1 お山が奏でるさくらんぼ
まだクーラーがガンガンに効いている、夏休み明けの教室。涼しいはずの室内に、重苦しい空気が漂い始めてからどれくらいが経つだろう。
毎年秋に開催される合唱コンクール。その伴奏者決めのせいだ。
「誰か、ピアノを弾ける人はいませんか? 小学校まで習っていたとか、少しでも弾ける人は挙手してください!」
学級委員長が声を張り上げるも、皆、下を向いて押し黙っている。残るは課題曲の伴奏者なのだが、これがなかなか決まらない。
三年にとっては、受験を控えた大事な時期。部活も引退してやっと……という時に、合唱コンクールごときに時間を割くヤツなど何処にいるのだろう。
斜め前の机をチラリと見れば、難しい自由曲の伴奏をさっさと引き受けたピアノ女子、桜庭が複雑な表情を浮かべている。とうとう耐えきれなくなったのか、白い手を挙げ、消え入りそうな声を漏らした。
「あの……もし他にやりたい人がいなければ、私が二曲とも弾きます」
皆の目がパッと輝く。委員長も懇願するように担任教師の方を向くが、すぐに首を振られてしまう。担任は桜庭の方を見て、優しく……だがキッパリと言った。
「桜庭。気持ちは嬉しいが、二曲の内どちらかは必ず歌わないといけない決まりだ。両方伴奏することは出来ないんだよ」
「……はい、分かりました」
桜庭はそう返事をすると、白い手を膝に戻し俯いた。委員長は再び声を張り上げる。
「誰か引き受けてくれる人はいませんか? 課題曲は自由曲よりも簡単なので、ピアノ経験がある人なら、少し練習すれば弾けますよ!」
だからその練習が面倒なんじゃないかと苛々してくる。ここまで弾きたいヤツがいないなら、CDを流すとか、音楽教師が弾くとかにすればいいのに。正直、今こうしている時間もくだらない気がしていた。
しんと静まり返る教室には、秒針の音だけが響く。早く英単語の一つでも覚えたい……もうどうにでもなれと、俺は思わず手を挙げていた。
「……緑川君、弾けるの?」
『弾いてくれるの?』ではなく、『弾けるの?』。委員長のその問いにも、『お前ピアノ弾けたっけ?』という皆の視線にも苛々しながら、俺は答えた。
「ちゃんと習ったことはないけど。弾いてみた動画観ながら、ヨネヅとかは弾いたことがある」
これは本当だった。初心者でも簡単に弾けるとかいう動画を観ながら、父親の電子ピアノで遊んだことがある。……難しい部分は弾けなくて諦めたけど。
「そうなの。じゃあ、お願いします」
まあどうにかなるだろ。もし失敗したとしても、手を挙げなかったヤツらに文句を言う資格はねえと、前に出て軽い気持ちで楽譜を受け取る。
「もし難しい所があったら、音楽の先生に訊いたり、桜庭さんと助け合ってください」
桜庭と……
後ろを振り向けば、涼しげな切れ長の目と視線がぶつかる。大人びた顔でにこりと微笑まれ、胸が一気に騒がしくなった。
翌日の放課後、俺は桜庭と、音楽室の隅にあるアップライトピアノ(と言うらしい)の前に座っていた。
というのも、あれから帰って楽譜を開いた瞬間、自分が楽譜を読めないということに気付いたからだ。一応ネットで調べたり音源を聴いてはみたものの、サッパリ分からず。弾く以前の問題だと焦った俺は、早速こうして桜庭に助けを求めてしまった。
「……ごめん。大事な時期なのに」
「ううん。何も予定なかったから大丈夫だよ」
