優雅な朝
「はーあ」
大きなあくびが、思わず口をついた。
それも無理はない。昨日は嫌いな上司にあれこれ言われた挙句、零時まで残業させられ、帰宅したのは深夜だった。
小泉は、株式会社ルックスという大手の運送会社に勤めている。力仕事なので、疲れはすぐに溜まる。
今日も疲れが抜けきれず、小泉義彦は朝の食卓でぼんやりとそのことを思い返していた。
目の前では、小学校二年生の息子・龍斗と妻の和美が言い争いをしている。
特に珍しい光景ではなく、二人は時々、些細なことで口論を繰り返している。龍斗が何か反抗的な態度をとると、すぐに和美が注意し、そのやりとりが堂々巡りになるのが、ここ数週間の朝の風景だ。
「龍斗、宿題は夕方のうちに済ませなさいって言ったでしょう?」
和美の声が少し鋭くなる。
「でも、お母さん! 昨日は友達と遊びたかったんだよ。すぐには終わらなかったんだもん」
龍斗も負けじと声を張り上げる。
「言い訳しない」
和美が言い返すと、龍斗はぷいっと顔を背けた。
そんなやりとりを横目に、小泉は目玉焼きの黄身をフォークで潰し、トーストの上にそれを塗り広げる。
きつね色に焼かれたパンの香ばしい香りが、少しだけ彼の苛立ちを和らげた。
頬張った一口は、多少気分を持ち直す助けになったが、疲れは依然として体中にこびりついていた。
ふと時計に目をやると、もうすぐ七時を回るところだった。
異動してからというもの、小泉の始業時間は午後の十二時に変わっている。以前の部署では朝八時半が出勤だったが、今は少し遅くまで家にいられる。
普段ならこの時間、家でのんびりと過ごすことができるはずだった。
だが、朝から家の中が落ち着かない。和美と龍斗のやりとりがうるさく、そのせいで一度目が覚めてしまうと、もう二度寝することはできない。
ベッドに戻っても、太陽の光が無遠慮にカーテンの隙間から差し込み、眠りを邪魔してくる。
じっとしていると、ますます睡魔は遠のき、寝返りを打つたびに時間だけが無情に過ぎていく。
「本当に、朝から騒がしい」
小泉は独り言のように呟いた。
ベッドでは、睡魔は引っ込むくせに、こうして食卓につくと途端にあくびが止まらなくなる。
体がリラックスし始めると、抑えようもなく眠気が押し寄せてくるのだ。逆に言えば、朝からリラックスできる時間が少ないのが問題かもしれない。
そう考えながら、小泉は再びトーストに手を伸ばした。だが、やりとりに全く終わりが見えない龍斗と和美の口論が、再び耳に入ってくる。
二人は、算数の宿題がまだ終わっていなかったことを揉めている。
小泉は仕方なくため息をつき、二人の間に口を挟むことにした。
「和美、そんなにガミガミ言わなくてもいいだろう。龍斗も、もうちょっと計画的にやるようにしろ」
彼が間に入ると、一瞬だけ二人の口論が止まった。
しかし、和美は納得しないように眉をひそめ、龍斗も不満そうな顔をしている。
結局、二人の言い争いはすぐに再開し、再び家の中に騒がしさが戻ってきた。
「もう少し静かにしてくれよ、朝なんだし」
小泉は小声で呟くが、彼の言葉はどこにも届かないようだ。
小泉にとって、最近の朝の雰囲気はどうにも落ち着かない。
「まあ、俺がもっと早く帰れてれば、こんなこともないのかもな・・・・・・」
半分目を閉じたまま、ぼやいた。
そんなことを考えながら、小泉は残りのトーストを無心で食べ続けた。
朝食を終えた頃には、龍斗と和美の言い争いも収まり、家の中は静けさを取り戻した。
小泉はコーヒーを飲みながら、しばしぼんやりと窓の外を眺める。朝の光はもう完全に部屋に入り込み、眠気を吹き飛ばしている。
「さて、出勤までまだあるな」
そう呟いた小泉は、新聞を手に取ると、久しぶりにゆっくりとした時間を過ごすことにした。
