動静
四月も後半に差し掛かり、春の陽気が柔らかな光をもたらす朝が続いていた。
空は雲一つなく、青く澄みわたっている。心地よいそよ風が窓から吹き込むたびに、庭先の新緑が静かに揺れる。
空中には小さな虫が舞い、生命の息吹が感じられる。
春の訪れは例年以上に鮮やかで、晴れ渡る日が続いている今年は、特に穏やかな日々だった。
いつものように、賑やかな朝が始まる。
どこかで聞こえる鳥のさえずりと共に、日常のざわめきが家の中に響いている。
「おはよう」
小泉は少し眠そうに挨拶をする。
キッチンでは、和美が龍斗の相手をしながら、穏やかな笑顔で振り返った。
「あら、おはよう」と優しい声が返ってくる。
彼女の足元には、龍斗がウロウロしている。
ダイニングテーブルには、朝食が整然と並んでいた。こんがりと焼けたトーストの香ばしさが鼻をくすぐり、テーブルに置かれた目玉焼きの黄身は、差し込む朝日の中で金色に輝いている。
太陽の光が窓辺から静かに降り注ぎ、食卓の一つ一つが春の光に包まれていた。どこか懐かしく、心がほっとする光景だ。
小泉はまだ重たい瞼を懸命にこじ開けながら、リモコンを手に取り、テレビの電源を入れた。
画面がぼんやりと映し出され、ニュースの音声が静かに流れ始める。流れる時の中で、日常は静かに続いていく。
春の光がまるで時を包み込むように、日々の小さな瞬間をやわらかく照らし出している。
春は特別な何かがあるわけではないが、こうした何気ない日常がどこかしら美しく、そして愛おしく感じられる季節だ。
家の中を満たす穏やかな空気が、春の訪れとともに新しい始まりを予感させていた。
『総裁選は、終盤に差し掛かり、残り四日』
まもなく、日本の次の事実上の総理大臣が決定するという局面を迎えている。小泉はそのニュースをぼんやりと眺めていた。
画面には、一ノ瀬国土交通大臣が多摩エリアの道路建設に尽力した功績が大々的に報じられている。これが大きな支持を集め、石本を抜いて次期首相候補として頭角を現したという解説が流れていた。
ここにきて、
一ノ瀬の若さと「改革志向」が世間で評価される一方、彼が打ち出したインフラ整備政策も功を奏し、党内外での支持が固まりつつあるという。
小泉は深いため息をついた。結局は世襲議員として、政治家の階段をいとも容易く上り詰めていく。
一ノ瀬も、父親や祖父が有力な政治家だったという典型的な世襲のケースで、国会議員としての実績はさほどではなく、若手の顔として売り出されてきた。
党内の派閥政治の中で、既得権益を守りながらも表面的には「変革」を唱える姿勢に、多くの国民が失望を感じているのではないだろうか。
小泉はそう思いながら、政治に対する虚無感を覚えずにはいられなかった。
世襲議員が支配するこの国の政治構造は、民主主義の根幹である選挙制度が、事実上の名門家の支配に偏っている現実を露呈している。
派閥の力学と資金力に裏付けられた鋼鉄の三角形は、変わることなく続いているように見える。
テレビのニュースは、次の話題へと滔々と流れ出す。
今度は天気予報だ。
今年の春雨は観測史上最少の四月となり、五月まで晴れが続くという。
異常気象が報じられる一方で、政治の世界もまた、変わることなく晴天の下で停滞しているように思えた。
国民が求めるのは、ただの若さではなく、本質的な変革であるはずだが、その希望は儚いものに感じられた。
小泉は、ゆったりと朝のひと時を楽しんでいた。
窓の外からは、まだ新緑が芽吹かない桜の木々が見える。
葉桜の時期が遅れ、木々は静かにその変わり目を待っているようだ。
それでも、街を吹き抜ける柔らかな風は、どこか五月の香りを運んできていた。窓からの爽やかな薫風が頬を撫で、小泉は心地よい感覚に身を委ねる。
やがて、ちょび髭を鏡の前で丁寧に整え、身支度を済ませると、車へと向かった。
街はまだ静かで、朝の穏やかな時間が続いている。
