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あけて  作者: aー
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第1話


 ポッ・・・ポッ・・・ポッ・・・ポタッ・・・



 どこからか、水が落ちる音が響いた。

 誰もいなくなった校舎の男子トイレ。

 普段は北館を使うのに、今日はつい更衣室が近い南館を使った。

 人感センサーは反応していないのに、トイレの蛇口から勝手に水が出ている。

 普段は一定の量が流れるはずなのに、そこでは少しずつ遠慮がちに水が出ていた。

 そこへ一人の男が入ってきて、天井のライトが点灯する。

 疲れた顔を隠すこともない寺島優斗は、怪しい気配に気づく間もなく用をすませた。

 誰もいない夜のトイレ、大きな鏡には誰も映っていないはずだった。

 手を洗っていると、ふと、誰かに見られているような気がして顔を上げる。鏡越しに、一歩離れた場所に一人の男子学生が立っていた。ネックストラップは看護学科を示す赤色。

 ハッとして振り向いたが、そこには誰もいない。

「・・・疲れてんのかな?」

 もしや個室に入ったのだろうか?

 しかし扉の鍵は全て、ロックがかかっていない青色を示していた。

「なんだったんだ?」

 真夏だというのに、なんだか今夜は冷えるなと思いながらもう一度鏡を見た時だった。

 すぐ隣に、紺色の上着を着た男が優斗を見ていた。


『あけて』


 男の口からではなく、どこかから頭の中に直接声が響いた。







 とある八月の頭。

 大学図書館で司書をしている佐橋いのりは、自他共に認めるドジなタイプである。

 道を歩けば転び、階段の上り下りでは足を滑らせ、ピーラーで野菜の皮をむけば皮膚ごとけずり、重たい荷物を持てば必ず落とす。

 しかし人柄は朗らかで優しく、誰が見てもおっとりと可愛いタイプの女だった。

 癖のあるふわふわした髪も、彼女の人柄を表しているようだった。

 雨の日は朝から髪と格闘すること三十年以上。

 両親は仕事で海外に出ているため、普段は空港でグランドスタッフとして働いている弟と二人暮らしをしていた。

 弟の正樹は、七歳も年下だがしっかりしていて、姉とは違い運動神経も頭脳も抜群。何をさせても成功させる完璧な存在だった。

 姉が身長百五十センチ、弟は身長百八十六センチ。見上げるほどに首が痛くなる彼は、すらっとした無駄のない筋肉と、長い手足。

 学生時代はモデルのアルバイトをしていた彼だが、最近は空港会社の広報誌にも乗るようになったらしい。

 永遠の貧乳。すべての作りが小さい姉としては、弟にジェラシーを感じることもあった。

 そんな正樹が最近姉に、奇妙なことを言った。

『ねえちゃん、彼氏できた?』

 彼氏など五年も前に分かれて以降、影も形もない。

『ううん、どうして?』

『最近一緒にいるやつ、今度紹介してな。僕が見極めてあげる』

 なんのこっちゃと思っていたが、詳細は説明されなかった。

 じゃあ仕事行ってくると言って、彼が家を出ていったからだ。

 職場につくまでそのことを考えたが、全く見当もつかない。弟はいったい何を言いたかったのだろうかと思っていたら、ふいに人とぶつかってしまった。

「おっと、すみません」

「わあっ、すいません。あの、大丈夫ですか?」

 事務局や学長室がある北館に研究室を持っている、講師の辻村篤弘だった。

 二年前に講師としてやってきた元卒業生で、彼はいのりがこの大学に勤めだしたばかりの年に、新入生として入学した学生でもあった。

「よかった、いのりん先生に怪我させたら俺が殺されますから」

 にぱっと明るく笑った彼は、重そうな黒いボストンバッグを抱えなおした。

「誰にですか」

「いのりん先生、ファンめっちゃ居ますもん。今のは内緒にしてくださいね」

「・・・・これから出張ですか?」

「はい、行ってきます」

 辻村は卒業後、とある病院に勤務していたけれど、戻ってきたようだった。働きながら大学院の修士課程に所属している。

「いってらっしゃい。お気をつけて」

 ひらりと手を振る辻村を見送った。

 大学の講師は、実はそれほど難しい道ではない。しかし講師レベルでは個室は貰えないことが多く、彼は他に三人の講師と一つの部屋を使っていた。

 教授によっては、講師を道具のように扱う人がいる。

 職員も、正社員でなければ口もきかないと決めている教授もいるほどだ。

 地方の医療系大学。狭いところに沢山の学部があり、五つある建物のうち三つは中廊下でつながるタイプの、コの字型をしていた。

 いのりが勤める図書館はコの字型の下の線で南館、施設課や庶務課は上の北館。真ん中の縦線が授業棟で東館。ほかにも実験棟と、食堂などがある建物もあったが、そちらは少々距離があった。

 図書館の開館は九時から二十時まで。司書三名と、サポート職員一名の計四名で回している。

 意外に思われるかもしれないが、医療系の大学は、結構図書館が重要な役割を占める。

 なんといっても医療系のゴールは卒業ではなく、国家資格の取得。

図書館には過去数年分の国試過去問が勢揃いしており、各学部に応じて準備されている。これらは一冊の単価が高く、何より物理的に重たい過去問を一冊でも説き続けれなければならない学生では買いきれない。