俺の苦労がアホに感じる速さで、楽譜にささっとドレミを書き込む桜庭。シャーペンをコトリと置くと、こちらを見て、またあの大人っぽい笑みを浮かべた。
「私、嬉しかったんだ。緑川君が伴奏を引き受けてくれて」
「え?」
「課題曲も自由曲も、どっちもすごくいい曲なんだもん。私、歌うよりもピアノを弾く方が好きだから、二曲とも弾きたかったのにダメって言われちゃって。でもみんな全然手を挙げてくれないから、課題曲が可哀想ってモヤモヤしてたの。そしたら緑川君が手を挙げてくれて……だから嬉しかった」
どちらかというと無口だと思っていた桜庭の熱い口調。圧倒され、「うん」としか答えることが出来ない。彼女が二曲弾くと申し出たのは、仕方なしにではなく、本当にピアノが好きだからだということがよく分かった。
黒いのや白いのやさくらんぼみたいなやつ。色々な音符の形から一通りリズムを教わると、桜庭の真似をして早速右手の前奏部分から弾いてみることにした。
……あれ? 音が上手く出ない。電子ピアノよりもずっと重い感触に戸惑う。力を入れてもう一度叩くと、ガンと耳障りな音が響いた。
「電子ピアノに慣れちゃっていると、生ピアノは弾きにくいよね。こうね、腕は力を入れるんじゃなくて、ゆるゆると脱力するの。手はお山みたいな形にして、指をコツコツさせると綺麗な音が出るよ。……あ、そうだ」
桜庭は立ち上がり、鞄から何かを外すと俺の手に握らせる。
……何だコレ。
クリームソーダ? の、アイスの部分に目と口が付いている、丸っこいぬいぐるみ。ちょうど掌にすっぽり収まるくらいの大きさだ。
「それを優しく握ったまま、鍵盤の上でひっくり返してみて。うん、そうそう。綺麗なお山が出来ているでしょう? その形を忘れずに弾いてね」
これは一体何の羞恥プレイだろう。中三男子ともあろう者が、こんなに可愛いぬいぐるみを握らされながら、ピアノを始めたばかりの幼い子供が教わるような基本に向き合っている。桜庭はそんな俺の羞恥心などお構いなしに、お山の中からさっとぬいぐるみを引き抜いて言った。
「……はいっ、その形のままで弾いてみて。あああ、ダメ。力が入りすぎてお山がぺしゃんこ。もしクリームソーダちゃんがそこにいたら潰れちゃってたよ? 腕はゆるゆる、指はコツコツね。はい、もう一回」
……結構厳しい。
それでも言われるがままにやっていると、最初よりもマシな音が出るようになってきた。まさか音を出すだけでこんなに大変だとは……
最終的にはペダルも踏まなきゃいけないことを考えると、気が遠くなってきた。
どうにか右手と左手の伴奏部分を教わると、今日はここまでにしようと言われる。うん、賛成だ。
なんと桜庭は、これから俺の塾がない火木の放課後、練習に付き合ってくれるという。親切すぎるだろ。
「ありがとう。桜庭も練習しなきゃいけないのに。時間を取ってほんとにごめん」
もう一度謝ると、さらっと返される。
「大丈夫だよ。もう弾けるから」
「……マジか。ひょっとして楽譜見て一時間くらいで弾けちゃうの?」
「ううん、15分くらい。初見で完璧に弾けちゃう人もいるけど、私は練習したよ。これから歌に合わせて強弱も調整していかないとね」
すげえ。レベルが違う。強弱なんて未知の世界だ。
自由曲の伴奏がそんなにハイレベルなら、課題曲も簡単に失敗なんて出来ないんじゃないか?
