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懇親へ

 出勤まで、一時間弱。

 そして今日は、大学生組の研修期間の最初の日。彼らは、しっかり情報を得てくれるだろうか。

 小泉と福田が事の詳細を伝えると、意外と興味を持っていた彼らだが、勤務態度を加味すると、役員たちの機嫌を損ねて、すぐに辞めさせられそうで、少し不安だった。

 小泉は、読みかけていたディックの本を薄い水色のしおりで区切ると、静かに机の上に置いた。約四十分で六十ページほどを読み進めたが、物語の余韻を楽しむために一度本を閉じることにしたのだ。

 手元には、すっかり冷めたほうじ茶のカップが残っている。軽く持ち上げ、最後の一口を口に含むと、ふっと穏やかな息を吐きながら書斎を後にした。

 リビングに向かうと、和美が用意してくれた軽食がテーブルに並べられていた。いつものように手早く平らげ、身支度に取りかかる。

 洗面所の鏡に向かい、いつもの儀式が始まる。小泉は、ちょび髭を丁寧に剃り整えることを、朝の大事なルーティンとしていた。

 鏡に映る自分の顔を見つめながら、髭剃りの感触を確かめるたび、集中と落ち着きが少しずつ心を満たしていく。

 滑らかな剃り心地は、まるで今日一日を乗り切るための小さな儀式であり、これで仕事に対する気合いが入るのを感じる。

 すべてが整うと、小泉は玄関へ向かった。靴を履き、軽く姿勢を正す。

 そして、車のキーを手にしながら、今日の仕事に向けた心の準備を始める。この瞬間、小泉の頭に浮かぶのはいつもお気に入りの音楽だった。

 車に乗り込むと、オーディオにセットするのは、マーラーの交響曲第一番《巨人》。その音楽は、小泉の心を揺さぶり、特に最終楽章の壮大な響きは、彼の中に眠るエネルギーを解き放つかのようだった。

  車の窓の外には、春の日差しが優しく差し込み、道沿いに咲く桜の木々がその淡い花びらを風に揺らしている。小泉の胸の内には、心地よい緊張感が広がりつつあった。

 この音楽と共に走り出すと、どんな難題が待っていようと、必ず乗り越えていけるという確信が生まれる。壮大な旋律に包まれながら、小泉は仕事に向かって車を走らせた。

 交響曲が進むにつれて、彼の気持ちは次第に引き締まり、今日の戦いへと向かう心の準備が整っていくのを感じる。

 そして、ついに《巨人》の最終楽章が始まる。高鳴る管弦楽の旋律に呼応するように、小泉はハンドルを握る手に力を込めた。シンバルが一撃を鳴らし響き渡るその瞬間、まるで自分自身が巨人にでもなったかのような気分で、アクセルを強く踏み込む。

 音楽のクライマックスに合わせて車は力強く進み、小泉は戦場へと向かうような覚悟を持って、今日の仕事に挑む決意を新たにした。


 到着すると、福田が珍しく和田と談笑していた。普段はあまり見ない組み合わせに、小泉は少し驚きつつ挨拶を交わした。

「おはよう。和田さんがこれをくれたんだよ」

 福田が手にしていたのは、ベルギー産のチョコレート、ラング・ド・シャだった。

 和田が少し照れた様子で言う。

 「これは私の妻がアマゾンで買い過ぎてしまったお菓子で、訳あり商品らしい。よかったら」

「え、いただいていいんですか?」

 小泉は驚きながらも、和田の妻の話に思わず笑みがこぼれる。自分の妻、和美も同じようにお菓子には目がないので、少し親しみを感じたからだ。

 和田は少し堅苦しい口調ながらも、妻のエピソードを微笑みながら話し続ける。

「妻が友達と一緒に注文したら、数を間違えてしまったらしい。情けない話でね」

 その堅さが逆に和田の人柄を際立たせ、小泉は以前ほど彼を嫌いだと感じなくなっていた。


 十七時に、大学生組が和田に引率されて、事務所から奥のエレベーターで高層階に上がっていくのを、吉川と徳山、平井と福田で見送った。

 彼らには、役員の言動をそれぞれメモしてもらうという役割と、怪しいと思ったことをメモしてもらうように言いつけてある。

 成功するかは分からないが、一か八かでやってみる。

「緊張してるのか」

 福田が横目で聞いた。

「ああ」

 短く息を吐き、頷いた。

 平井は何も知らずに、笑顔で見送っている。


 その日の夜、いつものように業務を終えた。徳山には、もう和田に引っ付かなくても良いと言ったが、なかなか話が通じず、吉川に頼んでようやく諦めてもらうことができたようだ。

