虚構に揺れる
いつものように車に乗り込んだ小泉は、エンジンをかけると同時に、ベートーヴェンの交響曲第六番「田園」を再生した。
穏やかで牧歌的な旋律が車内に流れ出し、朝の爽やかな空気とともに心を落ち着けてくれる。この曲は、小泉にとって特別な意味を持っている。
都会の喧騒を忘れ、まるで自然の中に身を置いているかのような気持ちにさせてくれるからだ。
しかし、ふとメーターに目をやると、ガソリンの残量がほとんどゼロに近いことに気がついた。
針は最後のラインを指しており、「これはまずいな」とつぶやいた。
少し焦りつつも、落ち着いて近くのガソリンスタンドへ向かうことにした。
通勤ルートを外れ、スタンドへと車を進める間も、「田園」の優雅なメロディは続いていた。
緑豊かな田園風景が目に浮かぶような音楽に身を任せていると、ほんの少しの遠回りも気にならない。
スタンドに到着し、給油を済ませると、小泉は再び車に乗り込み、「田園」の続きを聴きながら、出勤を再開した。
車が再び道路を滑り出すと、小泉はゆったりとした気持ちで仕事へ向かうことができた。音楽とともに、今日も一日が静かに始まっていく。
職場に着く直前に、山本から通知が来ていた。
『偽の会社について情報あり』
小泉は、これを見て「了解」と返信する。
『仕事前に会えるか』と、送られてきた。
小泉は、少しならと返信し、急いで会社に向かった。
山本は食堂にいると連絡があったので、食堂に向かう。山本は、既に椅子に座っており、菓子パンを齧っていた。
「おお、来たか」
小泉が来たのを確認すると、山本が立ち上がった。かなり背が高い山本は、誰もいない方へ行って、ヒソヒソ声で話し出した。
「前に言ってた、株式会社デビウスってやつ。あれ、ペーパーカンパニーだ」
「なんだと」
ペーパーカンパニーとは、法的には存在しているが、実際には活動していない、もしくは実態のない会社を指す。
いわゆるダミー会社で、表向きは問題のない企業として扱われるが、場合によっては違法行為の隠れ蓑として使われることもある。
会社法や法人税法、特定商取引法などに抵触する可能性があり、運営の仕方によっては深刻な法的問題を引き起こすこともある。小泉たちが追っているのは、まさにそのようなダミー会社が関わる一連の不正行為だった。
「それで、何か問題は見つかったか?」
小泉が山本に問いかける。
「見つけた。実際に道路の建設資材を運んでいる会社があるんだが、どこだと思う?」
パソコンの画面を指差しながら答える。
「さあ、デビウスってやつじゃないのか?」
小泉は疑念を込めて返した。デビウスという名の会社が最近浮上しているが、それが何か怪しいのは皆が感じていた。
しかし、山本は首を振る。
「あれはダミーだ。実態はほとんどない会社だ。恐らく、実際に資材を運んでいるのは別の会社だ」
「え、そうなのか? じゃあ、どこが本当の運搬を担当しているんだ?」
小泉は驚きを隠せない。
「ここを見てくれ。」
山本は別の資料を開き、別の企業名を示した。
小泉の目が鋭くなる。
「え、じゃあウチがやってるってわけか?」
「ああ、その通りだ。だからこそ、俺たちの疑念が晴れないんだ。横山は、道路の建設が本格的に始まると同時に、急に一階の別部署へ異動させられたんだ。」
小泉は何かに気づいたように目を見開いた。
「そういうことか。だから横山だけの異動が不自然に思えたんだ。あのタイミングが絶妙すぎる」
「まさにその通り。人事部がこの件に関与しているのは明らかだ。通常の業務異動ではなく、意図的に横山を現場から遠ざけた、もしくは近づけたというのが真相じゃないかと思う。」
小泉は唇を噛み締めた。
これは単なる偶然ではなく、組織全体が何らかの不正行為に関与しているという確信が強まる。
「つまり、人事もこの問題に深く関わっているということだな」
山本は頷きながら言葉を続けた。