なんとなくそんな気になり、不味い唾をごくりと飲み込んだ。
途中まで帰る方向が同じ俺達。上履きを下駄箱に入れると、自然と並んで歩き出す。誰に見られても、偶然一緒になってしまったと胸を張れるような絶妙な距離で。……歩道が広くてよかった。
きっと気まずいだろうと心配していたのは最初の数歩だけで。桜庭の方から、色々と話を振ってくれた。
「私、人にピアノを教えるのは初めてで。分かりづらかったら遠慮なく言ってね」
「分かりやすかったよ。俺が全然出来ないだけで」
「そんなことないよ。すぐに覚えて弾けたじゃん」
……前奏の片手ずつだけな。あれをいつか、左右合わせて最後まで弾けるようになるんだろうか。
「私が届きにくい和音も簡単に届いちゃうしさ。やっぱり男の子は手が大きくていいよね。コンクールで賞を取るのも、スパン! と音を出す男の子ばっかり」
「桜庭、コンクール出てたの?」
「幼稚園から小三までね。毎回いい所までは行くんだけど、上には上がいて全国大会には出られなかったんだ。家の事情もあったし、もういいやって」
家の事情。
そういえば、『桜庭ちえり』は小三までは『白雪ちえり』だったなと思い出す。親が離婚したか、再婚したか……。デリケートなそこには触れずに、俺は素直な気持ちを口にした。
「そんなに弾けて、ピアノが好きならそれでよくね? 俺なんか、色々習い事したけど全然続かなかったし。小一の時の英語なんか、外人の圧がウザくてひと月で辞めた」
「圧って……」と、くすくす笑う桜庭。微笑んでもあまり変わらなかった目元が、くしゃりと細くなる。自分の言葉でこんな表情になった……そう思うと何だか嬉しくなった。
「そうだね……もしピアノがなかったら、私の人生はもっとずっとつまらなかったと思う。小さい頃は練習が大変で泣いたり、ピアノを蹴飛ばしてお母さんに怒られたりもしたな。もう要らないねって楽譜をゴミ箱に捨てられて、捨てないで~って慌てて拾いに行ったの」
「桜庭が?」
小学校の時から、成績も教師のウケもいい彼女からは想像がつかない。お行儀よく座って、黙々と楽譜に取り組みそうなイメージなのに。悪戯っぽい笑みと、次に発せられた言葉で、更に桜庭のイメージが変わる。
「だってね、楽譜を見て弾くよりも、自由に弾く方が楽しいんだもん。聴いていいなって思った曲とか、好きな曲とか。楽譜通りに練習しなきゃ、上達しないのは分かってるんだけど」
「え……ちょっと待って。桜庭、楽譜がなくても弾けるの?」
「うん。絶対音感があるから、耳コピ出来るよ」
「えっ、ヨネヅとかも?」
「うん、多分」
すげえ……すげえじゃん。天才かよ。
「聴きたい! 桜庭のヨネヅ。夏にやってたスポドリのCMの曲とか好きなんだよね」
「ああ、アレいい曲だよね。じゃあ明後日、練習の時に弾くよ」
「やった! あ、じゃあさ、明後日までに伴奏を両手で合わせられたら弾いてくれない? そしたら練習頑張れそう」
「いいよ」と笑う桜庭の目元は、またくしゃりと細くなっていた。
次の木曜日。桜庭のヨネヅ聴きたさに、勉強そっちのけで猛練習をした俺は、何とか両手で弾けるようになっていた。
今にも止まってしまいそうな、たどたどしいメロディー。それでも桜庭は、頑張ったね! と拍手をしてくれた。
「ご褒美になるか分からないけど……」と弾いてくれたヨネヅは、よく知っているメロディーなのにどこか違う。違うのにすごく良いと思うのは、まるで桜庭が歌っているみたいに聴こえるからだろう。
後奏が終わり、鍵盤からふわりと両手を上げた彼女は、すごく楽しそうな顔をしていた。
俺の拍手にこちらを向いた桜庭は、白い頬を上気させ、切れ長の目をキラキラさせながら笑う。
……あ、こんな表情も初めてだ。
「結構アレンジしちゃったんだけど、どうかな?」
「すごいカッコよかったよ。特に最後ら辺の音とか、ぐわっときた」
「本当!? 最後だけね、ロ長調に転調してみたんだ。そっちの方が素敵だなと思って。あ……もし原曲に忠実な方がよかったら、アレンジなしでもう一回弾くよ」
「ううん、俺、桜庭の方が好き」
