幕間:屍山血河の花
古い、まだ私が、何も知らない頃の蕾の記憶。
『おとうさんはなんのおしごとをしてるの?』
始まりは、友達が父親の仕事を見せてくれた時で。
『おいわいにつくってくれたの!』と喜んで髪飾りを見せてくるものだから、自分の親は何をしている人なんだろうと気になって、聞いたことがあった。
『……お父さんはね、誰かの大切な人を、空に送る仕事をしてるんだ』
意味が分からなかった。
お父さんが複雑そうに顔を歪めるものだから、あまり話したくないという雰囲気をひしひしと感じて。
でも、単純に気になった。
『そらにおくる……の? どうやって?』
『……体をね、燃やすんだ。そうしないと、大変なことになる。もっとひどいことになる』
『もやしちゃったらしんじゃうよ?』
『逆なんだ、シャル。死んだから……生きられなくなったから、燃やすんだ』
まだ、何も知らない子供の私には分からなかった。
体を燃やせばヒトは空に行くということも。
そうしなければ大変なことになることも。
ヒトは、死ぬということも。
『お父さんは……亡くなった人の最期を看取って送る、葬儀官って仕事をしてる』
『……看取るってなぁに?』
『誰かが命を全うしたことを……今まで、確かにここで生きていた事実を、この眼で覚えておくことだよ』
お父さんは言葉を選びながら、普段よりも低い声で答えた。
たまに通話口で口に出す、深刻そうな声と同じだった。
『命って、終わるの?』
お父さんの仕事を聞いただけなのに、話が脱線してしまっていた。
『そうだよ。形あるものには終わりがある』
『あたしも? おとうさんも……いつかは、しんじゃうの?』
〝死〟という現象を認識したのはその時だ。
あまりに漠然とした、薄暗い洞穴のようなものが唐突に脳裏に過ぎって、えも言われない震えを感じたのを覚えている。
嫌だと思った。だから、否定してほしかった。
『……そうだよ。お父さんはきっと、シャルより先に死ぬだろう。生き物には寿命があってね、誰も、ずっと生きられるわけじゃない』
『やだ! お父さんがいなくなるなんてやだ! いっしょにいたいの、ずっといっしょにいるの!』
『ずっと未来の話だよ。大丈夫さ、シャルがちゃんと大人になるまで、お父さんが守るし、一緒にいるから』
『……でも、いつかはいなくなるんでしょ』
ぐずった私の頭を、お父さんは優しく撫でた。
二度三度と撫でていた手はそのうち止まって、ぶつくさと口を尖らせた私の機嫌を、どうやって取り戻そうか思案しているようだった。
『…………うん、でもね、そんな時のために葬儀官がいる。大切な人を失って悲しい人を、一人で悲しませないためにね』
今にも瞳から涙がこぼれそうな私に、お父さんは言った。
人がいなくなるのは悲しい。想像するだけで胸が壊れそうなのに、実際そうなってしまったらそれこそ生きていられない。
どうやら、葬儀官というのは人に寄り添う仕事らしい、とその時察した。
『じゃあ、あたしも葬儀官になる』
『シャル?』
『葬儀官になって、もしもお父さんが空に行きたくなった時に、あたしが送るの』
一筋こぼれた涙を拭って、幼い私は宣言した。
『あたし、おとうさんみたいな立派な人になる』
まだ、癌の存在を知らない頃。
ヒトの死が何故管理されなければならないのか、理解できなかった頃。
生者を支え、死者を弔い、ヒトとしての尊厳を守る役割であると、まだ分からなかった頃。
それでもお父さんが、そうして他人の役に立つ仕事をしているというのなら、それは誇らしいことだった。
『……いいかいシャルロット』
お父さんは、言い聞かせるように静かに呼びかけると、私を愛称ではなく名前で呼んだ。こういう時は大抵大事な話をする時だったから、真っ直ぐにお父さんを見据えたまま背筋を伸ばしていた。
『葬儀官は、人の死に触れる仕事なんだ。亡くなった人それぞれに人生があって、関わった人も、知っている人も、たくさんの人が死者を悼みにやってくる。目の前で悲しむ人を前に、言いようもない感情を抱える人たちを前に、つつがなく葬式を終わらせなくちゃならない。泣きたいのは遺族なんだから、思うところがあっても泣いちゃいけない。シャルロットにはできる? 人の心を、命を。どんな人であっても平等に扱うことが』
『……わかんない』
『……お父さんと同じ葬儀官になりたいと思うなら、覚えておいて』
お父さんは私の両肩にそっと手を置いた。
顔を上げると、いつになく険しい表情をした父が、真っ直ぐに見つめていた。
『一番大事なのは、命に敬意を払うこと。そして、どんなことがあっても何を思っても、火葬をためらわないこと。きちんと、確固とした覚悟と意志を持ちなさい』
正直、小難しくて何を言っているのかはさっぱりだったけれど。
私は深く頷いた。
『……そうか。老後は安泰だなぁ』
お父さんは小さく笑ったのに、口角は震え続けていた。
理由はその時分からなかった。
どうしてそんな悲しそうなのとも、聞けないままだった。
*
お父さんみたいに立派な人になる。心の根源に染み着いた父への一方的な約束だった。
父が大好きだった。憧れだった。だから、思い出さないようにした。
胸に父の顔が、声が去来するたび、抑え込まなければならない痛みがあったからだ。
意識が泥沼の中から這い上がる。腕を突き出してヘドロを掃い、淀んだ水面から這い上がると、いつものように光の差さない暗がりにいる。
現実で思い出したくない事を思い出した時、夜眠ると夢とも言えない夢を見た。
感覚も意識もはっきりしているので明晰夢のようなものだが、それにしては何度も見せられるので辟易してくる。
何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も同じ場所。
同じ場所で、同じ流れで、道中の行動は違っても結論は同じ。
しゃがみ込み、下半身はドロついた液体に埋もれている。手で掬うと糸を引いて隙間から零れ落ちていくそれは、壊死した悪性細胞に近かった。
──どんだけ腐らせてるんだって言いたいの?
