第6話 霧島 星羅 (3)
……ん?
いなかった。
霧島 星羅はもちろん、その隣にいた女性まで。
(待て、さっきの駅で降りたのは霧島だけだったはずだが……?)
まさに跡形もなく消えた、
確かにさっきまで霧島 星羅の隣に座っていた女性。
本能的な悪寒。
バスから降り遠ざかっていく霧島の周りを素早く見渡す。
…見つけた。
二十数メートルの距離を置いて霧島を追いかける正体不明の女性。
「ここで降ろしてください!!」
慌てて運転手さんに向かって叫んでみたが、
「もう出発しちゃったから~次の停留所で降ろしてあげるから待ってな、青年~」
あまりにものんびり断るバスの運転手さん。
「ダメです!今すぐ降りないとダメなんです、俺!」
「そういわれてもね~すぐに次着くから待ってな~」
(こんなことしてる暇はない……!)
説得を諦め、窓を最大限に開け放つ。
「いや青年、今何してるんだ!分かった!次の信号で――」
慌てる運転手さんには申し訳なかったが、これ以上ぐずぐずしてはいられなかった。
俺は大きく開いた窓から身を乗り出し、ためらうことなく身を投げた。
…
……
人影まばらな古いマンションの入り口、
「……はぁ」
霧島 星羅は入り口の階段をゆっくりと上りながら小さくため息をついた。
まだ日も暮れていないが、やけに長く感じられた一日。
自分の家とはかなり距離のある新しい高校生活。
騒がしい教室の雰囲気と信頼できない先生たち。
最後に、自分の隣の席に割り当てられた「男」のクラスメイト。
自分の家、501号室へ行くためのエレベーターのボタンを押しながらつぶやく。
「よりによって、なんで私の隣なのよ……」
五十嵐グループの後継者は例外として、ヒロイン高校に男が入学するというのは彼女にとってあまりにも常識外れだった。
好き嫌い以前に、小学校のころから専門ヒロイン養成学校で成長した彼女にとって、「男性」とは未知そのものの存在。
チーン―
到着の機械音と共に開いた、誰も乗っていないエレベーター。
「総統の弟だっていうけど、それだけじゃ全然分からないじゃない……」
性格や成績、考えていることはもちろん、この学校に来た原因まで。
「……悪い人だった」
4時限目に起きたチョコパイ落下事件。
昼休みまで我慢できず、授業中におやつを取り出した自分にも少しは責任があったとは思う。
しかし、
「だからって人の食べ物を叩き落とすなんて……!」
チーン―
5階で止まったエレベーターが再び軽い機械音を立てて開き、
霧島 星羅は左側の廊下に曲がり、「501」の数字が書かれた鉄製ドアに鍵を差し込んだ。
ガチャリ。
ドアの前に配達されたヨーグルトを取り家の中に入る。
いつものように誰もいない風景。
適当にカバンを床に置き、取ってきたヨーグルトの蓋を開け喉に流し込む。
「…まずい」
能力向上に良いという噂を聞いて去年から飲み始めたものだったが、味もなければ効能も悪いようだった。
「もしかして私、これのせいで能力落ちたのかな?」
しばらくそんな自嘲めいた独り言を言った後、
(……そんなわけないじゃない。人のせいにするのはやめよう)
小さく首を横に振り、カーディガンを脱ぎ始めた。
その時、
「…………」
何となく感じる違和感。
いつからか、正確には半年前ぐらいから感じ始めたおかしな感覚。
静かに家の中をゆっくりと一周見回したが、
「……最近、ちょっと神経質になりすぎかな」
結局ため息をつき、羽織っていたカーディガンを脱いでソファに投げ置いた。
高校受験を控えてから落ち始めた成績、
そしてそれに伴う周囲からのプレッシャーと疑い。
身を削る思いで努力しているのに、
減っていく体重よりも速く低下していく自分の能力。
「私、壊れちゃったのかな……?」
ぼやけ始めた目の前の視界。
流れ落ちる銀髪、そしていくつかの水滴。
その時、
「ふふ、こうなっちゃうとお姉さん、もう本当に我慢できないの…!」
突然背後から自分を抱きしめる誰か。
「誰!?」
驚いた霧島 星羅がエーテルを発現させ、背後の女性を振り払おうとした瞬間、
―ズンッ。
発現しようとしていたエーテルが嘘のように歪む。
「……あぐっ…!」
全身の神経を焼くように逆流する自分のエーテルに、まともな悲鳴さえ上げられず固まってしまった彼女。
「未来のエース呼ばわりされたヒロインが部屋の隅でみじめにめそめそ泣いてるなんて、もうこれ以上我慢できないわ。1年はもっとじ~っくり熟成させるつもりだったのに…もう我慢できないってば!」
背後から霧島 星羅を抱きしめたまま興奮した独り言をつぶやくショートヘアの女。
(この声、それに手の甲に刻まれたこの刺青……)
帰りのバスでチョコパイを奪っていった人。
真実を掘ってやるとインタビューを申し込んできた記者、
中央ヒロイン高の面接日、ただで自分を乗せてくれたタクシー運転手、
能力向上に良いと言って配達ヨーグルトを勧めた女性営業、
最終能力試験当日、頑張れとアンパンを渡してくれた住民、
そして、ファンだと言って自分の手の甲にサインを頼んできた女性。
中学の頃の不器用な自分のサイン、
それを再び目撃して初めて、霧島 星羅は数多くの記憶を連鎖的に思い出すことができた。
『ストーカー』
人類連合の最も重要な人的資源である「ヒロイン」。
基本的に彼女たちは異星の敵と戦う戦士だったが、
地域社会においてはそこのアイコンであり芸能人でもあった。
したがってヒロインたちに対する人々の愛情や関心が歪んだ形で表出されることもあり、その度合いが過ぎることもあったが、基本的にヒロインたちは一般人と差別化される超能力を持つ存在だったため、実際に脅威となるケースはほとんどなかった。
しかし、
(この人、『ヒロイン』だ……!)
