疑惑と追求
この一文を一同が見たとき、静かな緊張が漂った。
警察が動いたことは明らかで、国もまた動いているという事実は、小泉にも強く感じ取れた。これはただの社内調査ではない。
彼の心の中に、不安と期待が入り混じる。
「財務省が動いたんでしょうか」
吉川が小声で呟いた。
税務署や国税庁は、納税義務者に対して課税や監査を行う機関であり、その存在は企業にとっては厳しい監視の目を意味する。
今、何か大きな動きが起こっているのかもしれない。
「いや、国税庁は財務省の外局にあるから、そうなのかもしれない。詳しいことは分からない。ただ、恐らく国税が動いたということは、不正な金の流れを嗅ぎつけて、法人税を毟り取ろうとしてるんじゃないか」
和田が端的に答えた。
彼は法務部から来ており、法律に関する知識が豊富だった。その端的で分かりやすい返答は、一同の不安を少し和らげる。
法人税法は、法人に対して課される税金であり、これを正しく支払わないことは脱税にあたる。脱税が発覚すれば、企業は重い罰金を科せられるだけでなく、社会的信用も失いかねない。企業にとっては致命的な問題だ。
国税庁が動いたということは、何らかの情報が流れ、調査の手が伸びていることを示している。
「金融庁も動くんですか?」
徳山が続けて尋ねた。
金融庁は、銀行や証券会社などの金融機関を監督する機関であり、企業の財務状況に関わる情報も把握している。
平井が冷静に答える。
「金融庁は、銀行とか証券会社だから関係ないだろう」
金融庁は直接的には企業の税務調査に関与しないが、企業の資金調達や融資の状況が明るみに出れば、関係があるかもしれない。
小泉の部署は、不正に直接関係がないため、五人の男たちに軽く監視され、大柄で丸坊主の男と気の強い女性の二人の担当職員が事務机の中を検めただけだった。
彼らの目つきは真剣で、何かを探し求めるような鋭さがあった。
これが国税庁の調査であれば、厳密に行われることが予想され、緊張感が高まった。
国税庁は、税務調査を行う際に法定調査権を持っている。これは、法人の書類を要求したり、立入検査を行う権利を含んでおり、企業はこれに応じなければならない。国税庁が動くということは、その権限を行使する可能性があるということであり、企業にとっては大きなリスクとなる。
小泉は、心の中で今後の展開を予測した。もし不正が明らかになれば、社内の雰囲気は一変するだろう。自分自身も巻き込まれる可能性がある。
とはいえ、国税庁が動くという事実は、いくらかの期待をもたらす。これまで続いていた不正が明るみに出ることで、会社が正しい方向に向かうかもしれないからだ。
そのとき、ふと小泉の頭に浮かんだのは、自身が何をすべきかということだった。もし自分が知っている情報があれば、それを上手く活用する必要があるかもしれない。
自分の部署が不正に関与していないことを証明するためにも、何か行動を起こさなければならないと強く感じた。
その思いを胸に、小泉は視線を外に向けた。監視する職員の目が鋭く光っている。
小泉は、事態の進展を見守りながら、今後の展開に向けた決意を固めていた。
社内の雰囲気がピリピリとしている中で、彼自身もまた、一歩踏み出す覚悟を持たなければならないと感じていた。
「ちょっとちょっとなんだね君たちは」
小柄で、堀の深い男が机を叩いた。その声には明らかな威圧感があった。周囲の空気がピンと張り詰め、八重樫常務は急に表情を硬くした。
これが国税庁の調査であることを理解したからだ。
「八重樫常務ですね、国税です。今から、全て調べさせて頂きます」
「はあ? 聞いてないよそんなこと」
「言ってませんから」
「はあ?」
国税庁の職員は淡々とした口調で告げた。八重樫は、何かを発しようとしたが、二の句が告げなかった。
国税庁は、税務調査権を持ち、企業の帳簿や書類を検査する権利がある。これは法人税法に基づくものであり、通常の企業の営業活動とは異なる強い権限を持つ機関だ。
彼の心に不安が広がったのは、まさにそのためだった。
数十名の黒ずくめの集団が、常務室を徹底的に検めていく。彼らは、スーツを着た職員で、無駄のない動きで書類やデータを確認している。八重樫は、呆然と眺めていた。
これが、自身の経営している会社の運命を左右する瞬間だと感じていた。
「失礼致しました」
「はあ? それだけ?」
「はい、失礼致します」
国税庁の職員は、事務的に作業を進めながら、必要な情報を収集している。八重樫は、焦りと怒りが入り混じった感情を抱えていた。
