第60話 素直になれない心
夜の静けさを破るように、スマホが震えた。画面には「白石悠真」と表示されている。橘美咲は一瞬迷った後、深呼吸をして通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「美咲、今大丈夫?」
少しだけ緊張した悠真の声が耳に届く。美咲は思わず苦笑した。彼がこんなふうに電話をかけてくるのは珍しい。
「うん、大丈夫。どうしたの?」
「学校でのことが気になってさ。文化祭の準備だいぶ無理してないか?」
一瞬、美咲の胸が締め付けられる。彼の優しさが嬉しい反面、自分の弱さを知られたくない気持ちが強く湧き上がる。
「ありがとう。でも、全然大丈夫だよ。そんなに気にしないで。」
「でも……美咲、こう言ってはなんだけど、いっぱいいっぱいに見えたからさ…。」
悠真の言葉に、美咲は一瞬だけ視線を落とした。確かに限界なのは事実だ。でも、ここで認めたら、自分が甘えているように思われるのではないか。何より自分のプライドが弱音を吐かせなかった。
「本当に大丈夫。ありがとうね。」
努めて明るくそう言うと、悠真は一拍の間を置いた後、小さなため息をついた。
「分かった。無理しないでね。また明日。」
「うん。また明日。」
通話を切った後、美咲はスマホを机に置き、深く息を吐いた。
(本当は頼りたい。悠真君に甘えたいよ。でも……。)
彼女の胸には、言葉にできないモヤモヤが渦巻いていた。
翌日、文化祭準備が本格化していく中、美咲の忙しさはさらに増していった。教室では、コロッケの試作に関する意見が次々と飛び交い、その全てが美咲に向けられる。
「橘さん、これでいいと思う?」
「ごめん、ちょっとこっちも見てくれない?」
美咲は笑顔で対応しながらも、心の中では疲労が積み重なっていくのを感じていた。
(みんな、もう少し自分で考えてくれたらいいのに……。)
一方、その教室の隅では、白石悠真がドリンク販売の準備を進めていた。グループのメンバーと冗談を交えながら、メニュー案を真剣に練っている。
「白君、この名前どう?『フルーツブリザード』とか。」
「いいね。でももうちょっと短くしたほうがインパクトあるかも。」
「えぇ〜。たとえばどんな名前?」
「たとえば、「推し活レッド」なんてどう?いちごミルク系ジュースなら最高じゃない?」
「やば〜。ちょっと惹かれるかも。それいいね!!」
和気あいあいとした雰囲気に包まれる悠真のグループを横目で見ながら、美咲は一瞬だけ視線を落とした。
(悠真君、楽しそう……。でも私は、一人でこんなに頑張ってるのに周りに誰もいない。)
胸の中に湧き上がる小さな嫉妬。美咲はそれを打ち消すように、試作ノートに視線を戻した。
美咲は文化祭の準備の資料を抱えたまま、家庭科室から教室へ戻ろうとしていた。途中で悠真と鉢合わせし、少し驚いた表情を見せる。
「美咲、今いい?」
悠真が不安そうな顔で声をかけると、美咲は視線を逸らしながら歩き出した。
「ごめん、急いでるの。」
「でも、ちょっと話をしたいんだ。」
その一言に、美咲の足が止まった。振り返ると、悠真が真剣な眼差しでこちらを見ている。
「何?」
少し冷たい声が自分の口から出たことに、美咲は自分でも驚いた。
「最近、無理してるように見えるんだ。僕にできることがあれば、手伝いたいと思ってる。」
悠真の言葉に、一瞬だけ胸が温かくなった気がした。でも同時に、どうして自分ばかりがこんなに苦しんでいるのかという思いが湧き上がる。
「無理なんてしてないよ。悠真君には関係ないことだから。」
「でも……。」
「でも何?悠真君は自分の準備が楽しくていいね。周りと笑い合いながらやってるの、羨ましいよ。」
美咲が強い声で言い放った瞬間、悠真の表情が険しく変わった。
「美咲、それは言い過ぎだ!」
悠真の静かな怒りを含む声に、美咲は一瞬驚いたように目を見開く。しかし、すぐにその表情を硬くして振り返った。
「言い過ぎ?悠真君にはわからないよ!私がどれだけ大変な思いをしてるかなんて!」
「僕にわからないって?じゃあ言ってみてよ、美咲!君が一人で抱え込んでるもの、僕に話してくれたことなんてあった?」
悠真の言葉に、美咲は息を飲む。思わず視線を逸らし、悔しそうに唇を噛んだ。
「……だって、悠真君は、いつもみんなと楽しそうにしてて、私ばかりが苦労してる…。」
「それが本当にそう思えるなら、君は僕を全然見てないよ。僕だって不安だし、プレッシャーを感じてる。でも、美咲に手を差し伸べたいと思うのは、ただ君を助けたいからだよ!」
悠真の声が少し震える。その真剣な表情を見た美咲の胸には、言い知れぬ後悔と苛立ちが入り混じった。
「……もう、放っといて!」
美咲はそう言い残して走り去った。悠真はその背中をしばらく見つめたが、すぐに追いかけ始めた。
廊下を駆け抜けた先、屋上へと続く階段で美咲の姿が見えた。彼女は階段に座り、膝を抱えて小さく震えていた。肩はわずかに上下し、声にならない嗚咽が聞こえてくる。
悠真は静かに足を止め、そっと近づいた。彼女の隣に腰を下ろし、何も言わずにただ座った。その沈黙が、逆に美咲の涙を加速させた。
「……なんで、追いかけてくるの?」
美咲がぽつりと呟く。悠真は少し息を整え、静かに答えた。
「美咲が一人で泣いてるのを放っておけるほど、僕は冷たくない。」
その言葉に、美咲は顔を上げた。目元は赤く、涙が頬を伝っていた。そんな彼女の表情を見た悠真は、そっと手を伸ばし、自分のハンカチを差し出した。
「泣きたいなら、泣いていい。でも……自分を責めないで。」
美咲はその言葉にさらに涙を零しながら、ハンカチを受け取った。そして、自分の気持ちを少しずつ口にし始めた。
「私……頑張りたかったんだ。みんなに頼られるのが嬉しくて……でも、気づいたら一人で抱え込んでて……。悠真君が楽しそうにしてるのを見て、自分が惨めに思えちゃった。」
その言葉に、悠真は深く息をつき、そっと肩に手を回した。
「美咲、君がどれだけ頑張ってるか、僕は知ってる。でもね、君が一人で無理する必要なんてないんだ。僕はいつでも、君を支えたいと思ってるから。」
その言葉に、美咲は目を伏せたまま、そっと悠真の肩に頭を預けた。二人の間に流れる静寂の中、心臓の鼓動が重なり合う。
美咲が小さな声で呟く。
「……ごめんね、悠真君。私、意地張ってた。」
「いいよ。それだけ美咲が頑張ってたってことだろ。でも、これからはもっと頼ってほしい。僕だって君の力になりたいんだ。」
美咲は悠真の肩に顔を埋めながら、小さく頷いた。
「……うん。ありがとう。」
その一言に、悠真は少しだけ微笑んだ。夜風が静かに二人を包む中、星空が遠くで輝いていた。
美咲がそっと顔を上げ、目を真っ直ぐに悠真に向けた。
「ねえ、悠真君。」
「何?」
「もう一度、手伝ってって言ったら……助けてくれる?」
「もちろんだよ。」
その返事を聞いた美咲が微かに微笑む。二人の間に再び静けさが訪れるが、それはこれまでとは違う、心が通じ合った温かなものだった。
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