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真実の縁

 ルックス本社の二十五階、都心の喧騒が遠のき、静寂が支配するフロアに薄暗い月光が差し込んでいた。窓越しに見える街の光はまるで冷たく輝く金融市場のグラフのように、無機質で不安定な輝きを放っている。その空間に、一人の男が影のように現れた。

 彼の足音は、カーペットに吸い込まれるように一切響かない。壁に映るシルエットは鋭利で、どこか機械的な正確さを持って動いている。それは、何かを仕掛けようとする投資家が、その一手を完全な機密の中で進める様子を思わせた。彼の歩みは、一瞬たりとも無駄がない。まるで暗黙の了解の中で設計された取引のように、すべてが計算し尽くされていた。

 フロアの奥には、もう一人の男が待ち構えていた。二人の間には、時の重みすら圧縮されているかのような張り詰めた空気が漂う。二人の視線が交わる瞬間、まるで政治的駆け引きの場における最初の一撃のように、見えない火花が散った。

「遅かったな」

 待っていた男の声は低く、重厚感のある調子で響いた。それは、決定的な市場操作のタイミングを狙うブローカーが放つ冷静な言葉のようだった。

 現れた男は微かに頷き、鋭い目つきで応じた。

「状況が複雑だった。それでも、準備は整った」

 その一言に込められた緊張感は、両者が共有する暗黙の了解をさらに強固なものにした。二人の間で交わされる言葉は少ないが、その裏には数え切れない戦略、リスク、そして裏切りの影が潜んでいる。ルックス本社の一角で行われるこの密会は、企業の運命を左右するだけでなく、社会全体に波及する重大な局面の幕開けだった。

 冷たい月光の下、二人の男が静かに向き合うその場は、嵐の前の静けさのように不気味な静寂に包まれていた。

「あの件、きちんと処理されているのか?」

 もう一人の男は、小さく頷きながら返答する。

「はい、大丈夫です。問題の痕跡は完全に隠しておきました」

「そうか」

 短く答えると、少し間を置いてまた尋ねた。

「処分は済んでいるのか?」

「ええ、処分しました。ただ、会社のデータベースには残っていますが、閲覧できる者は限られています」

 男は、ふと口元に薄笑いを浮かべた。

「データは問題ない。誰が閲覧したかは、すぐに分かる仕組みだ。もし誰かがそれを見たなら、その人間を消せばいいだけの話だ」

相手は一瞬、息を飲み込んだ。

「わかりました・・・・・・」

 夜の街は春の終わりを告げるかのように暖かく穏やかな空気に包まれ、柔らかな風がビルの外壁をなぞっていく。

 しかし、その陽気とは対照的に、二人の男の会話には、冷ややかな緊張感が漂っていた。

 

