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鋭監視線

 大山が前夜、熱のこもった分析を一席ぶっていた翌朝。

 小泉は、まだ眠気を感じるままに大きなあくびを一つしながら、ゆっくりと身体を起こした。

 窓の外には、変わらぬ青空が広がっている。まるでその晴天が小泉の心にじわりと染み込むように、陽射しは強まり、気温も少しずつ夏の訪れを告げている。

 雨が一滴も落ちない日々、暑さは確実に彼らの世界を包み込みつつあった。

 小泉は冷蔵庫を開け、氷のように冷えた牛乳を取り出す。その絹のように白い液体が、コップに注がれる瞬間、静かな涼しさがキッチンに漂った。

 遠くでは、妻の和美が龍斗の着替えを手伝う声が聞こえる。

 今日、彼らをサポートするマネージャーは和田から交代する日だ。

 心のどこかで、普通で穏やかな人物が来てくれればと願いつつ、小泉は一口、冷たい牛乳を飲み干した。

 テレビ画面では、総裁選前夜の特別番組が放送され、候補者たちの顔が新聞の一面を埋め尽くしている。

 その光景は、まるで時代の風が静かに動き始めたことを告げるかのようだった。

 和美が龍斗を学校に送り出すと、家は静寂に包まれ、小泉は一人で用意された朝食に手をつけた。テレビでは、総裁選二日前になり、最有力候補となった一ノ瀬幸一が大々的に報道されている。

