5.なめられ、かもにされ、ころされる
今、竜真は「高校で生き残れない」と言った。
秀貴は『高等学校』について知っている事を記憶の奥から引きずり出す。本には、勉学に励む場だと記載されていたはずだ。そんなに危険な場所だとは、思ってもみなかった。
だが、書面だけでは表しきれない何かが、高校という場所には存在するのかもしれない。秀貴は自分の無知を恥じた。試験と面接に受かればそれで良いのだと思っていたが、考えが甘かったらしい。
竜真は顎に手を当て、肩を竦めて言った。
「まず君、ド金髪でしょ? それじゃ、真っ先に殺されるよ」
「こ、殺されるのですか……!」
衝撃の事実だ。まさか、学び舎で真っ先に攻撃を受け、殺される事があろうとは。
「うん。同じように金髪にしてる奴か、リーゼントか……スキンヘッド辺りにボコられて終わりだろうね」
「えっと、リーゼント……? ボコ……何ですか?」
竜真は自分が居間で読んだままにしていた本を、秀貴に開いて見せた。コマの中に絵が描かれている。コテコテのヤンキー漫画だ。
秀貴は漫画自体、初めて目にした。絵と文が一緒に読める事に感動したのも束の間。本の中の登場人物たちは、特攻服、短ラン、長ラン、パンチパーマ、金髪、眉なし、そして、竜真が言ったリーゼントやスキンヘッドの男たちばかり。そんな彼らが大暴れをする世界が描かれていた。金属バットにメリケンサックや木刀を扱い、殴る蹴る。流血した男たちの間に生まれる、熱い友情。
秀貴は言葉を失った。人の多い“学校”に行くだけでも不安だというのに。まさか、そこへ通うのが命がけだとは思いもしなかったのだ。
「た、竜真さん……。僕は一体、どうすればいいですか?」
事の重大さを受け止め、先輩にあたる竜真に教えを請うた。
「うん。まずは体作りだね。そんな、蹴ったら折れそうな体じゃダメだよ。脂肪を付けて、それを筋肉に変えていこう」
「はい」
「筋肉作りと並行して、やらなきゃならない事が他にもあるよ」
竜真の言葉を聞き逃すまいと、秀貴は真剣な面持ちで身構えた。
「言葉遣いだよね」
「え……?」
竜真の言う事が理解できず、思わず訊き返した。言葉遣いが何だというのか。
「何か……不都合があるのでしょうか」
「ダメダメ。そんなお上品じゃだめだよ。ナメられて、カモにされて、殺されちゃうね」
「なめられて……かもにされて……ころされる……」
(高等学校には、舌で舐める事で人を鴨に変えてしまう人がいるのかな……)
不安が更に大きくなる。
確かに、自分は存在するだけで周りの人を殺めてしまう力を持っているのだ。人間を別の生物へ変えてしまう力を持った人がいても、何らおかしい事はない。
秀貴は高校へ行くのが恐ろしくなってきたが、これも人の中で生きていくための試練だ。そう思って、竜真に質問を続ける。
「あの……では、竜真さんの喋り方を真似れば、カモにされずにすみますか?」
「あー……僕のもダメだね」
竜真の言っている事が理解できない。彼は成人している。しかも、秀貴が通う予定の高校を卒業しているのだ。この上ないお手本だろう。
そんな人物に『ダメ』と言われ、アテがなくなってしまった。他に知り合いも居ないのだ。
「僕はもう卒業してるからね。何ていうか、大人の余裕? みたいな」
「そうなのですか……。では、どなたにご教授願えば――」
秀貴が参っていると、おもむろに玄関が大きな音を立てて開いた。ピシャンッと閉まる音に続いて、朝を報せるニワトリのように元気な声が飛び込んできた。
「たっだいまー!」
入ってきたのは、少女だった。身長は一四〇センチくらいだろうか。それよりも小さいかもしれない。ふわふわとした金髪は腰まであり、輝いているようだ。じっとしていれば麗しく可憐な少女なのだろうが、靴をピョンピョンと脱ぎ散らかし、跳ねるように居間へ入ってきた。
目尻の吊り上がった大きな目まで黄金色に煌めいている。頭のてっぺんには、重力に逆らい、立派なアホ毛が弧を描いて存在している。
小さいながらも存在感は抜群だ。声も大きい。
「兄貴、メシメシー! って、何だ? もやしみてーなヤツが居んじゃねーか」
「はい。これが秀貴君の先生。僕の妹のつぐみだよ」
秀貴は呆気にとられていた。
今まで読んだ物語において、小さくて可愛らしい少女というものは、おしとやかか、少々おてんば……という人物が多かったからだ。
つぐみの登場によって、秀貴の中にあった“女性像”というものがガラガラと音をたてて崩れた。同時に、自分は春江しか女性と察した事がないのだから、と女性に対する認識を改めた瞬間でもあった。
