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沈黙の荷物

 午前十時。

 和美は既に軽やかな足取りで台所に立ち、優しい香りの漂う軽食を作ってくれている。


 いつも通り、その温かな手料理を口に運びながら、静かな朝のひとときを過ごすのが、小泉の日常だ。窓から差し込む陽光がテーブルに反射し、空気を柔らかに染め上げる。


 鏡の前で丁寧にちょび髭を整え、整然とした身なりに満足すると、車に乗り込む。エンジンをかけると同時に、車内にはクラシック音楽がふんわりと流れ出す。


 朝の澄んだ空気を切りながら、緑豊かな街路を抜け、職場へ向かう一時間のドライブは、彼にとって心を落ち着かせる大切な時間だ。


 流れる景色と、優雅に奏でられる音楽が織りなす瞬間は、まるで小さな旅のようだった。


「今日は、シベリウスだな」


 シベリウスの交響曲第二番が車内に響き渡る。弦楽器が奏でる北欧の森のざわめきのような旋律が、空気を一変させた。


 小泉はその音に包まれながら、アクセルをゆっくりと踏み、駐車場をあとにする。外は連日の快晴。澄み渡る青空の下、光を反射する街路を進むたびに、自然と気分も上向いていく。


 雨の日ならどこか沈みがちな心。

 今日はまるで音楽と陽光に導かれるように軽やかだった。


 小泉の職場は、ルックスという日本でトップクラスに入る大きな運送会社である。職場に着くと、福田平八という同期の社員が既に着いていて、昨日の職務の残りをこなしていた。


「今日も早いな」


「え?早く終わらせないと、上が怒るんだよ」


 この部署の上司はかなり部下に厳しいと噂されている。


「まあな、あいつはどこでも嫌われているな」


「そりゃそうさ、いつも腕組んで偉そうに指図しやがるからな、みんな嫌いだよ」


 二人で、上司の悪口を言っているところに、別の上司の平井権三がやってきた。平井は、二人ずつ息子と娘がいる。小泉と福田とは十歳も離れているが、一家の大黒柱なので、部下に対しても優しく接してくれる。


「お疲れさん、いつもありがとうな」


「いえいえ、平井さんこそ」


 福田がヘラヘラしながら、平井の元へにじり寄って行った。小泉も挨拶を交わし、今日の業務の内容を確認し合った。十四時からのアルバイト、十七時からのアルバイトが出勤してくるが、それまではこの三人が分担して準備しなければならない。


 小泉らが働く部署の業務内容は、冷蔵商品と冷凍食品の仕分けと発送。常に職場の温度は十度以下に保たなければならないため、夏は良いが冬は地獄のようだ。


 四月はどちらでもない。どちらかと言えば暑いのかもしれないが。寒い室内で働いていても太陽光は入ってくるので、体感ではそんなに寒くはないし、動き回っていると気温なんて忘れてしまう。書類を整理したり作成している時の方が辛い。


 可動式の冷蔵庫と冷凍庫の中を洗浄し、それぞれを定位置にセットする。それだけで十四時を過ぎる。十四時からのアルバイトは、周囲の評判がいい吉川秀美と、喋り過ぎて周りから嫌厭されている徳山幸子が出勤してくる。


「おはようございます」


 吉川と徳山が明るく挨拶をしてくれた。小泉と福田も挨拶をする。


「え、今日って荷物多いんですか、忙しくなりそうですか」


 徳山が早速質問をしてきた。


「ええ、ちょっと最近は物量が増えてきていますね」


 福田は面倒くさがらずに丁寧に返事する。今日の物量の多さなどを共有し、必要な書類の作成や保冷剤やドライアイスの量を確認し、冷蔵庫と冷凍庫に入れる。吉川と徳山が作業しに行った。この作業も時間がかかる。


 十七時になると、よく派遣社員からサボっていると噂を聞く大学生五人組がやってくる。今日は、上田敏樹と上端草太、丸谷浩太が出勤してきた。三波裕哉と太田芳樹は、なぜか来ていない。連絡も来ていないので、遅刻か無断欠勤だろう。


 小泉は父から、約束と時間を守れない人間にはなるなと、小さい頃からずっと叩き込まれている。だから、時間と約束を守れない人間が大がつくほど嫌いだ。


「他の二人は?」


 小泉が厳しい目で三人に聞く。


「あー、多分遅れてきます」


 上田が面倒くさそうに答えた。


「何で電話しないんだ」


 再び、厳しく問いただした。


「分かんないっす」


 上田がだるそうに答える隣で、上端はクチャクチャと音を鳴らしてガムを噛んでいる。


「お前はガムを食うな、ここは職場だ」


 しっかりと注意をし、今日の業務の指示を出した。


「全く、あいつらは」


 小泉が不機嫌になったのを見てとって、福田がまあまあと笑っている。


「でも確かに、あいつら入ってまだ1ヶ月も経たないのに、あの態度は困るよなぁ」


「そうなんだよ」


 彼ら五人は四月の一日から入ってきたアルバイトである。初日からあの感じだったので、小泉は嫌な奴らだと思った。全く、人事の人を見る目は、皆無過ぎて呆れる。


 小泉の職場は、東京中の営業所から集荷され、集まってくる。何もない四月から六月と、九月から十一月中旬まで、穏やかに職務を遂行できる。しかし、それ以外の期間は繁忙期で、特に年末は地獄のような職場と化す。普段でも社員とアルバイトだけでは人手が足らず、派遣社員を雇うほどである。


 今日、大学生二人が来なかったので派遣社員への負担が大きくなる。慣れていない業務を多くしてもらうのは気が進まなかったが、何とか派遣社員の大山と杉谷、阿久津を納得させた。この三人はいつも入ってくれて、小泉は本当にありがたいと思っている。


 その三人がデスク横の壁で話をしているのが聞こえた。


「阿久津さんって、どれくらい来られてるんですか」


 大山が訊いた。


「俺はもう五ヶ月くらいっすよ。大山さんは?