澄んだ空気を吸い込みながら、小泉は静かな通勤の一日が始まることを予感していた。
小一時間運転し、出勤すると、平井が難し顔をしていた。
「おはようございます。福田と和田さんは?」
「ああ。おはよう」
平井は思案しており、小泉が出勤していたのも気づいていないようだった。
「実はな、福田と和田さんが常務に呼び出されてな」
「え? 常務に?」
「ああ。ただ、同時にではなく、先に和田さんが呼ばれたんだ。その二十分後くらいに福田が呼ばれて行った」
「そうなんですか。何かあったんですか?」
小泉には、大方予想がついていた。恐らく、国税庁の立入検査で、勘付いた常務が、我々が独自に捜査していることをどこかで嗅ぎつけ、それを確かめようとしているのだ。
「さあ。全く分からん。彼らは常務とは関わったことも無いそうだが・・・・・・」
二人でしばらく今日の準備をしていると、和田が先に帰ってきた。
「あ、和田さん。どういうことでしたか?」
平井が早速尋ねる。
「ああ。今後の業務についてのお話だった。
「そうなのか。何かあったんじゃないかと思って心配していたよ」
平井が、顔を綻ばせた。
しかし、和田は本当のことを言っていないに違いない。今後の業務のことなら、福田は呼び出さないはずだ。ましてや、上司の平井がこのことを知らないはずはない。
平井が気分を取り戻し、事務所に忘れ物を取りに行くと言って席を外した。
「実はな。常務に我々の動きを悟られたようだ」
「え、それはまずいんじゃないですか」
「いや、意外なことに常務も国税庁の件を非常に重く受け止めている」
和田が真剣な顔で言う。
「そりゃあ、不正がバレたらまずいから慌てるでしょう?」
「そうなんだが、少し様子がおかしいようだ」
「え?」
「常務に不正のことを問いただしたんだ」
「はい、それで?」
「常務は知らなかった」
「え? 本当ですか?」
「ああ。それで、経理や人事、リスク管理の人間に直々に問いただすと言っていた」
「てことは・・・・・・?」
「恐らく常務は白だろう」
小泉は、呆気に取られていた。そしてもう一つ気になることを尋ねた。
「それで、和田さん。なぜ私は呼ばれなかったんでしょう」
「ああ。それは私も聞いてみた。明快単純で、まだ来てなかったからだそうだ」
「ああ。そうなんですか」
「あとで、呼ばれる可能性はあるな」
二時間後、直接常務が訪ねてきた。
「すまんな。もう知っていると思うが、この会社で不正が行われているということを」
「ええ。最初は、温度不良が続出したということから始まりました」
小泉は、横山の件や偽会社のデビウスの話などを簡潔に伝えた。
「ああ。私もそこまでは突き止めた」
流石は常務。もう小泉たちと同じ情報を得ている。
「君はこれからどうするつもりだね」
八重樫は、真剣な眼差しで聞いてきた。
「私も、常務と同じ考えです」
「うむ」
八重樫は、右手を差し出し握手を求めてきた。
小泉も自らの右手を差し出す。八重樫は小柄だが、力強く握り返してきた力は強く、八重樫の意志の強さを感じ取れた。
大きな希望の光が見えた気がした。
小泉は、八重樫と別れ、和田が待つ場所に戻った。
「どうでした?」
「常務も協力してくれるそうです」
「それは心強い」
「福田は?」
「ああ。さっき戻ってきたが、お腹が痛いと言ってトイレに行った。ほんのついさっき」
「そうですか」
常務から連絡があったのは、定時から三十分後の二十三時だった。
もし可能なら、これから会えないかということだった。それに、協力者全員に会いたいというメッセージと共に。
アルバイトの吉川、徳山、大学生組は既に帰宅していたため、福田、和田、山本と小泉がいつもの居酒屋で常務を出迎えた。
「常務には、似合わない場所ですが・・・・・・」
福田が、常務に声をかける。
「いやいや、私もこういう居酒屋によく行くんだよ」
「そうなんですか?」
一同は、常務の気遣いのある言葉遣いややりとりで、思いの外早く打ち解けた。