 そしていつものように、山本と福田と三人で、中野の居酒屋で今日の出来事を共有する。

 小泉は、大学生のメモをそれぞれに見せたが、三人は特になんのヒントもないと落胆した。

 

 それぞれが岐路につき、小泉が家に着いたのは零時を五分ほど過ぎた頃だった。

「最近遅いけど何してるの?」

 和美が不安そうに聞いてきた。そういえば、小泉は何故遅くなるのかを言っていなかったのだ。

 会社での事を話すと、和美は憤慨と同時に不安を露わにした。

「大丈夫なの? そんな問題に首突っ込んで」

「分からないが、バレた時はうちの会社もろとも木っ端微塵になる可能性がある。そうなるより、内部告発で少しでもダメージを減らすとか何かした方がいいと思う」

「そうなの? よく分からないけど」

 和美には、心配しなくていいとは言ったものの、小泉も心配を拭い切ることはできなかった。


 翌日、小雨が降り続き、じわじわと分厚い雲が空一面を覆い隠していた。

 太陽の光も次第に弱まり、景色全体が薄暗く沈んでいる。小泉はこの中途半端な天気が嫌いだ。

 雨が降るならしっかり降れ、降らないなら青空を見せろといつも思う。どっちつかずの曖昧な状況が性に合わないのだ。

 職場に着くと、和田がデスクチェアに深く座り、目を閉じているのが見えた。寝ているのか、ただ目を休めているのかはわからないが、わざわざ声をかけて起こすほどのことでもない。