「ちょっとちょっと、片付けて行きなさいよ」
国税の職員は、指示を無視しながらも冷静さを保ち続けている。
「失礼します」
「はあ? 何もなかったんだろ。せめて謝りなさいよ」
「も、申し訳ありませんでした」
「チッ、ふざけないでくださいねぇ。こっちは忙しいんだから」
「はい・・・・・・」
国税の大所帯は、ぞろぞろと去っていく。調査が終わり、何か不正を発見することもなく帰っていく様子は、八重樫にとって逆に恐怖だった。
何も見つからなかったことは、彼にとっては一時的な安堵を与えたが、これからの監視が続く可能性を示唆していたからだ。
八重樫は、部下に片づけさせると、どかっとふかふかの椅子に落ち着いた。彼の心には、経営者としての責任と国税庁の厳しい目が重くのしかかっていた。
彼は深いため息をつき、少しでもリラックスしようとしたが、心の中の焦りは消えなかった。
「チッ。何だあいつら」
八重樫は呟いた。
彼は、国税庁がなぜ自社に目を付けたのか、思いを巡らせた。税務調査は、企業の不正を暴くためだけではなく、場合によっては税収を増やすための手段でもある。
法人税法の枠内で、企業がいかに正当に税金を支払っているかを監査するのは、国税庁の重要な任務だ。だが、その調査が自身の会社にとってどれほどの危機を招くのか、八重樫は計り知れない。
「何か手を打たねば」
八重樫は心の中で決意した。
国税庁の動きを受けて、これからの経営方針を見直さなければならない。そして、自らの身を守るための対策を講じる必要がある。
そう思うと、彼は焦りを覚えた。再び国税庁が戻ってくる可能性は高く、その時には自社の財務状況がどうなっているのか、想像するのも恐ろしいことだった。
「おい、動くなよぉ」
偉そうな声が響き渡り、フロア一帯が一気に静まり返った。国税庁の職員が突如として現れ、その存在感で場の空気を一変させた。
「国税だ。動くなよ」
山本はその瞬間、緊張が走った。急いで小泉に連絡しなければと考えながら、彼の指先は無意識にパソコンのキーボードを叩いた。
まさに不正が疑われる瞬間、国税庁の調査が始まる。
電子機器の使用が禁止されることは、税務調査の一般的なルールである。調査の過程での情報漏洩を防ぐために、これが義務付けられている。
「今から、電子機器の使用はやめてくださいね」
女の職員が冷静に指示を出し、その言葉が響く。山本は入力を終えると、心の中で「間に合った」と安堵するが、すぐにその緊張感が戻ってきた。
経理課のパソコンやデスクが一気に調べ上げられたが、お目当てのものは見つからなかったのか、軽く謝罪し、ぞろぞろと退出していった。
調査の際、職員は法人税法や所得税法に基づく不正の調査を行うため、書類やデータを細かく確認する権限を持っている。
先手を打って、熊瓦あたりが領収書や関連書類を処分もしくは避難させたのだろうか。
彼の計画的な行動は、税務調査に対する一種の防衛策とも言える。法人税法第七十条では、納税者が適正に帳簿を保存する義務があるため、適切な書類の管理が求められる。
部長は突然の出来事に、がっくりと項垂れていた。
「今終わった。何も出なかったらしい」
山本は、ホッと胸を撫で下ろす。
『あの、領収書のことか』
小泉も同じことを考えている。税務調査において、領収書は重要な証拠となるため、その管理がどれほど重要かを理解していた。
「ああ、多分な」
山本は散らかったデスクの書類を片付け、フロアの天井を眺めていた。上司の監視の目が強まり、業務の進行も妨げられる中、彼は今後の不安を感じていた。
この一連の流れが、企業に与える影響は計り知れず、今後の方針を見直さなければならないかもしれない。
ここまでか、と心の中で呟きながらも、彼はまだこの状況から逃げ出すことはできない現実を噛みしめていた。
国税庁の監査が企業活動に及ぼす影響は、単に財務面だけでなく、社会的信用にも関わるため、今後の動きには十分な注意が必要であることを理解していた。
小泉は、山本から送られてきたLINEを和田に見せた。
「何もなかったか。恐らく、ここにはもう無いのかもしれないな」
「はい。ここまでですかね」
和田は、一点を見つめ何か呟いていた。
国税庁のせいで業務に滞りが生じ、帰宅時間も大幅に遅れてしまった。普段ならとっくに帰り着いている時間に、まだ会社に残っているというのは、まさに税務調査が引き起こす影響を如実に物語っている。
