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第1話「泣き虫錬金術師、辺境に逃げる」

 その日、レーネはまた泣いていた。


 王都の錬金術師ギルドの裏路地で、うずくまって鼻をすすっているのはレーネ・アルバート、十八歳。つい先月立派な錬金術師の資格を取ったはずなのに、現実はまるで追い詰められたウサギのようだった。


「もうやだ……怖い……」


 石畳の冷たさが膝に染みる。泣きすぎて目が腫れぼったくなった顔を、みすぼらしいローブの袖で拭った。


 きっかけは、さっきの依頼だった。上級貴族のマーガレット夫人が持ってきたのは、愛犬用の回復ポーションの調合依頼。使用する薬草は『ヒールリーフ』『エルダーベリー』『聖水』。素材はどれも簡単で、学院時代なら余裕の初級レベル……のはずだったのに。


『ええっ!? 犬が飲んだら泡を吹いたですって!?』


 慌てて謝りに行ったら、ご婦人は血管が浮き出るほど怒り狂って怒鳴った。


『二度とギルドに顔を出さないでちょうだい、このポンコツ! あなたのせいでうちのプリンセスが!』


 その言葉が胸に刺さった瞬間、レーネは耐えきれず泣き出した。周りにいた他の錬金術師たちがクスクス笑う声が聞こえて、もう居ても立ってもいられなくなった。気づけば荷物をまとめてギルドを飛び出し、裏路地に逃げ込んでいたのだ。


 自分でもわかっている。レーネは豆腐メンタルだ。ちょっと怒鳴られれば泣くし、人前に出れば声が震える。緊張すると手がガクガク震えて、薬の分量を間違える。学院では筆記も実技も優秀だったけど、卒業してからは失敗と土下座の連続だった。


 王都錬金術師ギルドは競争が激しい。毎日のように優秀な錬金術師たちが新しい薬を開発し、貴族たちから高額な依頼を受けている。そんな中で、レーネのような失敗ばかりの新人は邪魔者でしかなかった。


「先輩たちの視線が怖い……また失敗したら笑われる……」


 胸の奥で小さく呟く。涙がまたぽろぽろと落ちた。


「……もう、王都は無理……」


 レーネの心は決壊寸前だった。ふとギルド掲示板の隅に貼ってあった、色あせた一枚の募集を思い出す。


《辺境・ブリッヒ村にて、錬金術師募集中。素材は豊富、住居・生活費補助あり。詳細は村長ハンスまで》


 辺境なら、人も少ないし、怖い先輩もいない。怒鳴られることもないかもしれない。


 気がつけばレーネは、王都で買った安物のトランクに僅かな荷物を詰め込み、村行きの馬車に乗っていた。馬車代で所持金の半分が飛んだけど、もう後戻りはできない。


 揺れる馬車の中で、レーネは小さく祈った。


「今度こそ……今度こそ、うまくいきますように……」


***


 王都から二日の道のりを経て、ブリッヒ村に着いたレーネは絶句した。想像以上の"田舎"だったからだ。


 舗装された石畳なんてどこにもない。道はぬかるみだらけで、家々は藁ぶき屋根の質素な造り。畑には大根やキャベツがのんびりと育ち、放し飼いのニワトリがコケコッコーと鳴きながら歩き回っている。人口は多く見積もっても五十人ほどだろう。


 でも、空気は澄んでいて、草と土の匂いが心を落ち着かせてくれる。王都の煤煙と喧騒に疲れた心には、この静けさが染み入るようだった。


「こ、ここでなら……やり直せるかも……?」


 トランクを引きずりながら、村の中心部にある一際大きな家を目指す。そこが村長の家のはずだ。

 扉をノックすると、日に焼けた壮年の男性が出てきた。村長のハンスだろう。


「あの、錬金術師の募集を見て来ました、レーネ・アルバートと申します……」


「おお、本当に来てくださったか!」


 村長は目を丸くしてレーネを歓迎してくれた。


「これで我が村にも錬金術師様が……! いやあ、正直半分諦めていたんですよ。辺境の小さな村ですからねえ」


 そう言われた瞬間、胸がじんわり温かくなる。王都では邪魔者扱いだったレーネを、ここでは心から歓迎してくれる。


「村の皆にも紹介しましょう。おーい、みんなー! 錬金術師様が来てくださったぞー!」


 村長の大きな声に、あちこちから村人たちが顔を出す。農作業をしていたおじさん、洗濯をしていたおばさん、遊んでいた子どもたち。みんな好奇心いっぱいの目でレーネを見つめている。