「そうだ。人事部が横山の異動を決めたのも、おそらくこの不正が表沙汰になるのを防ぐためだ。しかも、ダミー会社のデビウスを使って、裏で別の会社に仕事をさせるという手法は、なかなか巧妙だ」
「これは簡単にはいかないな」
小泉は腕を組み、深く考え込んだ。
「今のところ、証拠は断片的だが、この線で進めれば、何かしらの形でつながるはずだ。問題は、どのタイミングでそれを明るみに出すかだ」
山本も同じく厳しい表情を浮かべて呟いた。
「それまでは、こちらも慎重に動く必要があるな。相手もこちらの動きを察知すれば、すぐに証拠を消してしまうかもしれない」
二人は視線を交わし、互いの意思を確認する。これは、組織内の不正を暴くための慎重な戦いだ。
相手の一歩先を読まなければならないし、こちらの動きも決して露呈させてはならない。人事部、横山、そしてデビウスを含むこの複雑な関係の糸を解きほぐすためには、さらなる証拠が必要だった。
小泉は意を決して言った。
「まずは、もう少し内部の動きを調べてみよう。人事の動きや、横山の異動理由をもっと突き詰めてみる必要がある」
山本も頷き、
「そうだな。俺ももう少し別の資料を掘り下げてみる。時間はかかるかもしれないが、確実に進めよう」と返す。
小泉と山本お互いにその場で作業を続け、次の一手を練り始めた。
「奴らは確実に白だな」
「黒な」
「ああ、黒か」
山本に冷静に正され、少し恥ずかしくなった。
一旦解散し、職務に就いた。今日は福田は出勤している。
「昨日すまんな。頭痛くて」
「いや、仕方ない。もう大丈夫なのか」
「ああ。もう大丈夫だよ」
少し会話を交わし、業務に当たった。
いつものように、大学生らは和田に連れられ、徳山は吉川に付き纏い、平井は何も知らずに福田と話している。
こんな日々が数日続いた。
福田を連れ、山本といつもの店で合流する。
「ずみさんから聞いてるとは思うが、確実に上層部は不正を働いてる」
福田には、今日の朝山本から聞いたことを全て話しておいた。
「ああ、聞いた。やべえな」
「ただ、誰が関わっているかは分からない」
山本が頭を掻いて頷いた。
「大学生組は何か掴んだか?」
「あ、そうだ。眼鏡をかけた背の低いオッサンが、常務室に何度か入るのを見たって言ってる子が三人いる」
「それって横山じゃないのか?」
「ああ、恐らくそうだ」
やはり、横山は上層部と繋がっている。
「常務と繋がってるのかもしれんな」
小泉が唸った。
「かもな」
福田も同意する。
一同は解散し、小泉は考え事をしながら運転していたため、何度かクラクションを鳴らされた。
気づけば、いつもより十分ほど余計に時間がかかっていたが、その間に考えを整理することができた。
ほぼ確実に、常務と横山が繋がっているのは間違いない。
そして、それに加えて人事もこの不正に深く関与している可能性が高いと感じた。
家に着くと、和美がクローゼットを漁っていた。
「何してるんだ?」
「あ、おかえりなさい。明日、友達とランチに行くのよ」
「そうなのか。どこまで?」
「立川よ。美味しい店があるらしいの」
小泉は返事をし、洗面所に向かう。
リビングに戻ると、和美が夕食の準備をしてくれている。
「その人は龍斗の友達の親御さんか?」
「そうよ。和田さんって言うの」
和田?どこかで聞いたような気がする。なんなら会ったような気もするが、小泉は疲れていて思い出せなかった。
「ほら、前にアマゾンで訳ありのお菓子を買ったでしょ。あれを教えてくれたのが和田さんよ」
「あ!」
前に職場で和田が、ラング・ド・シャをくれたことがある。その時和田は、妻が買いすぎただの、友達と一緒に買っただの言っていた。
「もしかしてその人、俺と同じ職場で働いているか?」
「さぁ。そこまでは知らないわ」
「そうか」
小泉は上辺で返答し、和田のことを考えていた。




