仲間
山本たちと作戦を立てた翌朝も、太陽が雲の隙間から柔らかな光を差し込み、春の訪れを告げるウグイスの鳴き声が響いている。
植物たちは青々とし始め、生命の息吹が感じられる。職場に到着すると、和田が事務机の椅子にもたれかかり、眠そうな顔をしているのが目に入った。
昨日の打ち合わせの影響かもしれないが、小泉は軽く挨拶をしながら、和田の様子を気にしつつも日常の業務に戻った。
「おはようございます」
挨拶をすると、
「うい、おはよう」
和田が珍しくおはようと返してきた。
昨日、山本たちと飲む前までは、和田のことは大嫌いだったが、和田は無関係かもしれないと思うと、何故か仲間意識が生まれた。
十四時になると、吉川と徳山が出勤してくる。徳山だけにあの話をすると、近くに制御する人がいなくなると思い、吉川にも同じ話をした。
すると、意外にも吉川と徳山の反応は好ましいもので、上層部、とりわけ横山のやり方に不満を抱いているようだった。
吉川曰く、横山は、上司が見にきている時だけ、アルバイトに優しくし、監視の目がない時は、まるでパワハラのような言動を繰り返していたと言う。
また、徳山も同じ証言をし、二人とも横山には心底ご立腹のようだ。
さらに、以前に役員が視察に来た際、「皆さんの時給を大幅に上げる」と言っていたそうだが、一度も上がったことはないと言う。約束を守らない連中と憤慨しているようだ。
徳山に和田の偵察を頼み、吉川には大学生への説得を頼んだ。
十七時になると、大学生のアルバイトたちが次々と出勤してきた。小泉は事前に吉川に伝えていたことを、さりげなく彼らに共有してもらうよう頼んでいた。
吉川は面倒見がよく、学生たちとの信頼関係も厚いので、安心して任せることができる。
退勤時、吉川が戻ってきて報告してくれた。
「大学生たち、引き受けてくれると言ってましたよ」
笑顔で言う。
「本当ですか?」
小泉は驚きとともに尋ねた。全員が引き受けてくれたことが意外だったのだ。
「ええ、吉川さんの頼みならって言ってました。さすがですね」
自慢げに言う吉川を見る。そして、吉川に全幅の信頼を寄せる学生たちの様子を思い浮かべる。
さすが吉川さん、と小泉は心の中で感心した。吉川の人望は本当に熱い。
自分一人では決してこうはいかなかっただろうと、改めて感謝の気持ちが湧いてくる。
「ありがとうございます。これで、陰謀に一歩近づきましたね」と、小泉は半ば冗談交じりに言った。
吉川は笑いながら「いえいえ、また何かあったら言ってください」と言い、
「そういえば、徳ちゃんはどうしてます?」と尋ねた。
徳山は、最近和田にやたらとべったり付き纏っている。和田はそのたびに嫌な顔をしているが、徳山は気にする様子もなく、相変わらず和田に話しかけている。
その光景が何とも滑稽で、小泉はつい苦笑してしまう。
「徳山さんには、偵察してくださいって言ったんですけど、どうも和田にずっと話しかけてるんですよ。あれって偵察になってるんですかね?」
吉川は困ったように笑いながら、「徳ちゃんって、どうでもいい話を永遠に繰り返すんですよ。同じ話を何度も聞かされます。和田さんもきっと辟易してるでしょうね」
そう笑いながら答えた。
「大変ですね」と小泉は同情した。
確かに、無限ループのような徳山の話を延々と聞かされるのは、どんなに我慢強い人でも疲れるだろう。
「はい。見ているとまるで、落ちそうで落ちない鳥人間コンテストを見ているかのようですよ」
吉川が冗談めかして言うと、小泉は思わず吹き出した。
そのたとえが妙に的を射ていて、和田と徳山の微妙な関係が頭に浮かんでくる。和田は落ち着かない表情を浮かべながらも、徳山の話に適当に相槌を打っている姿が、まさに吉川の言う通り、滑稽でありながらどこか憎めない。
笑いが収まると、吉川は「それじゃ、今日はこれで失礼しますね」と言い、退勤していった。
小泉はその背中を見送りながら、吉川に感謝の気持ちを改めて感じていた。彼女の協力のおかげで、計画は着実に進んでいる。
それから数日が過ぎ、春の朝が訪れた。
カーテンの隙間から柔らかな陽光が差し込み、淡い桜色の光が部屋を包む。
外では、花びらが風に舞い、時折、鳥たちが空を切り裂くように飛び交っている。窓辺には春風がそよぎ、新緑の香りがほのかに漂ってくる。
穏やかで、どこか夢見心地な朝が、小泉の心にも一瞬の安らぎをもたらしていた。
ダイニングルームに行くと、ネットで注文したであろうお菓子を和美は、少しずつ食べている。
「なんだそれ」
「あー、これね、アマゾンで訳ありお菓子って、安いのを買ったのよ」
そう言って、またドイツ菓子のフロランタンを袋から取り出し、紅茶と共に嗜んでいる。龍斗はまだ眠っている。
朝食を済ませた小泉は、ゆっくりと書斎へと足を運んだ。
今日は、一日ゆっくりと趣味の読書に没頭しようと決めていた。忙しい日常の中では、なかなかこのような贅沢な時間を取ることができず、書斎で過ごす静かなひとときは、小泉にとって特別なものだった。
小泉は特定のジャンルにこだわらず、幅広い文学作品を好む。ミステリーで言えばアガサ・クリスティ、純文学では川端康成や夏目漱石、そしてホラー作家のスティーヴン・キングまで、多彩な作品を読んでいた。
最近では、SF小説にも関心が向いており、特にフィリップ・K・ディックの作品に惹かれていた。今日はその一冊、「流れよわが涙、と警官は言った」を手に取った。ディックの代表作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んだ後、彼の独特な世界観に魅了されたことをきっかけに、さらにSFの世界に引き込まれていったのだ。
書斎に入り、柔らかい光が窓から差し込む中、小泉は椅子に腰を落ち着け、ディックの物語に身を委ねる。
ページをめくる音だけが響く静かな空間は、まさに理想的な読書の環境だった。
デスクの脇には、淹れたてのほうじ茶が置かれている。その香ばしい香りが鼻をくすぐり、時折、茶を少しずつ飲みながら物語に没頭していった。
ディックの作品は、ただのSFではなく、人間の本質や社会の歪みを描き出す哲学的な側面も持っている。
読み進めるうちに、小泉は物語の複雑な世界観にどんどん引き込まれていく。
現実とは違う未来の世界で起こる出来事が、どこか自分の日常とも重なって感じられる瞬間があり、その感覚が小泉を魅了してやまない。
ほうじ茶の心地よい苦味を口に含みながら、小泉はふと、こうした静かな時間がどれだけ貴重かを改めて感じた。忙しさに追われていると、こうしたゆったりとした時間は簡単に奪われてしまう。
しかし、今この瞬間だけは、何も邪魔されることなく、自分だけの世界に没頭できる。その幸福感に包まれながら、小泉はさらにページを進めていった。