静かな親しみと幸ある交流
恐らく、この会社の上層部の大半が不正に関わっているはずだ。
協力してくれる大学生だけでは、人手が足らないような気もしている。しかし、他に手伝ってくれそうな人はいなさそうだ。
和田は、上からは嫌厭されているようだが、こちらの話が通じるかどうかは分からない。だが、声をかけてみる価値はある。
「すいません、和田さん。ちょっとお話いいですか?」
声をかけ、トイレに誘う。
「ん。何だ」
和田はむくっと椅子から起き上がり、目を擦りながらついてきた。
誰もいないことを確認し、本題を切り出す。
小泉の単刀直入に語る事実を聞き、和田は目を見開いた。
「君、それは本当か?」
「はい。偽会社があることまでは突き止めました。ただ、その会社が何をしているのかは分かりません」
「なるほど。私でも少し考えさせてくれ。気持ちが固まったら、改めて話をする」
「分かりました」
意外にも、和田の反応は良かった。
和美は立川の伊勢丹で、和田友美と待ち合わせしていた。
友美は、集合時間の二分後に登場し、二人で入店した。
「ここに、美味しいオムライスのお店があるのよ。オホホホホ」
「そうなんですか。よく行くんですか?」
「息子がね、食べたいって言った時は連れて行くのよ」
「息子さん喜ぶでしょうね」
「ええ、そらぁもう」
二人は目当ての店に行くと、前に二組のカップルだけ並んでいた。
意外とスムーズに案内され、早速食べたいオムライスを注文する。
和美は、和田の夫が小泉と同じ職場なのかを確かめたかった。
「和田さんの旦那さんは何してる方なの」
「あら、言ってなかったかしら。ルックスって運送会社で、マネージャーって仕事してるらしいのよ。よくわからないんだけどね、オホホホホ」
どうやら同じらしい。
和美の夫の職場も同じことを告げると、友美は目を輝かせて喜んだ。
「あらま! 息子も夫も和美さんの家族と同じ環境にいるなんて! 奇遇じゃありませんか!」
友美は少し古臭い話し方をするが、嫌いにはなれなかった。
夫の話や世間話をしていると、注文したオムライスが届いた。黄金に輝く卵は、ふわふわと揺れている。湯気がデミグラスの香りを包んで、浮かんでくる。早速舌鼓を打つと、想像していたよりも数十倍も美味しかった。
「美味しい! こんなオムライス初めて食べました」
「あら、本当に? ここのは、他のとは一味違うのよねぇ。何が違うのかは分からないんだけど、オホホホホ」
思いの外会話は盛り上がり、食べ終わってから二時間は話していた。
共に帰りに夕飯の野菜を買い、解散した。
和美は、初めて仲の良いママ友ができて嬉しかった。
小泉が家に帰ると、和美が何だか浮かれていた。
「どうした、鼻歌なんか歌って」
「今日、昨日話してた和田さんとご飯行ったらね、あなたと同じ職場だって!」
「おお。やっぱりそうか」
小泉は初めてのフリをして驚いてみせた。
翌朝、小泉は車の中でチャイコフスキーの交響曲第五番を流しながら出勤していた。運命の動機が、楽章ごとに変化して現れ、特に第四楽章が始まると、弦楽器が奏でる威風堂々とした旋律が彼の胸を打ち、自然と士気が高まるようだった。
車窓からは、春の柔らかな陽光が差し込んでいた。
会社に到着し、デスクに向かうと、いつもは気だるげにしている和田が、今日は背筋を伸ばし、集中してパソコンに向かっているのが目に入った。小泉は、和田に声をかけた。
「おはようございます」
和田は、その一言に驚いた。よほど集中していたようだ。
和田は勢いよく振り向いた。鼻息がいつもより荒く、興奮した様子だった。
「おお。ちょうどよかった。これを見てくれ」
和田は緊張を浮かべながら、パソコンの画面を指差す。
小泉が覗き込むと、そこにはデビウスの経営状況報告書が映し出されていた。
「どうしてこれを?」
小泉は驚きと疑念が入り混じった声で尋ねた。デビウスという会社については、先日山本と共に調べていたが、重要な情報がなかなか見つからず、手がかりが途絶えていたのだ。
「これは、我が社の中でも限られた人間しかアクセスできないデータベースの中にあった」と和田は答えた。
「山本くんが探し出せなかったのも、このためだろう。通常のルートではこのデータには辿り着けない」
なるほど、小泉は納得した。
和田が言うデータベースの存在は今初めて知った。
確かにデビウスについての情報が少なすぎると感じていた。
経営状況報告書を見る限り、デビウスという会社はかなりグレーな経営実績だと和田は指摘した。
