第5話 霧島 星羅 (2)
「はぁ…一体どうしたことだよ、まったく……」
下校時間をとっくに過ぎた午後3時半になってようやく自由の身になった俺。
約4時間前、
チョコパイを亡くしたしてしまった霧島 星羅。
しばし恐ろしい殺気を放っていた彼女は、
俺が壊れたチョコパイをゴミ箱に捨ててきたその短い間に教室の外へ飛び出し、そのまま行方をくらませた。
(普通パイ一つ落としたくらいでここまで反応するか…?まあ、目の前で菓子を奪われたようなもんだし、腹が立つのは無理もないだろうが)
俺は内心呆れながらも、そんな彼女をある程度理解できると思っていたが――
「天海 仁君ですね?治安隊までご同行願います」
彼女の恨みは想像をはるかに超えていたことを、その時になって俺は思い知らされた。
…
……
そうして4時間近い取り調べの末、
「学生さん。同じクラスの友達でも他人の物にむやみに手を出したらいけないよ?犯罪だからね、犯罪。分かった?初犯だから今回だけは特別に見逃してあげるね?」
何とか口頭での警告だけで済んだ。
(いくらなんでもひどすぎるだろ……)
強い口調で何度も俺の厳罰を要求した霧島。
彼女が主張した『チョコパイ殺害容疑』はヒロイン治安隊のお姉さんたちさえ首を横に振ったが、
「でもお腹が空いたからって他人の物に手を出すの、これ完璧に窃盗罪に当たるから本当に気をつけなさいね?次はないからね?」
その言葉には何の反論もできなかった。
実はお腹が空いてやったわけでは当然なかったが、
友達が違法薬物に手を出しているようだったから確認しただけです――などという言い訳は、とても霧島の前では言えなかった。
『みじめに落ちぶれた』彼女に関する疑惑を俺もまた肯定してしまうことになるから。
さらに治安隊内部で話しているのを盗み聞きしていると、
「総統の弟さんに窃盗罪を適用するんですか?これ、上層部に報告されたら私どうなると思います?いっそ辞めろって言ってください!」
「五十嵐グループの方からもどうにか見逃してほしいと連絡が入っているんですが、警告で終わらせましょう」
など、何か事が面倒になっている感じさえして、ますます何も言えなくなった。
「はぁ…思い出すだけでも憂鬱になる…」
それでも、得たものが全くなかったわけじゃ無かった。
それはまさに、数時間前にどうしても知りたかった霧島の能力。
考えもしなかった彼女の怒り。
そのおかげでようやく俺は彼女の瞳をまっすぐ見つめることができ、その中に込められた断片的な情報を読み取ることができた。
『エーテル系エネルギー射出型レンジアタッカー』。
別の言い方をすれば典型的な遠距離攻撃手。
パワーは大体95HP、エーテル容量は150EP程度。
「マナタンク」とも言えるEPは正規ヒロイン平均の1.5倍だったが、
直感的な力を示すヒロインパワーは相対的に低かった。
まだ高校1年生であることを考慮すればそれでも悪くない方ではあったが、
去年、中学生の身分で記録したという200中盤にははるかに及ばなかった。
( 霧島の記録、本当にチーティングだったんだろうか……?)
目を閉じたまましばらく色々悩んでみたが、
「でもこんな悩み、意味あんのか?どうせ人間以下の殺チョコ野郎扱いだろうに。」
こんな状況で彼女を仲間にするのは、慎之介がヒロインカップで優勝するのと同じくらい可能性が低そうだ。
…いや、いくらなんでもそれよりは高いだろうが、とにかく。
くだらない考えはやめて、家に帰るバスに乗る準備をする。
その時、
グゥゥゥ……
8時間以上何も食べていない胃が激しく空腹を訴えた。
(まあ、あの騒動が起きたの昼休み直前だったし)
治安隊に連行され昼飯も食えなかった俺。
3時半という中途半端な時間のせいでまともな場所での食事は諦め、
近くのコンビニに寄ってチョコバーを買いバスに乗り込む。
幸いバスの席には余裕があったのでいつもの席に座ろうとした瞬間、
会いたくない相手に限ってよく出くわす、と言ったところか。
よりによってこの時、このバス、その席には、親愛なる俺の隣。
まさにその霧島 星羅が座っていた。
「……」
「……」
ただ無言で互いを睨み合う俺たち二人。
(……挨拶、すべきなのか?それにどこに座れば?いや、その前に今からでも降りるのが正解か…?)
何を話すべきか、どんな反応をするか分からず、しばらく時間が止まったかのように立っていた俺は、
「お客さーん、座ってくださーい、危ないですからー」
バスの運転手さんの言葉でようやく我に返り、慌てて適当な席に身を降ろした。
なんだか背後から痛い視線を感じるような気がしたが、
(……もうどうでもいい。気にしたところで何が変わるわけでもないし)
くだらない考えは捨てさっき買った非常食、チョコバーを取り出す。
ガサゴソと俺がその包装を破ろうとした瞬間、
―ゾクッ。
言葉で表現できない悪寒が押し寄せる。
そろそろと首を回して後ろを見ると、
反対側の窓際の席から俺を注視する霧島の鋭い視線。
午前中までは繊細で柔らかく感じられたその眼差しは、
今はその眼光だけで人を斬れそうだった。
(…ああ、あんな騒ぎを起こしておいて、バスの中で堂々と物を食うなってことだな?分かった、分かったよクソ!)