国税庁は法人税法に基づき、企業の適正な納税を監視する役割を担っており、その調査が行われると、対象企業に対しては一時的な業務停止状態が生じることがある。
これにより、社員たちは急遽、必要な書類やデータを整えたり、調査に対する説明を行ったりする必要が生じる。
この日も、上司の指示で急遽対応しなければならない事案が発生したため、社員たちは普段の業務を後回しにせざるを得なかった。例えば、税務調査に際して必要な文書の保管状況や、取引先との契約書、領収書などが適切に管理されているかを確認することは、法人税法第七十条に基づく帳簿書類の保存義務に関連する重要な作業である。これを怠ると、納税義務に違反したとしてペナルティを受ける可能性もあるため、社員たちは緊張感を持って業務に取り組む。
慌ただしい一日となったが、こうした状況は企業にとって大きなストレス要因であり、また業務の効率性にも影響を及ぼす。
特に、税務調査が頻繁に行われると、社員は精神的な負担を感じやすくなり、結果として業務のパフォーマンスが低下する恐れがある。
会社の信用が揺らぎ、取引先との関係にも悪影響を及ぼす可能性があるため、経営陣はリスクマネジメントをしっかりと行う必要がある。
業務終了後も、未解決の課題を抱えたまま残業することは、労働基準法に基づく労働時間の管理とも関連しており、社員の健康や士気にも影響を与える。
こうした問題に対処しつつ、企業としての信頼性を維持することは容易ではなく、今後の対応策を考える必要がある。
国税庁の調査による影響を最小限に抑えるための準備が、ますます重要になってくるだろう。
帰りが遅くなり、家に着いたのは零時過ぎだった。和美は、相変わらずいつも通りに「おかえりなさい」と言ってくれる。
和美の優しさに胸が温かくなる。だが、どこか不安そうな表情をしている。
すぐに質問が飛んできた。
「国税庁のこと、どうなったの?」
テレビのニュースを見たらしい。根掘り葉掘りと聞いてくる。
自分も同様に気になっていたので、テレビをつけてニュース番組を確認してみた。
画面には、いつものニュースキャスターが映っているが、今日の国税庁の件については、ほんの数分程度の扱いだった。
業務に滞りが出たことが一瞬映し出されただけで、詳細には触れられず、まるで何事もなかったかのように次の話題に移っていった。
恐らく、国税庁が恥を晒したくないために、圧力をかけて報道を抑えたのだろう。情報が制限されるということは、何か裏にあるのではないかと考えてしまう。
そうした不安が心の中で膨れ上がっていくのを感じた。
「少し休むよ」
そう言いながら、和美に声をかけ、ベッドに横になった。
ぼんやりとナボコフの「ロリータ」を手に取り、ページをめくったが、なかなか物語に入り込むことができなかった。
明日は土曜日だから、多少夜更かししても平気だとは思ったが、色々なことが短期間に起きすぎて、心の中に澱のように積もったストレスが眠れない原因となっているようだった。
すぐに疲れが襲ってきて、読書が進まないまま、何度もあくびをしながらページをめくった。
数ページ読んだところで、やはり飽きてしまった。
隣で既に寝ている和美を起こさないよう、薄明かりの中で手探りで別の本を探した。もう少し頭を働かせる必要がある。
手に取ったのは、ガストン・ルルーの「黄色い部屋の秘密」だった。
ミステリーの謎解き要素が好きで、特にアガサ・クリスティの作品はよく読んでいる。彼女の緻密なプロットとキャラクターの深さには、いつも感心させられる。
密室殺人の代表作である「黄色い部屋の秘密」は、書店に行った際に、ポップを見て興味をそそられたものだった。ミステリーの名作を読むことで、日常のストレスから少しでも逃れたいという気持ちがあった。夜の静けさの中、ページをめくる音が心地よく響く。
物語の舞台に引き込まれ、主人公の推理を追いかけるうちに、心の中のもやもやが少しずつ晴れていくのを感じた。
ページをめくるごとに、新たな謎が立ち現れ、続きが気になって仕方がなかった。
夜が深まるにつれて、物語に没頭し、国税庁の問題や和美の心配が頭から消えていく。
気がつくと、時間は深夜を回っていたが、眠気が襲ってくる気配はなかった。むしろ、次のページをめくる手が止まらない。
物語の中の緊張感が、現実のストレスをかき消してくれるような感覚を味わいながら、再び主人公と共に謎解きの旅に出かけるのだった。
和美の存在を感じながらも、自分の世界に没頭できるこの瞬間が、何よりも貴重だと思う。しばらくはこの静かな夜を楽しみたいと心から願った。