先ほど加えられた攻撃である程度推測はできたが、
触れ合った肌から伝わってくる、ぼんやりとしながらもねっとりとした、黒く濁ったエーテル。
それは彼女に嫌悪感と恐怖、絶望感を与えるには十分だった。
「わ、私にどうしてこんなことを……?」
「ひひっ、そりゃお姉さんがあなたをだ~い好きだからよ。当たり前じゃない?」
霧島 星羅の耳元で囁かれる熱っぽい声と、
スルスル…
ゆっくりと霧島 星羅の太ももを這い上がってくる女性の手。
「あ、愛…?とりあえず、これ…解いてください…!」
霧島は何とかストーカーの手から逃れようと足掻いたが、
彼女の手から放たれる黒いエーテルは霧島の神経に侵入し、ゆっくりと抵抗能力を侵食していっていた。
「私を、愛してるって言いながら…どうしてこんな、ことをするんですか!」
「どうしてって…?そりゃどうしてかしらね…」
「そ、それを…私がどうして分かるんですか…!うぐっ…」
全く分からないし、想像もつかない。
そもそもストーカーの発想など理解したくもないし、
今の私は食事もまともに取れていないせいで、まともな思考ができるとは思えなかった。
「あなた…もしかしてペット、飼ったことある?」
「……はい?」
「犬なら首輪をつけて…鳥なら羽、切るじゃない…?」
「一体、な、何を……」
「じゃあ、『ヒロイン』なら…?そのまま飼うにはちょっと…危険じゃない?」
……瞬間、悟った。
最終試験当日に発生した激しい腹痛、
徹底的に自分を操作犯に仕立て上げたインタビュー、
まずいのを通り越して食欲を失わせるヨーグルト、
中央ヒロイン高の面接日に限ってやけに混んでいた道路。
「全部、全部あなたの仕業だったんだ‼」
残っていた一握りのエーテルを一気に凝縮させる。
同時にとてつもない痛みを放ち始めた侵食された神経。
シールドもまた黄色から赤色へと急激に変わりながら激しく点滅し始めた。
「もう私の能力にかかっちゃってるから痛いだけだと思うけど。うわぁ、それでもよく暴れるわね!やっぱり星羅ちゃん素敵……!」
「う、あああああ――!!」
嗚咽に近い咆哮と共に、私をコントロールしようとするストーカーの身体と能力を押し返す。
「お、おお……?まさか?これを解き放つって?本当に?」
信じられないというように、驚きと恍惚感に包まれた彼女の表情。
「あなただけは、絶対に許さな…」
あと3秒、いや2秒でその呪縛から逃れられると思った時、
―ブシャッ。
視界が一瞬赤く染まり、
何かが一瞬にして抜け出たように全身から緊張が消える。
「…あらら、だから無理しないでって言ったのに。綺麗な顔が喀血と鼻血でめちゃくちゃになっちゃったじゃない……」
力なくストーカーに抱かれたまま、ただゆっくりと床に広がっていく赤黒い波紋を見つめる。
「それにしても、食事制限しておいてよかった…もう少し元気だったらお姉さんが先にやられてたかも?でもあまり心配しないで、中性化するつもりはないから――うん?」
ストーカーが窓の外の青い静電気を認識した瞬間。
ガシャーン――
リビングの大きな窓ガラスが粉々になると同時に、
霧島を抱きしめた彼女の顔に天海 仁の拳が叩き込まれた。