 小泉は常務らとの話し合いを終え、一息ついて和美とリビングでニュースを眺めていた。

 最近は、テレビの前に座ることが減りつつある。バラエティ番組の面白さが以前ほど感じられないせいだろう。

 二人とも、ここ最近、笑う機会が少なくなったことをふと感じていた。

「最近の番組、あんまり面白くないな」

 小泉がぼんやりとつぶやく。

 テレビが面白くなくなったわけではなく、仕事に関することで笑えなくなっているのかもしれない。

「そうね。どれも似たり寄ったりな感じよね」

 和美も同じく、テレビに目を向けたまま返事をする。

 二人は黙ってコーヒーを飲みながら、どこか穏やかな時間の流れを感じつつも、どこか少し物足りなさを感じていた。


 翌日、小泉が出勤すると、和田が事務机に凭れて眠っていた。

 疲れた様子がありありと見て取れ、起こすのが少し躊躇われた。静かにその場を離れ、しばらく放っておくことにする。

 特に急ぎの仕事もない朝だった。

 オフィスはまだ静まり返り、窓の外には、澄んだ空気の中に暑さの気配が漂っていた。

 最近は四月なのにすでに夏のような暑さが続いている。

 一七時までは、特に大きな動きもなく、日常業務が滞りなく進んだ。

 社内も落ち着いており、時折誰かが電話で話す声や、キーボードを打つ軽快な音が響くだけだ。

 夕方になり、一同が集合し、それぞれの持ち場に散っていく頃、阿久津がふと声をあげた。

「今日も暑いっすね」

 軽い世間話が交わされる中、大山が笑顔で応じる。

「四月なのに六月並みの暑さだって、ニュースで言ってましたよ」

「マジっすか」

 阿久津は驚いたように眉を上げる。

 そんなやり取りを小泉は少し離れた場所から聞きながら、ふと気を緩めた。

 忙しい日々の中で、こうした何気ない会話が一服の清涼剤になる。

 その時、大山がこちらを振り返り、声をかけてきた。

「小泉さん、あれ大丈夫だったんですか?」

「あれって、何ですか?」

 小泉は少し考えたが、すぐには思い当たらなかった。

「国税の立入検査ですよ」

「ああ、それですか。特に何も問題なかったそうです。大したことじゃなかったみたいですよ」

 小泉はそう答えながら、少し肩の力を抜いた。

 これで一安心だと思ったが、大山の顔にはまだ少し心配そうな表情が残っていた。

「そうなんですか」

 その様子が気になり、小泉は大山に尋ねる。

「どうかしましたか?」

 すると、大山は真面目な口調で答えた。

「いや、もし所得税法や法人税法、消費税法、それから国税通則法に抵触していたら、追徴課税や重加算税が課されますし、場合によっては租税反則取締法に違反していたら、刑事告発や懲役の可能性もありますから、ちょっと気になったんです」

「ああ、そういうことですか。詳しいんですね」

 小泉は驚きながらも、大山の言葉をぼんやりとしか理解できなかった。

 税法や法令に関する知識が、彼の頭の中にはほとんどなかったからだ。

「大山さんは、法学部を主席で卒業されたそうですよ」

 阿久津が自慢げに言った。

 彼の隣で、小泉は目を見開いた。

「え、そうなんですか⁈ すごいですね。よければまた、詳しく教えてください」

「ええ、いつでもどうぞ」

 大山はにこやかに答えた。

 その知識の豊富さに、小泉は心強さを感じた。自分の身近に、これほど頼れる仲間がいるとは思っていなかった。

 小泉は静かに感謝の気持ちを抱き、これからの協力関係に期待を寄せた。

 夜も更け、オフィスは次第に忙しさを増してきた。

 二十時を七分過ぎた頃、静まり返った空間に、常務からの連絡がスマートフォンに表示された。

 小泉はその画面を見て、瞬時に姿勢を正す。


『企業データベースの管理をしている担当者が、領収書の原本を見つけたそうだ。今日の夜、再びあの店で話し合いたいと思う』


 この短いメッセージを読み、思わず小泉は感嘆の息をついた。さすが常務だ。仕事の速さと情報収集の巧みさには、毎回驚かされる。

 迅速な対応が、状況を好転させる要となるのだろう。常務の頼もしさに、小泉は再び安心感を覚えると同時に、我々を信頼し、協力を求めてくれることに心から嬉しさを感じていた。

 小泉はすぐに返信し、指定された店での再会に同意の旨を伝えた。その後、ふと考え、大山をこの場に誘っても良いかどうかを常務に問うた。

 彼の法的知識と冷静な判断力が、この問題を解決に導く助けになると考えたからだ。

 返信を待つ間、小泉は再び大山の言葉を思い返していた。

 複雑な税法や法令については、まだまだ自分の知識が足りないと感じたが、大山という頼りになる存在がいることで、今後の動きに自信を持つことができるような気がしていた。

 常務からの返答が届くまでの時間、静かにオフィスの片隅で考え事をしていると、再びスマートフォンが振動した。


 二十三時、常務がタクシーなら出てくるのを見て、和田と山本、小泉、大山が出迎えた。

「常務。福田は、今日外せない用事があるということで、今日はいません。ただ、法律に強い方をつれてきました」

 個室に集まった面々の空気は張り詰め、かつ静寂だった。八重樫が不正の疑惑を探るために招集したメンバーの一人、大山が、組織を救う鍵を握っているかもしれないという期待が自然と集まっていた。