せいぜい一冊買うのが限度である。

しかし図書館に来れば数年分の過去問が説き放題だ。

 そんな受験生にとって、卒論発表は夏の終わりにはほとんどの学部が完了していて、そのあとはとにかく二月に行われる国家資格に向けて邁進する。

 十二月を過ぎれば、在学生たちの熱気や、最終学年の学生たちのピリピリとした緊張感が日常となり、足音一つとっても気を遣う。

 いのりは今年も、そんな冬を当たり前に迎えると思っていた。



 大学の夏休みは前期定期試験終了とともに始まる。

 しかし医療系となると、夏休み期間中の研修も多くあり、学年によっては一か月もない場合がある。

 夏休み期間中、図書館は夕方十六時半に閉館するため、普段よりも人数を絞って勤務する。

 この期間中に、各々の話し合い長期休暇を取得することが多かった。

 大学のお盆休暇と、夏休み休暇の五日間を加えて、長ければ二週間は休みを取るし、短くても一週間は取る。

 五日間の休暇は、六月から九月末の間に取らなければならない。

 この休暇は、普段土日にオープンキャンパス、入学式、入試をするためだ。

 夏の間にプラスして五日間の休みをもらうことで年間の休暇を調整されていた。

 いのりは、前年に二十日間の休みをもらって両親に会いに行ったので、今年は後輩たちに長期休暇をゆずった。

 尚、両親がいるドイツに一人で行くと言ったさい、職場では緊急会議が開かれて、なぜ連れがいないのか、誰が面倒をみてくれるのかと、中々失礼な質問の嵐だった。

 一人で海外ぐらいいけますといういのりに対し、上司も、後輩たちも、全員がそろって「絶対命にかかわるから無理をするな」と言った。

 彼女のドジっぷりは本人が思っている以上に酷いのだ。

 ちなみに両親は、てっきりしっかり者の弟が一緒だと思っていたため許可を出したのだが、空港でいのりしかいなかったため、国際電話で弟に説教をした。

『あんたがいなくてどうするの! 誘拐されたり、間違って別の便に乗ったりしたら!』

『過保護すぎだよ。ねえちゃんが大丈夫って言ったんだから。僕も仕事あるし。それに、誘拐されたら誘拐犯と友達になって無事だろうし、違う便に乗らないように会社の人に説明しといたよ。ちゃんとついたでしょ?』

『帰りはどうすんのよ⁉』

『・・・うちの会社の便のチケットとったし、ちゃんとメンバー調べて伝えておいたから。ああでも、空港内で迷子にならないようにだけ気を付けてあげて』

 そんな電話のさなか、トイレに行こうとしてうっかり迷子になったのは、今ではいい思い出だ。

 そんなどうでもいいことを考えていたら、サポート要員土方が口を開いた。

 土方はもともと中学校で音楽教師をしていた過去があり、穏やかで話しやすい印象の男だった。立派な白髪を持ち、年季の入った四角い眼鏡と、青い色の石がついたループタイを身に着けていた。

 サポート要員の仕事は、フルタイムではなく週に何回か来てくれるお手伝い的な存在で、時給は安いけど定年がなくいつまででも勤められるのが魅力だそうだ。

「さいきん、電気がついていないのにトイレの水が流れるんですよね」

「もともとそういう設定みたいですよ。なんか、男性用のトイレの自動洗浄機能なんだって」

「・・・うーん。そうなのかな?」

 なんか違う、という様子で首をかしげた姿に、いのりも釣られても首をかしげる。

「違うっぽい? もしかして劣化が原因かも? 私施設課に言っておきますね」

「ああ、ありがとうございます」

 のほほんと礼を言われて、すぐに施設課に内線をかけてトイレ内の設備確認を依頼した。

 仕事で信頼される第一歩は挨拶、つぎに素早い行動だ。

施設課は北館にあるが、すぐに直接話を聞きに来てくれて、現場を確認してくれた。

 その日いのりは最後まで残って書類整理をして、少しだけ帰りが遅くなった。遅いと言っても、まだ空は明るく、気持ちも晴れやかに終えられた。

帰宅にはバスで四十分もかかるので、たいていトイレを済ませてから建物を出るようにしていた。

車の免許は持っているが、絶対に運転はするなと家族に言われて万年ゴールド免許を維持しているいのりだ。

 いつも通り図書館の戸締りを確認して、セコムをかける。ピピっと音がして、縦に三つの光が点灯したことを確認した。

このセキュリティを解除できるのは、いのりと、残り二人の司書、そして施設課と庶務化にある予備のカードだけ。土方はこのカードを持っていない。

 図書館は南館の二階にあり、館内にトイレがないタイプで、代わりに図書館を出たすぐ横がトイレになっていた。

 一階は図書館の書庫があり、関係者以外立ち入りができない。

 しかもすぐ横は学生の更衣室になっているので、普段は施錠されたままである。

 いのりはさすがに、男子トイレには入ったことないが、この建物のトイレは春に改装したばかりで、女子トイレにはパウダールームにはコンセントもついた。

夕方には女子学生でにぎわうスペースとなる。壁紙は白と灰色、ポイントにピンクで統一してあるし荷物を置くスペースもあるうえに、良い香りの芳香剤でトイレとは思えない空間だった。

 それにしても夕方とはいえ、夏休み期間に入った建物の中はしんとしていた。

いつもは夜中まで帰宅しない教員たちも、今日は早く帰ったのだろう。

 もしかして建物内に自分しかいないのかもしれない。

そんなことを考えながらふと窓の外を見ると、隣の東館四階。女子トイレに電気がついていた。

 キャンパス内は全館、人感センサーで電気がつく使用だから、まだ誰か残っているのだろう。どうしてか、ホッとした気持ちになった。

 トイレを済ませて帰ろうとしたとき、隣の男子トイレから水が流れる音が聞こえた。

 土方さんが言っていたのはこのことね。

 電気はついていないから、やはり機械が勝手に動いているのだろうと納得して、彼女は職場をあとにした。


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