 その賑々しさが、小泉の静かな朝の時間をじわりと侵食していくのを感じた。

 小泉はふとテレビの音を消し、ステレオスピーカーの電源を入れて、グラズノフの交響曲第五番を流すことにした。

 重厚な管楽器の低音が部屋中に響き渡り、その瞬間、小泉の心は中世ヨーロッパの古城や騎士たちが活躍する幻想的な世界へと引き込まれていくかのようだった。

 日常の喧騒を忘れ、音楽に身を委ねるひとときは、小泉にとって至福の時間である。

 朝食を終えた後も、彼はそのままソファに身を沈め、楽章ごとに移り変わる交響曲の深みを堪能していた。

 特に、最終楽章が近づくにつれ、その旋律は彼の心をさらに高揚させる。

 だが、楽曲が終わりに差し掛かったその瞬間、玄関のドアが開く音がし、現実に引き戻された。

「今日は暑いわね」

 と和美が帰ってきた。

 ポストに入っていた広告を団扇がわりにして、風を送りながら小泉にそう告げる。

「そんなに暑いのか?」

「うーん、蒸し暑い」

 と和美は顔をしかめる。

 季節は早くも高温多湿の時期へと移りつつあるようだった。

 小泉はできるだけ寒い季節にこの暑さが訪れないよう願っていたが、太平洋高気圧がすでにその力を誇示するかのように、列島を包み込んでいた。


 小泉が職場に着くと、平井と談笑している和田の隣に、見慣れない男が立っていた。

 その男は背が高く、筋肉質な体つきをしており、一目でただ者ではないと感じさせる風貌だ。

 和田の話に耳を傾けながら、無表情で立っているその男に、小泉の目が止まる。

「ああ、小泉くん。こちらは山下さんだ」

 平井が小泉に気づき、その男を紹介した。

 山下雄也は、まるで俳優のように、きめ細やかな白い肌と整った顔立ちで、目には鋭さが宿っていた。

「どうも、山下です。宜しくお願いします」

 と山下が一歩前に出て、挨拶をした。

 小泉は内心、これまでの心配が消えたようにほっとしながら、普通の人が来たと安堵し、笑顔で出迎えた。

 山下は右手を差し出し、握手を求める。

 その手は大きく力強く、小泉はその握力に驚きを感じながらも、しっかりと握り返した。

「今日から、山下さんがマネジメントを担当してくれることになった。私も時々顔を出すが、これからは山下さんが主に君たちのサポートをする」

 と和田がどこか寂しげな表情を浮かべて言った。

「ええ、こちらこそ宜しくお願いします」

 と小泉が答えると、山下はわずかに笑みを浮かべながらも、その鋭い視線で小泉を見下ろし、宜しくと再度繰り返した。

 山下に業務内容を一通り説明していると、いつの間にか時計の針は十七時を回っていた。

 ちょうどその頃、吉川と徳山にも山下を紹介していると、大学生アルバイトの三波、太田、上田、上端、丸谷の全員が、揃って五分ほど遅れて出勤してきた。

 彼らはいつも通りの気怠い様子で、遅刻のことを特に気にしていない風だ。

「おい、遅刻だぞ」

 山下が鋭い声で静かに叱責すると、その場の空気が一瞬で張り詰めた。

「あ、すいません」

 と三波が、気怠そうに肩をすくめながら答える。

 いつもならこれで終わるはずだったが、山下は容赦しなかった。

「次遅れたら、上に報告する」

 その一言には、明確な警告の色が含まれていた。山下の目は鋭く、言葉に隙はない。

「うい」と、太田と上田も面倒くさそうに返事をするが、山下の厳しい態度に普段のふざけた調子はどこか影を潜めていた。

 これまで曖昧だったルールが一気に厳格になり、彼らはその変化を敏感に感じ取っていた。

 小泉はその様子を見ながら、山下の統率力に一種の抵抗感を覚えつつも、学生たちがどう適応していくのか、少し不安を感じた。

 彼らはこれまで曖昧な態度で業務をこなしてきたが、山下の下では通用しないだろう。

 これが彼らにとって、成長の機会になるのか、それとも反発が生まれるのか、今後の展開が気になるところだった。

 その日の業務は、山下の存在感によって、いつもより張り詰めた空気が漂っていた。

 吉川と小泉が二人で世間話をしている。

 事務机では、山下が美しい姿勢で報告書をまとめている。その集中した姿は、まるで映画かドラマのワンシーンのようで、無駄のない動作が印象的だ。

 机に向かう背筋の伸びた姿を見ていると、小泉でさえも職場の喧噪がどこか遠くに感じられるほどだった。

 一方で、小泉と吉川は軽く箒で床を掃きながら、何気ない作業を続けていた。

 そんなとき、大学生組の声が背後から聞こえてきた。

「なあ、あの山下ってやつ何?」

 上端が低くぼやくように言う。

「さあ、和田さんの代わりじゃね?」

 上田が答えた。

「えー、まじだるいわ」

 上端の声に、他の三人も軽く笑いながら同意した。

「いちいち厳しんだよ」

「それな」

「厚生労働省の職員みたいだな」

「さあ、よく分からんけど」

 彼らは思い思いに不満を漏らし、ささやかな反発を抱いているようだった。

 言葉にしっかりとした裏付けはなく、ただ愚痴を言いたいだけのようにも聞こえる。

 そんな無責任な一言が、五人の間に軽い笑いを呼び起こした。若い学生たちの軽口が響く。

 すると、山下が静かに事務机から立ち上がり、無言のまま大学生組に向かって歩み寄っていった。その姿は威圧感に満ちており、背筋を正したままの動作には、微塵の揺るぎもなかった。

「おい、まだ仕事終わってねぇんだよ、喋んな」と、冷たく響く声で一喝した。

 彼の言葉には、ただの注意を超えた重みが感じられ、学生たちは一瞬で静まり返った。

 五人は、まるで鳩のように頭を一斉に前にピクっと動かすような会釈をするだけで、言葉を返すことはしなかった。

 彼らの間に漂う緊張感を感じ取った小泉は、思わず息を飲む。

 山下が事務机に戻ると、大学生組の何人かが小さく舌打ちをしたのが聞こえた。

「もう、あの人ももう少し穏やかに注意すればいいのにね」

 隣にいた吉川が溜息混じりに同情を示す。

「そうっすよ」

 と丸谷がすぐに賛同した。

「確かにちょっと厳しいですね」

 小泉も軽く同調すると、吉川は呆れたように、やや落ち込んだ声で答えた。

「ちょっとどころじゃないですよ。さっき、ちょっと疲れたからしゃがんでたら、怒られましたよ」

「ええ、吉川さんも?」

 驚いたように三波が声を上げた。

「ええ。『座るな』ってきっぱり言われましたよ」

 吉川の言葉に、大学生組が一斉に彼の周りに集まり、まるで戦友を慰めるかのように彼を囲んだ。

「さすが厚労省。やりすぎだよな」

 と、誰かがぽつりと呟いた。

 その言葉に、小泉は眉をひそめる。

「ん? 厚労省? あの人、厚労省の人なのか?」

 その問いに、大学生たちは一瞬戸惑ったが、すぐに笑って答えた。

「いやいや、違うっす。厚労省っていうのは、要するにサボってる奴を見つけたらすぐ注意してくるっていう例えっす。俺たちの間で、山下さんのことをそう呼んでるだけです。業務改善命令を出すみたいに、すぐに口を出してくるから、そんな感じのノリなんすよ」

 その説明に、小泉はようやく理解が追いついた。

「なるほど、そういうことか」

 と、胸のつかえが取れたような表情を見せる。

 確かに、山下の厳しさは異常に思えることもあるが、職場を効率的に動かすためには必要な厳しさなのかもしれない。

 大学生たちは皮肉めいた笑いを浮かべながら山下を茶化していたが、小泉はその反応を見て、彼らが意外にも物事を俯瞰して見られるのだと感心した。

 だが、同時に、この職場の若者たちがどこまで山下の管理に耐えられるか、その未来が少し不安でもあった。

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