 小泉はそのまま和田を放っておいた。

 しばらくすると、平井が事務所からゆっくりと出てきた。 

 彼はいつもどおりの落ち着いた足取りで、小泉の方に歩いてくる。

 曇り空の下、事務所全体もどこか重たい雰囲気に包まれているようで、小泉は胸の中に軽い倦怠感を感じた。

「今日は、福田が休む連絡をよこしてきた。天気通で頭が痛いだと」

 確かに、今は本降りになっている。

「そうなんですか。確かに、久しぶりの雨ですもんね」

「ああ。桜が散ってかわいそうだ」

 平井が、事務机横の小さな窓から外を覗いて呟いた。

 確かに、これまで晴れてきたのに今日は、結構な雨だ。さっきまでは、しとしと程度だったのに。

 他愛もない話をしていると、和田がジャーキングでぴくっと動き、のっそりと目を覚ました。

「おっと、失礼。仮眠してしまった」

 和田が恥ずかしそうに、こちらを見て言った。

「何が仮眠ですか、まだお昼ですよ、和田さん。しっかりしてくださいよ」

 平井が、大きな声で笑いながら言った。

 その様子を見て小泉も笑っていると、和田も野太い笑いを返してきた。

「なっはっは。春眠ですな」

「結構冷えるのに?」

 そう言い、笑いながら三人で、業務の内容を確認し、十四時までそれぞれの担当の業務をこなした。


 今日も、和田が大学生組を引率して行った。大学生組がいないので、派遣社員の力はありがたい。

「いや、最近暑くなってきましたね」

 阿久津が元気な声で、大山と杉谷に話しかけている。

「確かに、今日はもう二十四度とかでしたよ」

「マジっすか、だから暑いのか」

 こちらも他愛もない話をして、笑っている。


 無事に全て終えると、大学生組が和田と共に降りてきた。

「どうだった?」

 小泉が早速聞いた。

「いや、今日常務がお休みで、業務なんとか部長って人の世話になりました」

 上田が言うと、隣で笑っていた三波が正した。

「業務統括部長な」

「あーそれそれ」

「なるほど、常務はいなかったのか。他に変わったところは?」

「特にないです」

 五人が異口同音に返事をし、小泉は礼を言って解散した。今日は一日、山本と顔を合わせることはなく、職場でもどこか物足りなさを感じながら過ごした。

 時間は流れ、気がつけば定時を迎えていた。

 外に出ると、冷たい雨がしとしとと降り続いていた。

 桜の花びらが、雨に打たれて無惨に地面へと散り落ち、春の儚さを物語っている。

 その景色を見ながら、小泉は少しの寂しさを感じながら、静かに帰路についた。

 まるで季節が終わりを告げるかのように、咲き誇っていた桜が姿を変えていく様子に、小泉の気分も沈みがちだった。

 車に乗り込むと、いつものように音楽を流して気を紛らわそうと、今回はチャイコフスキーの交響曲第六番《悲愴》を選んだ。この曲には特有の重さと深い感情がある。

 特に今日のような曇り空に、哀愁漂うメロディが妙に心に響く。重々しい管楽器の音色が車内に満ちると、雨の音と相まって、一層心が沈み込んでいくのを感じた。

「なんでこんな曲を選んでしまったんだろうか」と小泉は少し後悔しながらも、しかし曲を止める気にもなれないまま、そのまま走り続けた。

 交響曲の第一楽章が進むにつれて、車内はますます悲壮感に包まれる。小泉の心も、まるで桜が雨に打たれて散るように、重たいものが次第に積もり始めた。

 第一楽章の終わり、フルートやトランペットの葬送的で甘美なメロディが小泉を慰める。

 道中、信号に引っかかることもなく、車はスムーズに進んでいく。チャイコフスキーの旋律に揺れながら、小泉はぼんやりと窓の外を眺めた。

 雨粒がフロントガラスに打ちつけられ、ワイパーがそれをすくい取る。その規則的な音とリズムが心地よく感じられる一方で、頭の中では交響曲が複雑な感情を呼び起こしていた。

 《悲愴》という副題が示す通り、曲の進行とともに小泉の気分もさらに沈んでいった。

 それでも、道中は滞ることなく、信号に一度も止められることなく家に到着した。どこか皮肉なことに、普段は信号に引っかかるとイライラするのに、今日は何も考えずに家に着いてしまったことが少しだけ不思議に思えた。

 車を停め、雨の中を小走りで家に入ると、リビングでは和美がテレビを観ていた。

 どうやらニュース番組が流れているようで、内容は総裁選に関するものだった。大画面に映るのは、支持率で首位を走る石本の姿だ。

「相変わらず、石本が首位なのか」と小泉が声をかけると、和美は「うん」と軽く頷いた。

「でも、一ノ瀬がすごい勢いで追い上げてるって、さっきの独自取材で言ってたわよ」と続ける。

 テレビには、政治評論家が次々と意見を述べている。石本は安定した支持基盤を持っているが、一ノ瀬のカリスマ性と鋭い政策論が若い世代や無党派層を中心に支持を集めているという解説が流れていた。

 和美はその様子を黙って見つめながら、少し難しい顔をしている。

 小泉も、そのニュースに耳を傾けつつ、ふと今日の出来事を思い返していた。山本とは会えず、仕事も淡々とこなしただけで特に進展もなく、雨の中、桜が散っていくのを眺めた。ただそれだけの一日だった。

 それでも、何かが変わろうとしているような予感が、小泉の心の奥底でかすかに揺らめいていた。

 交響曲「悲愴」の余韻がまだ心の中に残るまま、テレビから流れる今日一日のニュースが、彼の中でどこか現実感を欠いたまま響いていた。


『総裁選 野党の反応』

『岐阜県の補欠選挙 野党が僅差で勝利』

『国土交通省職員 飲酒運転で懲戒解雇』

『兵庫県知事 パワハラ疑惑で追及』

『北朝鮮 三発のミサイル発射』

『韓国大統領 坂本首相と会談』

『東海道・山陽新幹線 大雨で最大四十五分の遅れ』

『二週間ぶりに各地で大雨』

『東京 二週間ぶりに二十度を下回る』


 つらつらとアナウンサーが読む声を右から左に聞き流し、和美が運んできた和食を見てお腹がなった。

「今日は、茄子の煮浸しよ。安かったのよ」

 他にも、味噌汁、かぼちゃの煮物やきんぴらごぼう、豆腐などの小鉢が輝いて見える。

 ふわふわと食欲をそそる匂いを纏った湯気が、立ち込めると、

「いただきます」

 と手を揃え、味噌汁を啜った。


 和美は、ぼんやりとテレビを眺めていた。

 小泉が隣に座り、会社の話や日中の出来事、和美の友達の話などを取り留めもなく話すうちに、夕食はいつの間にか完食していた。

 食後、小泉は風呂へ向かう。湯船に浸かりながら、今日あったことをぼんやりと思い返し、頭の中で整理していると、知らぬ間に時間が経っていた。

 風呂から上がり、ベッドでぼんやりと一日を思い返している。

 ふと窓の外に目をやると、麗らかな太陽がすでに空に顔を出し、朝の光が部屋を優しく照らしていた。

 鳥たちがその陽光を浴び、長閑に鳴き交わしているのが聞こえる。

 小泉は、いつの間にか眠りに落ちていたことに気づいた。

 昨日は花冷えで少し寒さを感じていたが、今日は春らしい暖かさが戻り、鳥たちもその変化を喜んでいるようだ。

 小泉もまた、心地よい陽射しに包まれながら、自然と心がほっとし、顔がほころんだ。

 春の温もりが身体に染み渡る朝だった。

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