「それで、改めて聞かせてもらう。君たちはどこまで突き止めたんだ?」
小泉が端的に答えた。
「なるほど。国税が動いたということは、不正流出があったのは間違いない。ただ、誰がやったのか全く分からん」
八重樫は深い溜息をつき、顎に手を当てたまま、難しい表情を浮かべていた。居酒屋にも関わらず、空気は重く、昼頃からの曇り空の外の景色が、そのまま内部の雰囲気に反映されているかのようだった。
「常務でないとなると、専務か?」
山本が机に肘をつき、腕を組みながら低い声で言う。
彼の視線はどこか遠くを見つめ、まるで答えを探るかのように宙を泳いでいる。
「いや、社長や副社長の可能性もあるな」
福田が鋭く言葉を差し込んだ。普段は穏やかな彼も、この問題に関しては一歩も引くつもりがないのだろう。
「そうだな。その辺りが怪しいかもな」
小泉も言う。
瞳には決意の光が宿り、その口調には重さが感じられた。
何しろ、国税や証券取引等監視委員会の動きが会社全体の存亡にかかわるものだからだ。
会議室には、紙のめくれる音すら聞こえない緊張感が漂っていた。全員が互いの顔を伺いながら、次に何をすべきか、そして何をすれば事態がさらに悪化しないかを考えている。
「取り敢えず、我々は先手を打たなければならない」
八重樫が言葉を発すると、全員の視線が彼に集まった。彼の言う先手とは、もちろん証拠をいち早く確保し、事実を明るみに出すことを指しているのだろう。
だが、同時に、もうすでに手遅れではないかという不安も、その表情には滲んでいた。
「証拠を完全に隠滅されれば、終わりだ。もう無くなっている可能性もあるかもしれんが」
常務の重々しい言葉が響く。彼の言葉に反応するかのように、個室はさらに沈黙に包まれた。
無力感が広がり、誰もが内心で次の一手を考えあぐねている様子だった。
一同の視線が下向きになり、少しの間、誰も口を開かなかった。空調の音だけが、静まり返った室内に微かに流れている。
「その可能性もありますね。ただ、国税が来た時にはまだあったはずです」
山本が、意を決したように口を開いた。その声は先ほどまでとは違い、しっかりとした確信が込められている。
彼は出来立ての料理に視線を落としながらも、背筋を伸ばし、自信を持って言葉を続けた。
「だろうな」
八重樫は、山本の意見に同意するように短く頷いた。
「だからこそ、今は時間との戦いだ」
八重樫は、続けた。彼の目は鋭く、まるですでに誰かを疑っているかのようだった。
「もし我々が動くのが遅れれば、証拠はすべて消され、何もかもが闇に葬られる。会社の未来も同時に失われるだろう」
一同はその言葉の重みを感じ、再び沈黙が訪れた。誰もが、それぞれの思いを胸に抱えながら、この危機をどう乗り越えるかを考えている。
しかし、その先に待つ結末が、希望であるのか、それとも破滅であるのかは、まだ誰も分からなかった。
一同は、状況を整理するために一旦解散することにした。常務が先に立つと、山本と和田がすかさず頭を下げて感謝の言葉を口にする。
「常務、今日はありがとうございました」
「いやいや、君たちこそ、陰で追ってくれてありがとう。経営者として、不正は決して見過ごせない。これからも協力させてもらう」
常務はそう言いながら、どこか重い責任感をにじませた表情で、タクシーに乗り込んだ。
車が見えなくなるまで三人はその場に立ち、黙って見送っていた。
季節はすでに湿気が増し始め、少しずつ肌にまとわりつくような空気が漂う。虫の鳴き声が一層大きくなり、夏の訪れがゆっくりと近づいていることを感じさせる。
ふと見上げると、朧月が淡くぼんやりと浮かび、夜の世界を静かに照らしていた。
その幻想的な光の中で、三人は互いに顔を見合わせ、言葉にできない決意と焦燥感を共有したかのようだった。
それぞれの胸に、あらゆる思いが静かに燃え始めていた。