桜庭の『ピアノ』もしくは『アレンジ』の方が好き。
そう言いたかったのに、言葉が足りなかった……。急にこっ恥ずかしくなり、目を逸らす。
「次は何を弾いてもらおうかな」とわざとらしく呟く俺を余所に、桜庭はカチカチとシャーペンの芯を出す。課題曲の楽譜に並ぶさくらんぼに幾つか丸を付けると、さっきとは違う落ち着いた調子で言った。
「ここね、もう少し滑らかに繋がるように、家で抜き出し練習してきて。左手の親指は強くなりがちだから、こことここだけでも優しく弾くよう意識してみて。はい、じゃあ右手の続きを弾いてみるから、一緒に音階で歌ってね」
……やっぱり厳しい。
ドレミを歌わされリズムを叩いた後は、あのクリームソーダちゃんをにぎにぎする儀式を経てから、ようやく弾き始めることが出来る。
「次の火曜日まで日にちが空くから、もう少し進むね。ちょっと長いけど、しっかり覚えて合わせてきて」
……すげえ厳しい。
この日の帰り道も、絶妙な距離感で一緒に歩いた。
次はヨネヅのどの曲を弾いてもらおうかという話から、自然に夢の話へと広がる。
桜庭は将来作曲家になりたいと考えていて、中一の頃から無料のアプリで作曲をしている。だけど桜庭の母親は、理系の大学に進んでそれなりの企業に就職して欲しいと考えているそうだ。音楽で生計を立てるのは大変だから、趣味程度に止めて欲しいと。
習わせたくせに勝手だなと俺が言うと、母子家庭で色々苦労したから仕方ないよと微笑まれた。
桜庭の家はやっぱり小三の時に離婚していて……父親の金銭トラブルのとばっちりを受けて、家計が大変だったらしい。それでもピアノだけは売らずに教室にも通わせ続けてくれたことを、今では母親に感謝しているそうだ。
あれもこれも習わせてもらったのに、どれもこれも長続きしなかった自分が、急に恥ずかしくなった。塾だって週何日も通っているのに、市販の問題集だけで勉強しているという桜庭よりずっと成績が悪い。
これじゃダメだなと頭を掻いていると、桜庭は明るい声で言った。
「緑川君は、サッカーすごい頑張ってたよね」
まあ、部活はそれなりにやってた方かな。楽しかったし。
「シュート決めるとこ、何回も見てたよ。難しい角度から沢山……カッコよかった!」
『何回も見てたよ』
『カッコよかった』
女子からこんなことを言われて嬉しくない男子なんていないだろう。いや、別に桜庭だからって訳じゃなく……と、ニヤケそうな顔を必死に抑える。
自分は将来スポーツに関わる仕事がしたいのだと、出来るだけ真面目な顔で語れば、桜庭は「お互い叶うといいね」とガッツポーズをする。子供みたいなその仕草に笑いながら、その日は別れた。
それからも桜庭にレッスンを続けてもらったお蔭で、予想よりも大分早く最後まで辿り着くことが出来た。
よく止まるし間違えるし、とても仕上がったとは言えない出来だけど……それでも何とか皆の歌に合わせて弾けるようになったことは、自分の中で大きな自信になった。
ピアノの練習に時間を取られていたはずなのに、中間試験の成績がぐっと上がり、両親にも驚かれた。それは多分、桜庭と接している内に、勉強に対する意識が大きく変化したからだろう。
前までは塾講師から言われるままの受け身の勉強だったけど、今は自分で考えて、能動的に効率良く勉強に取り組むようになった。きっとこれがよかったのだと思う。
期末も受験勉強も頑張って、伴奏もミスなく努めたい。今ではそんな風に思っていた。
あと半月で本番だ。出来るだけ暗譜するつもりで弾き込んで……ペダルの練習もして……そんな時に突如問題が発生した。合唱部の選抜メンバーが強化練習する為に、放課後の音楽室は立ち入り禁止になってしまったのだ。
どうしよう……家の電子ピアノにペダルはないし、慣れない分生ピアノで練習しておきたいのに。
不安に襲われ、教室の机でトントンと指を動かしていると、いつの間にか桜庭が横に立っていた。ぼけっとする俺を見下ろし、二人きりの時とは違う、少し他人行儀な感じでこう言った。
「緑川君。あの……もしよかったら、家のピアノで練習する?」