「いやぁー、僕もこれでも昔は天使みたいだ、ってちやほやされてたんだけどさー。つぐみの可愛さには負けちゃうよね」
「おい、兄貴ぃ寝ぼけた事言ってどうしたんだ? 熱でもあんのか? あ! あたしが殴って治してやろうか!」
小さな拳を握り、つぐみは真白い歯を剥き出しにして笑った。
「うーん、荒療治! 元気だから遠慮しとくよ」
竜真が苦笑しながら、秀貴を手で示した。
「ほら、この前父さんと母さんが言ってた、居候の成山秀貴君」
「あ、成山秀貴です。しばらくの間、お世話になりま――」
「お前、男だったのか!」
かなりくい気味に来た大声と唾を真正面から受け止め、秀貴が目を白黒させる。
つぐみは、品定めでもするように秀貴の周りを歩き回って、顎に手を置いた。
「はぁー。あたしはてっきり、女の幽霊かと思っ――」
きゅうぅぅぅ。
つぐみの言葉を遮った、情けない音。つぐみは眉を顰めてあたりを見回した。
「何だ今の音。ナマカフクラガエルの鳴き声か?」
首を傾けるつぐみの目の前には、顔を赤くして俯いている秀貴の姿。
「すみません……昨日のお昼から何も食べていなくて……」
「お前、腹の虫まで弱っち―のか!? 男だったらもっと、こう……雷鳴みたいな音を轟かせろよ!」
「それはつぐみのお腹でしょ」
竜真が口を挟んだと同時に、つぐみの腹から雷鳴のような音が轟いた。
「つぐみのお腹には、虫じゃなくて怪獣が住んでるのかな?」
「ひゃっひゃっひゃっ! めちゃんこかっくいー!」
大声で笑うつぐみを、秀貴はただただ無言で眺めるしかなかった。全くついていけないのだ。この、嵐のような勢いに。
「メシの前に、秀貴は風呂に行けよ! あたしが超特急で沸かしてきてやんよ!」
竜真も、それがいいね、と頷く。
つぐみはすぐさま風呂場へと走っていき、次いで水が勢いよく注がれる音が聞こえてきた。
秀貴は今まで、離れの中に併設されていた風呂を使っていた。五右衛門風呂だ。自分で水を入れ、外から春江が火をおこしてくれていた。この家もそうなのだろうか、それとも全く別の作りをしているのだろうかと、思いを巡らせる。
どちらにせよ、伯父の家に連れて行かれてからは温かい湯に浸かることなど皆無だったので、ありがたい。
「シャンプーやリンスや石鹸や……あと、着替えとタオルも置いておくから好きに使ってね」
僕が小学生の頃着ていた服がまだあるはず……。呟きながら、竜真は二階へと向かった。
ぽつんと残された秀貴は、不躾かと思いながら初めて室内をじっくりと見回した。
照明には傘のようなカバーがあり、畳の上には絨毯が敷かれている。それ自体が熱を持っているので、秀貴は自分が今座っている物が『電気カーペットというものだ』と、記憶の中にある、本によって得た知識を引き出していた。
となると、台の上に乗っている四角い箱は「テレビ」だろう。ガラス製らしい画面の横には、ボタンとダイヤルが付いている。
見たことのないものばかりで、全てが新鮮だった。
「秀貴! 風呂沸いたぜ! 入ってこいよ!」
あれからまだ五分ほどしか経っていないのに、つぐみが声をかけてきた。手を引かれ、脱衣場まで案内される。
風呂場の中を見やると、また初めてのものだらけ。
「あ、あの……」
「何だ?」
「あれは何ですか?」
「ありゃシャワーだ」
つぐみが、つまみを回す方向で水と湯が切り替わるのだと説明する。
「給湯器というものを経由してお湯が出てくる蛇口があると本で読んだことがありますが、初めて見ました」
感心……あるいは感動している秀貴に、つぐみは、信じられないものを見た! という目を向けている。
「お前、何も知らねーからバカかと思ってたけど、頭良いんだな」
「いえ。実際、百聞は一見に如かず……と言いますし、見聞を広めるのが僕の課題でもあります」
つぐみが少しばかり顔を渋くしていると、竜真が布類を持って現れた。
「話し声が聞こえると思ったら……。案内が済んだら、つぐみは出なよ? 秀貴君は男の子なんだから」
バスタオルと着替えを棚に置きながら、竜真はやれやれと嘆息している。
「これ、僕が昔着てたトレーナーとズボン。下着が無いから、後で買いに行こうね」
広げて見せられたズボンを見て、秀貴が大きな目をぱちくりさせた。
それに気付いた竜真は、どうしたのかと尋ねる。
「僕……洋服を着たことがなくて……」
着衣方法が分からないらしい。
せせら笑っているつぐみを無視し、竜真は簡単に、タグのある方が背中側、ズボンはファスナーが開く方が前、と教えた。そして、少しの問答を経て、つぐみと竜真は脱衣場から出ていった。
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