 彼はその沈黙を破り、重々しい声で言葉を紡ぎ出す。事の経緯を詳しく大山に説明した。

「なるほど、そのデビウスという会社には巨額の不正送金が行われている可能性が高いですね。そして、国税が動いたということは、脱税の疑いがかけられているのでしょう」

 脱税の二文字が浮かび上がり、室内に圧力がかかったように感じた。

 しかし、八重樫は即座に否定するように言った。

「いや、当社は税務申告に関してしっかりと対処している。少なくとも公式には、納税に何ら問題はないはずだ」

 八重樫の言葉は慎重でありながらも自信があった。彼は、眉毛を上下に動かしながら、大山の推測に対して一応の反論を試みた。

 しかし、彼自身もどこか心に引っかかるものを感じているのだろう。その表情が言葉以上に物語っていた。

 大山は一瞬黙り込むが、次の推測を投げかける。

「そうすると、これは誰かへの賄賂という線が濃厚ではないでしょうか?」

「賄賂だと?」

 八重樫だけでなく、同席していた他のメンバーもその言葉に首をかしげる。

「はい。賄賂目的で誰かに送金が行われ、その見返りとして新たな契約が得られる。ここ最近、大きな契約を結んでいませんか?」

 大山は冷静に問いかけるが、その瞳には鋭い光が宿っていた。

 八重樫が頭の中で何かを思い出すように目を細めながら答えた。

「ああ、国土交通省と多摩エリアの道路建設に関して、かなり大規模な契約を締結したばかりだ」

 大山は静かに頷きながら、少しずつ真相に近づいていくかのように言葉を続けた。

「もしかしたら、その国土交通省の中で、御社とつながっている人物がいるのではないでしょうか?」

 この一言で部屋の温度が下がるように、誰もがその可能性に驚き、そして恐怖を覚えた。

 今まで考慮しなかった新たな視点が、一同の前に突如として現れたからだ。

「つまり、どういうことだ?」

 八重樫は、自らの混乱を隠すように、鼻の穴を大きくしながら頭を掻いた。

 大山は、さらに一歩踏み込む。

「恐らく、国土交通大臣あたりが背後で動いているのではないかと推測しますね」

「国土交通大臣? 一ノ瀬幸一のことか?」

 山本が首を傾げながら、信じられないという表情を浮かべる。彼の脳裏には、世襲議員としての一ノ瀬のイメージが強く刻まれていた。

「ええ、そうです。一ノ瀬は世襲議員で、彼の政治的影響力は無視できない。特に、国土交通省のようなインフラ事業に関わる省庁で、巨大な利権が動く場面では彼の存在は無視できないでしょう」

 大山の分析に、八重樫も他のメンバーも顔を見合わせた。

 いったいどれほどの規模の闇が、この契約の背後に隠されているのか。そんな疑念が、みんなの心に広がり始めていた。

「まさか、そんなことがあるのか?」

 八重樫は驚きながらも、どこかで納得せざるを得ないような表情を見せる。

 大山は冷静に続けた。

「ええ、しかも一ノ瀬は世襲によって政治の世界に入り、実力というよりはコネと資金力でのし上がってきたタイプです。つまり、多少無理なことでも、彼ならやりかねないし、もしかしたら知識も無いのかもしれない」

 大山は一旦呼吸を整え、続けた。

「御社は、以前から多額の企業献金をしていると聞いていますが、それも関係があるのではないですか?」

 大山の言葉は、まるで一つ一つのパズルのピースが正確に嵌められていく瞬間のようだった。

「確かに、我々は政党への企業献金をしている。それがどうした?」

 八重樫が答えた。

「その献金の額が大きければ、国会議員や省庁の意見を変える影響力がある。特に、次の総裁選が迫っている中で、国土交通大臣が総理大臣候補として浮上すれば、御社にとって大きな利益がもたらされることになるでしょう。そして一ノ瀬と御社の誰かは、そのために動いているのかもしれません」

「つまり、国土交通大臣が総理大臣になれば、我々のビジネスにプラスになると?」

 山本が口を開いた。彼の顔は少しずつ理解が追いついてきているようだった。

「その通りです。運送会社である御社にとって、国土交通省の規制や法律は、事業の根幹を左右するものです。もし一ノ瀬がその規制をあなた方に有利な形で動かせるとしたら、どうでしょう?」

 その問いに対して、山本も八重樫も黙り込んだ。もしそれが事実なら、彼らが背負う責任の重さは計り知れない。

「だが、それは一つの仮説に過ぎない。証拠がなければ動けないだろう」

 八重樫が冷静に現実を指摘する。

「確かに、これはまだ仮説です。しかし、もしその仮説が正しければ、今後の動きが大きく変わるでしょう。重要なのは、今後の対応です」

 大山の言葉は冷静だったが、その背後には確かな信念があった。彼は法学部の主席卒業生であり、その知識と論理的思考を駆使してこの状況を分析している。

 そして、その分析は彼らを新たな局面に導こうとしていた。

「今すぐ動くべきかもしれませんね」

 八重樫が静かに、そして丁寧に言った。

 その一言が、この場の緊張を一気に高めた。

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