霞ヶ関からの十字軍
警察からの連絡はあの日以来、何もなかった。
しかし、龍斗は自分がパトカーに乗ったことにいまだに興奮しているようだ。
「お父さん、パトカーの中どんな感じだった?」
と、何度も繰り返し尋ねてくる。
そのたびに小泉は、正直なところ、もうその話をしたくない気持ちでいっぱいだった。
「別に普通の車だよ」と答えるのが精一杯だったが、龍斗の興味津々の目を見ると、どうしても続けて話さなければならない気分になる。
自分の心の中では、あの出来事を早く忘れたいのに、息子の無邪気な興奮がそれを許してくれない。
この日も、車の中でお気に入りのスメタナの連作交響詩「我が祖国」を聴きながら出勤した。
音楽は心を落ち着けてくれるが、心の奥にある不安感は消えない。会社に着くと、和田、福田、平井と挨拶を交わす。
普段通りの朝の光景に見えるが、どこか違和感を感じるのは、最近の出来事が影を落としているからだ。皆も、何かを察知しているのか、会話が少なく感じた。
それでも世間話を交わしていると、ふと窓の外がやけに騒がしいことに気がついた。普段の出勤時間には見かけないような人々が、窓の外で何かを話し合っている。
興味をそそられた小泉は、思わず同僚たちと一緒に小さな窓に顔を寄せ合わせた。
すると、外には多くの報道関係者が塀を囲んでいるのが見えた。カメラのフラッシュが点滅し、マイクを持った記者たちが何かを叫んでいる。
突然のこの騒動に、社内は緊張感に包まれた。
小泉の心には一種の期待感が芽生えた。これで、上層部の不正が明かされるはずだという希望が、胸の中で膨らんでいく。
これまでの不正が表に出ることは、何よりも会社の未来を左右する重大な出来事だ。
そう考えると、ますます興奮が募っていく。皆が注目している中、黒いスーツを纏った人間の列が、一糸乱れぬ集団行動をしながら社内に入ってくるのが見えた。
「うわ、十字軍みたいだな・・・・・・」
平井がボソッと独りごちた。
その小さな一言が聞こえた小泉は、薄ら苦笑いした。
確かに、彼らの整然とした動きと無機質な表情は、まるで何かの聖戦に挑む閉鎖のようだ。
だが、その冗談で片付けられないほど、状況は深刻なようだ。
彼らは一体何者なのか。
記者たちが一斉にカメラを向け、騒がしさが増す中、緊張感がピークに達する。小泉の心の中では、さまざまな思惑が渦巻いていた。
上層部の不正が明らかになることで、何かが変わるのではないか。自分の仕事が正当性を持ち、今までの苦労が報われるのではないか、という期待があった。
同時に、もしこの状況が自分に不利な結果をもたらすものであれば、どうなるのだろうという不安もあった。パトカーの件があったばかりで、今再び不祥事が発覚したとなれば、自分も何らかの影響を受けるのではないか。
心の中で交錯する感情が、ますます小泉を悩ませる。
外の騒音がさらに大きくなる中、報道関係者たちの声が混ざり合い、何が起こっているのかはっきりしない。
小泉はその光景を見つめながら、ふと龍斗の興奮した顔を思い浮かべた。
子供はこうしたニュースに対して純粋な興味を持ち、憧れを抱くものだ。
しかし、自分にはそういった単純な感情はもう残っていない。
社会の厳しさや大人の事情を知るにつれ、そうした無邪気な興奮は失われてしまった。
黒いスーツの集団が社内に入ると、次第にその動きが速くなり、まるで何かが始まろうとしているかのような緊張感が漂ってきた。
小泉たちは、自分もその渦に巻き込まれるのではないかという思いに駆られた。今までの業務がどれほど正当で、誠実であったかを証明するために、何か行動を起こさなければならないという使命感のようなものが心の奥底から湧き上がる。
これから何が起こるのか、誰もが息を飲んで見守る中、小泉は自分の運命を感じていた。上層部の不正が明るみに出るのか、またはそれが隠蔽されるのか。
どちらに転んでも、事態が自分に与える影響は計り知れない。心の中で強く願ったのは、真実が明らかにされることであった。彼自身の不安も、子供たちに誇れる未来を残すために、何とかしたいと思う気持ちが募るばかりだった。
その時、山本からLINEが来た。
『国税庁だ。今から連絡ができない。終わったら連絡する』