テレビをつけると、政治のニュースが番組を支配している。まもなく、与党である総民党の総裁選が行われるからだ。総裁選は、党員が投票するため、我々庶民には、直接関係のない話ではあるが、やはり庶民の生活を第一に考えてくれる人物がいい。小泉は、そんなニュースを観ながら、コップにウォーターサーバーから水を汲み、喉を潤した。
七時四十分には、和美が龍斗を学校に連れて行った。最近物騒な事件が多いため、低学年の児童は保護者が送迎をしなければならない。
二人が家を出ると、小泉は静かな一人の時間を過ごすことができる。ステレオスピーカーに、マーラーの交響曲第五番のCDを入れ、第五楽章を選択した。マーラーは、シノーポリ指揮が良い。第一楽章は、トランペットの不穏なメロディは朝に似合わない。第五楽章のホルンとファゴット、オーボエの朝の鳥のような雰囲気を漂わせるこの一曲がお気に入りである。
軽やかで華やかな音楽が部屋を包むと、小泉はベランダの観葉植物に水をやろうと、キッチンでジョウロに水を汲んだ。
強い日差しが、外の世界を照らし、小泉もその一部に加わった。四月の静謐な朝は、小泉の中でも最もリラックスできる時間である。交響曲を背後に聴きながら、水をやっていると、ベランダの柵にスズメが二羽飛んできた。近づくとすぐに逃げるので、敢えて近づかない。毎朝飛んでくる子たちだ。
「お前らも暑いだろう」
小泉は、ベランダで静かに水を撒きながら、ふと横目でスズメの姿を捉えた。可愛らしい小さな体を揺らしながら、庭の片隅で何かを啄んでいる。
そんな光景に目を留めつつ、手元のじょうろから出る水を植物たちへと注いでいく。
ベランダには、息子の龍斗が育てているアサガオと、妻の和美が大切にしているプチトマトや茄子が並んでいる。
毎年、和美は夏の家庭菜園に精を出し、プチトマトや茄子は大量に実をつける。
それに比べて、龍斗のアサガオは決して食べられるものではないし、花が終わるとすぐに処分されてしまう。
期間限定の儚い命。
「今年も順調に育ってるな」
小泉は、心の中でつぶやきながら水やりを続けた。
ベランダの片隅にあるプランターには、茄子やプチトマトの苗がある。
家族で育てたものが収穫された時、それらが食卓に並ぶのは、なんとも言えない充実感がある。
「これで今日の水やりは終わりか」
小泉はホースを片付けながら、自分の仕事を終えた気分に浸った。
朝の気温は少しずつ上がり、太陽がじりじりと世界を照らし始めている。
しかし、その強い日差しが届く前に、小泉はこのひと時を終わらせていた。
これで午前中の植物への義務は果たした。
庭での作業を終えた小泉は、家の中へと戻り、ソファーに深々と身を沈めた。
ここからが、彼の密かな楽しみである二度寝タイムである。始業時間は正午からなので、この時間を贅沢に使うことができるのだ。
今朝の騒々しかった家の雰囲気も、少し落ち着きを取り戻し、外からは風に乗って小鳥たちのさえずりがかすかに聞こえてくる。
ソファーに横たわり、目を閉じると、体全体がリラックスしていくのがわかる。小泉は、外の心地よい音を聞きながら、ゆっくりと眠気に身を委ねていく。
これが一番の贅沢だなと、小泉は思った。
仕事が始まるまでの数時間、この静けさと安らぎは彼にとって最高のひとときだ。
家族のために毎日働いている自分への、ささやかなご褒美でもある。
再び目を覚ましたときには、きっと和美は家事を終えて何か作業をしているだろう。
だが今はただ、ソファーの柔らかさと、かすかな鳥の声を楽しむことにした。
こうして、二度寝という名の短い休息を取りながら、小泉は仕事へ向かうための英気を養っていた。
仕事の忙しさやストレスに追われる日々の中で、この何気ない静かな時間こそが、彼にとって何よりの癒しでもある。