この場所は、全てがシャルロットに牙をむく。
五感で感じるものすべてが、彼女を苛める。
だから、いつものように。
〝あの子〟もここに、いるはずだ。
「……おとうさん……おとうさん……! どこにいるの、帰ってきてよぉ……!」
子供の泣き声がする。
親を亡くして泣き叫ぶことしかできない、無力な少女がそこに居る。
シャルロットは汚れた体も泥でべたついた長い髪もそのままに、慣れた動作で泥の中に腕を突っこんだ。
──うるさいなぁ、喚かないでよ。
水面の底を探って冷たいグリップを探り当てると、泥の中から引っ張り出す。
「寂しいよぉ、一緒にいてよ、なんでいなくなっちゃったの?」
沈んだ瞳で泣きじゃくる少女を睨みつけ、魔力を込めるようにグリップを叩く。
──うるさい、何度も何度も同じことばかり聞いて。
──同じことばかり叫んで、見苦しい。
光に曝されれば眩く輝く純白の銃は、今は灰がかったようにくすんでいる。
「……何年も何年も、いつまでそうしてるつもり?」
忌々しくて虫唾が走る。魔導銃を片手に立ち上がったシャルロットは、滴る泥を引きずりながら喚く少女に近寄った。
憤怒が魔力となって湧き上がる。
歩く度、零れ落ちた泥が結晶化して紅紫の欠片が弾け飛ぶ。
「お父さんは帰ってこないの。どれだけ祈っても願っても帰ってこない」
「なんで? なんで戻ってこないの?」
──そんなのこっちが聞きたいよ。
「いい加減現実見たら? 泣いても叫んでも無駄なの。お父さんには届かないの」
──いなくなって何年になると思ってるの。
もう、十五年になる。
生死不明のまま、いなくなった父は、先日火葬したマクシミリアンのように帰ってきてはくれなかったから。
──きっと、帰ってこられなかっただけなの。
奇跡なんて起きなかった、だけなのだ。
よくある話。
年間発生し続ける行方不明者の、ありきたりな最期を辿っただけの話。
きっと知らない間に、特別葬儀官に火葬されたに違いない。
「……ちゃんと、お別れして、看取ったじゃん」
──遺体のない、空っぽの棺をだけど。
──だから、ちゃんと、お父さんとの約束は、果たしたでしょ?
口を突く言葉は氷塊のように冷たく、シャルロットは少女を見下しながら銃口を向けた。
「お父さんは死んだんだよ」
重圧と軽蔑が乗った言葉に、少女がハッと顔を上げた。
大きなエメラルドグリーンの瞳は泣きはらして充血し、お気に入りの薄ピンクのワンピースを涙で濡らして、少女が戦慄く。
「いやだよ、あきらめたくな──」
耳が痛くなるほど聞いた言葉に、シャルロットは容赦なく引き金を引いた。
速射された三発の弾丸が、少女の額を直撃する。
一発目が頭を割った。
二発目が頭蓋骨の中で脳を掻き回した。
三発目で、頭が木端微塵に吹き飛んだ。
制御を失った首無しの少女が、泥沼に落ちた。シャルロットの手から握っていた魔導銃がするりと零れ落ちて、少女の亡骸と共に沈んでいく。
追撃をかけてもよかったが、死体撃ちする余裕はなかった。
「…………諦めなさいよ」
震える声で呟いて、シャルロットは沈みかけた少女の腕をむんずと掴んで引っ張り上げた。うつむきながら死体をずるずると引きずって、陰った小山に放り投げる。
シャルロットの心の奥の奥。誰にも見つからないよう蓋をして厳重に鍵をした穴に少女の死体のゴミ捨て場がある。泥の中に放り込み続けて顔を出した小山に、新たにできた死体を積み上げる。
幸い、ここは明瞭な夢の中。現実ではできない芸当だって、簡単にできる。
最初は首を絞めて殺した。
次現れた時は気が済むまで殴り続けた。
腹を抉って中身を出した。
手足をねじり取って達磨にした。
喉を裂いた。
目玉を突いた。
肉を潰した。
殺しても。
殺しても。
殺しても殺しても、少女は心に沈み込むたびに現れ続けた。足元に広がる泥沼は、血液が腐ったヘドロだった。
「……いい加減、受け入れなさいよ……」
力が抜けたようにへたり込む。
いつもこう。うるさいから、黙らせるには殺すしかない。
自分を殺すのも、子供の自分に喚かれるのも、同じくらい、苦しい。
でも、何故だか。
躊躇なく、やれてしまうのだ。
「──っふふ、ふふふ……」
目の前に積み上がった己の屍を見つめて、シャルロットは片手で抑え込んだ顔を歪めた。眉尻を下げ、小さく口角を吊り上げる。
どうせ独りだ。誰とも合致しない魔力。制御の利かない体。あまりに深すぎる心の闇。誰にも理解など求めないし、誰にも理解などさせたくない。
あの子は化け物だと、誰かが言った。受け入れるには十分なほど、己の異質さには気付いていた。