「私はまだ三ヶ月ですね」


「え、俺が一番、歴が短いのか」


 杉谷が言うと、大山と阿久津が笑った。


「俺らいるんで、困ったら言ってくださいよ」 


 阿久津が誇らしげに大山に手を向け、杉谷に言う。


「ありがとうございます、まだ一週間なんで」


 小泉がそのやりとりを見ていると、阿久津が話しかけてきた。


「今日、どんな感じっすか」


「今日は、昨日より千五百個ほど荷物が多い予想です」


「まじかぁ、大変だわ」


 阿久津はそう言いながらも、全然大変そうに思っていなさそうだ。むしろ、体を動かすことを楽しんでいるようだ。


「今日、多いんすか」


 杉谷が阿久津に訊いている。


「多いらしいっす、やばいっすね」


「あ、ほんと? やだなぁ」


 派遣さんのやりとりは、答えるのも見ているのも全然嫌にならない。むしろ、こういう人たちがいるから楽しくなっているのかもしれない。


 二十時を過ぎた頃、東京中の荷物が一斉に運ばれてくる。一気に物量が増えるのは二十時前後である。中央道が渋滞していると、その時間が後ろへずれる。


 可動式の冷蔵庫と冷凍庫は、荷物が入っていると七百キログラムはゆうに超えるだろう。キャスターが付いていても、押したり引いたりするのはかなり力がいる。女性には厳しいため、男性が活躍し、女性は冷温室内で仕分けをしてもらう。


 二十二時には、全ての発送を終えなければならないのだが、今日は中央道が渋滞しており、最終的に全て終わったのは、二十三時を二十分過ぎた頃だった。派遣さんは二十二時退勤となる。残ってくれた吉川と徳山、おサボり大学生と急いで残りの業務をこなしていると、上司の横山崇尚が業務統括部長である熊瓦伝助の横をコバンザメのように引っ付いて歩いてくるのがわかった。また、嫌味を言われると思ったのか、福田がため息を吐いた。


「おいおい、チミたち」


 横山が鼻につく甲高い声で、話しかけてきた。


「まだ終わらしていないのか、深夜の人たちに迷惑をかけるのは如何なものか」


 身長百九十センチを超えるであろう熊瓦は、かなり上から横山を横目で見ながら話しかけてきた。


「ま、中央道の渋滞は避けられる事由ではなかった。君たちの過失はないが、一昨日の発送分でちとクレームが入ってのう」


「クレームですか」


 小泉は何のことがわからなかった。


「そうだ。チミたちが担当していたとされる荷物の破損が、お客様からお叱りのお言葉を頂いた。どう責任を取るか聞かせてもらおうか」


 横山は、なぜか小泉たちを見下している。


「どのような内容のクレームでしたか」


「いちいち説明しないといけないのか」


「分からないので」


「温度不良だよ」


 横山は、笑いを我慢しているのか、肩が揺れている。


「ま、これは珍しい事案ではないが、起こしてはいけないことではある。私がしっかりと対応しておく。注意して取り組んでくれたまえ」


 熊瓦は、横山と違って中立的な立場で話していた。横山は、もっと厳しい叱咤が出ると期待していたのか、少し呆気に取られたような顔をしていた。それを見た福田が、フッと鼻で笑った。


「おい、チミ。今笑ったのか」


 横山がすぐさま反応したが、熊瓦に制止させられた。


「ま、今日のところは、以上である」


 熊瓦が大股で歩くのに対し、横山は熊瓦の二倍の歩数を要している。


「何だあいつ、チビのくせにいきりやがって」


「まあまあ、ああいうやつは相手にしない方がいい」


「腹立つだろう、でも」


「まあな、渋滞はどうしようもないし、熊瓦はそれついては怒ってなかったから大丈夫だ」


「渋滞はいいとしても、温度不良ってことはあいつら大学生の準備が甘かったのか」


「多分な、注意はするが、言うこと聞いてくれるかは分からん」


 荷物は受動的に運ばれる。温度が気に食わなくても、声を出さない。つまり、我々が常に気にかけなければならない。


「面倒だなぁ」


 福田が間伸びした声で言った。本当にそうだ。横山は異動し、別の階で働いているが、ここのように、冷気が全くなく、むしろ灼熱の環境である。恐らく、ここに新しく来た小泉たちに嫉妬しているのだろう。横山が担当していた頃は、温度不良が続出していたという噂すら聞く。自分の事は棚に上げる全く呆れたやつだ。


「さ、今日のを早く終わらせるぞ」


「ほーい」


 いつも通りのやり取りを終え、帰路に着いた。

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