「わあ、本当に若い女の子だ」

「王都から来たのかい?」

「これで病気になっても安心だね」


 温かい言葉をかけられて、レーネの目にまた涙が浮かぶ。でも今度は、悲しみじゃなくて安堵の涙だった。


 よし、ここでなら泣き虫でも、少しずつ頑張れるかもしれない。


 そう思った矢先だった。


「ギャアアアアア!」


 村の外れから、耳をつんざく悲鳴が響く。


「な、なんだ!?」


 村長と一緒に駆けつけると、畑で巨大なイノシシみたいな魔物――ワイルドボアが暴れていた。体長は普通のイノシシの三倍はある。赤い目をギラギラと光らせ、鋭い牙で畑を荒らしている。村人たちは農具を投げ捨てて必死に逃げ回っている。村長が大声で叫ぶ。


「みんな逃げろ!」


「ひ、ひいいぃぃぃっ!」


 レーネも即座に悲鳴を上げて逃げ出す――が、足がもつれて畑に転げ込んだ。トランクも開いて中身がばらまかれる。


「うわああああ!」


 泥だらけになりながら、散らばった荷物の中から手探りでガラス瓶を掴む。それは王都で作った試作ポーション。失敗作だから持ってきただけの代物だった。


「おばあちゃん!」


 その時小さな女の子の叫び声が聞こえた。声の方に目をやると、そこには転んで動けずにいるおばあさんと、そのおばあさんを一生懸命起こそうとしている小さな女の子。

 その二人めがけて巨大なワイルドボアが突進してきた!


「危ない!」


 レーネは無意識に走り出し、とっさに失敗作のポーションの瓶を投げていた。


 パリィィィン!


 瓶が魔物の鼻先で割れ、淡い黄色の霧が立ち上がった。


「ブギィ……?」


 ワイルドボアの動きが急に鈍くなる。そして——


 ドサァァァッ!


 巨大な魔物が、まるで子供のように眠りについた。


「え……?」


 静寂。そして次の瞬間——


 まさかの一撃ダウン。しばらく静寂が続いた後、村人たちは目を丸くしてレーネを見つめた。


「す、すごいぞ……さすが王都から来た錬金術師様だ!」

「あんな巨大なワイルドボアを一撃で!」

「助かった! 英雄だ!」


 村中の視線が一斉に集まる。レーネは涙と鼻水と泥でぐちゃぐちゃの顔をしながら、うわぁぁと泣き出した。


「こ、こわかったぁぁぁぁ! 死ぬかと思いましたぁぁぁ!」


「錬金術師様、大丈夫ですか!」


 村長が慌てて駆け寄ってくる。


「あ、あの……魔物は……?」


「睡魔薬ですね。しばらく眠っているでしょう。その間に村の外まで運び出しましょう」

 失敗作だと思っていたポーションが、まさかの大成功。泣きながらの初仕事は、予想外の形で幕を閉じた。


 村人たちに囲まれて、感謝の言葉をかけられながら、レーネは小さく微笑む。


(王都では失敗ばかりだった私でも、ここでなら……ここでなら、きっと——)


***


 夕日が村を優しく照らしていた。


「レーネさん、本当にありがとうございました」


 村長が深々と頭を下げる。村人たちも口々に感謝の言葉をかけてくれた。


「明日から、よろしくお願いします」

「何か困ったことがあったら、遠慮なく言ってくださいね」

「みんなで支えますから」


 レーネは涙を拭きながら、しっかりと頷いた。


「こちらこそ……よろしくお願いします」


 その夜、村の外れの小さな家で、レーネは窓から星空を見上げた。王都での失敗、屈辱、絶望——すべてがレーネをここに導いてくれた。


「明日から……新しい人生が始まる……」


 遠くで虫の声が聞こえる。風が頬を撫でていく——。

 温かい声援に包まれて、泣き虫錬金術師の辺境スローライフが、ついに始まったのだった。

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