無言の非難に対して心の中だけで抗弁した後、ズボンの中にチョコバーを再び押し込む。
(はぁ…家に着くまであと10分、その間何をすれば……)
その時、
ゴソゴソ。
カバンを漁っていた霧島が何かを取り出した。
…..は?
両眼とも2.0を超える俺の視力で見間違えるはずがない。
黒くて丸い、マシュマロを包んだチョコレートコーティングの菓子。
今日の事件の主犯、名を『五十嵐チョコパイ』。
俺の食事を睨んでいた彼女が、見せつけるように自らそれを取り出したのだ。
(そうか、犯罪者は腹ペコのまま自分の食いぶりを崇めろって事か?)
大体分かった、彼女の人となり。
自分勝手で過敏反応、告訴魔の成績操作ヒロイン。
純粋で優しい外見に騙され、配慮し、悩み、恐縮してた俺が馬鹿で間抜けだった。
(4時限目の時のように落としちまえ!)
今朝の件は俺が一方的に起こした事故ではあったが、
彼女の有様を目にした今、小さな呪いでも浴びせかけなければ気分が晴れそうになかった。
その時、
言葉が種になると言ったか?
自分勝手ヒロイン霧島 星羅が余裕のある表情でチョコパイを口に運ぼうとした刹那、
ドン!!
「おっとスピードバンプ~!」
急激かつ強く跳ね上がるバスの振動。
その衝撃でチョコパイは彼女の手から脱出し、バスの床へと垂直落下してしまい、
―コロン。
彼女の大切な黒丸い友達は、今日二度目の死を迎えてしまった。
「…………」
予想外のチョコパイの投身を防げず茫然自失とそれ遺骸だけを見下ろす霧島。
(……まさか俺もこうなるとは思わなかったが、自業自得と言うべきか?それにしてもちょっともったいないな。俺も腹が減って死にそうなのに)
持ち主の人格とは別に、死亡されたチョコパイに哀悼の意を表そうとした時、
彼女の手のひらの上に潰れたチョコパイがふわりと持ち上げられる。
(そうだ、自分が落とした物は自分で拾わないと…ん?』
そう思った刹那、
クルクルッ―
回転し始めた。
最初はゆっくりと、しかし徐々に速く。
慣性の法則で表面についた埃と細菌を全て振り払おうとするかのように、
チョコパイは音もなく、しかし強烈に回転した。
限りなく真剣な彼女の眼差し。
このままでは終われないという、こうして送るわけにはいかないという固い意志。
(ありえない…!)
目に映る非現実的な光景に言葉を失い、その次に起こるであろうことへの予感に戦慄した。
永遠に続くかのように回転していたチョコパイが徐々に止まり、
それと同時に霧島の小さな口がゆっくりと開き始めた。
(チョコパイ・ネクロマンサー……!!)
かつて床に墜落したチョコパイ。
それは念動力によって汚れを浄化され、
再び彼女の口の中に生贄として捧げられる直前だった。
しかし、その神聖な儀式は、
「地面に落としたものを食べちゃダメでしょ?」
突然割り込んできた隣の女性によって不意に制止された。
「あっ…」
慌てた霧島が何か言い返すよりも早く、
「ヒロイン高校の生徒がこんな不良食品なんかを食べるなんて。これは私が処理してあげるわ」
素早く霧島の手からチョコパイを奪い取り、ハンドバッグの中のビニールパックに入れてしまった彼女。
「いえ、あの…3秒……」
霧島は何か訳の分からん抗議をしたそうだったが、
[次の停車駅は、五十嵐アパート正門。
五十嵐アパート正門です]
バス内部に響くアナウンスによって慌てて席から立ち上がり、下車を準備するしかなかった。
プシュー―
バスのドアが開くと同時にバスの階段に身を下ろした彼女だったが、
ちらり。
相変わらず名残惜しそうに後ろを一度振り返った後、
未練を断ち切るように固く目を閉じてバスから降りた。
(……ちょっと、可哀想かも)
再び出発し始めたバスの中で、がっくりと肩を落とし歩いていく霧島の後ろ姿を見つめる。
さっきあれほど呪いを浴びせたくせに、いざとぼとぼと歩く彼女の姿を見ると心のそこがちょっぴり痛んだ。
それにしてもあの女、
いくらなんでも他人のチョコパイをそんな風に――
……ん?
いなかった。
霧島の隣に座っていた、チョコパイを強奪したあの女が、
バスの中から跡形もなく消えていた。