「確かに売上の報告には矛盾が多いし、資産の動きも不透明だ。そんな会社に、我が社から巨額の資金が流れているのはどう考えてもおかしい」
小泉は画面に表示された数字の羅列をじっと見つめた。デビウスに流れた金額は異常だったが、それ以上に怪しいのは、なぜそのような大規模な取引が正規のルートやデータベースでは記録されていないのかということだ。
「恐らく、同僚曰く、デビウスに送金された形跡はあるんですが、領収書や契約書などの正式な文書だけが抜け落ちているそうなんです」と小泉は続けた。
「なるほど。それは怪しい」
和田は腕を組み、考え込んだ。
「この領収書がないのは、会社内部で何か隠蔽されている可能性がある。そういった文書も、普通の社員ではアクセスできない場所に保管されているのかもしれない」
小泉も同感だった。
「やはり、これも限られた人間しか見ることのできない情報なのかもしれませんね。もしもそれが見つかれば、全貌が明らかになるはずです」
和田は力強く頷いた。
「君の言う通りだ。もう少し調べてるか」
その瞬間、小泉は初めて和田が頼りになると感じた。普段はあまり積極的に動かない和田だが、今回ばかりは彼の行動力が光っていた。
「ありがとうございます。何か進展があれば教えてください」
「任されよう」
小泉は和田の言葉に力強さを感じ、どこか安心した気持ちでデスクに戻った。和田が動いてくれるなら、これまで停滞していた調査も一気に進展するかもしれない。
外では春の日差しが暖かく、柔らかな風が会社の窓から吹き込んでいた。
その日の夕方、退勤まで残り二十分を切った頃、和田から一通の連絡が小泉に届いた。
『領収書を見つけた』
ごく短い分で、力強いメッセージだった。
小泉は急いで福田と山本に声をかけ、三人で和田のもとへ向かうことにした。
和田は十五階の会議室を用意し、到着を待ち構えていた。
部屋の中央にはプロジェクターが設置され、画面には問題の領収書が投影されている。
小泉たちがドアを開けると、和田はむっくりと立ち上がった。
「待っていた。これを見てくれ」
どこかそれは自信に満ちた声だった。
小泉たちがプロジェクターの画面に目を向けると、そこには驚くべき送金記録が映し出されていた。
デビウス社からの領収書には、ルックスに対し、合計五十億円もの大金が流れていたのだ。
内訳は、業務委託料、広告宣伝費、契約金がそれぞれ十億円ずつ、そしてコンサルティング料として二十億円が計上されていた。
「おいおい、マジかよ」
福田が思わず呆れ声を漏らす。
額の大きさに驚愕したのはもちろんだが、それが正当な取引とは到底思えない内容だったからである。
山本は何も言わず、ただ呆然と立ち尽くしている。
「これは明らかな不正送金だな」
和田は腕を組みながら冷静に言った。
小泉も福田も、その金額があまりにも異常であることに同意せざるを得なかった。
デビウスという会社の経営実績から見て、このような巨額の支払いが合理的な理由で行われるはずがない。
しかも、その送金は巧妙に隠蔽されていた。
通常の社内文書では確認できない情報だったことからも、誰かが意図的に隠した可能性が高いことが分かる。
「どうしますか?」
小泉が尋ねると、和田は鋭い目つきで答えた。
「まずは、この送金を指示した人物と、それを実行した人間を突き止める必要がある。これが誰の仕業なのかを明らかにしない限り、次の手は打てない」
和田の言葉に、重々しい沈黙が会議室を包んだ。
誰かがこの不正送金を仕組み、それを社内で隠蔽していたことは明白だが、今すぐには手を出せない事情もある。
証拠が十分に揃わない限り、ただの疑いでは行動に移せない。
「それまでは泳がせておくしかないということですね」
今まで黙っていた山本が、口を開いた。
「そうだな」
和田は同意した。
「さらなる証拠が揃うまで、慎重に行動する必要がある。もし相手がこちらの動きを察知すれば、証拠を消される恐れもある」
その言葉に一同は納得し、次なる行動を決めるために、いくつか質問を交わした。
具体的な次のステップや調査対象の確認をした後、一同は解散となった。
会議室を後にする小泉たちの頭には、巨額の不正取引の影が重くのしかかっていたが、ようやく核心に迫る手がかりを掴んだという手応えもあった。
部屋を出る直前、小泉はふと、山本の表情を横目で見ると、彼の顔にはまだ不安が色濃く残っていたが、少しずつ冷静さを取り戻しているようだった。




