真夏に、まるで冬のような恰好をしていた。足元は分厚い布のだぼっとしたパンツがぐっしょり濡れていて。上もおしゃれなニットに、紺色のカーディガン。季節が逆になったような・・・
「はい、言われてみたら厚着でした。寒がりさんなんでしょうか。廊下寒いですもんね」
内藤はじっとトイレを見て、それからおもむろに内線をかけた。
「あとは別の人に頼もう。伝えておいたから。佐橋さんも仕事に戻って。僕はこれからアメリカの学会に行くんだ」
「まあ! お引止めして申し訳ございません。遠いのですね」
「うん、知り合いのドクターが招いてくれてね。いい勉強になると思うんだ」
一概に放射線科と言っても、宇宙関係の研究をしている先生もいて、そういう先生は毎年夏にNASAにいくこともあるのだそう。
見た目は田舎のおっちゃんでも、実はすごいって人が多かったりする現場だ。基本的に相手の言葉は疑わないようにしていた。
「お土産はチョコレートでいいかい?」
「いえいえ、ご無事にお帰りくださるのが何よりですから! お気になさらず」
「ありがとう。君も体調に気を付けて。ここの廊下、本当に寒いから」
どうやらエアコンが壊れているのは三階だけのようだと彼は言った。
荷物を持って部屋から出ると、エレベータに乗り目を細めて笑った。なぜかタヌキを思い出した。
「はい、ありがとうございます。いってらっしゃいませ」
深々と、謝罪と感謝の気持ちで頭を下げて見送ったあと、いのりはもう一度だけトイレを振り返る。
「どこにいったんだろう・・・風邪をひかないといいけど・・・」
やはり彼を見つけることができなくて、階段を降りようとしたとき、それは聞こえた気がした。
『・・・あけて』
どこかで、ぴちゃりと水の音がした。