未知なるホワイトデー:3
「どうだ!」
米神から汗をひと筋流している秀貴が、つぐみの目の前にドンッ! と大皿を置いた。
皿の上には、こんもりとした丘の形をした黄色い物体。皺のひとつもない。これぞ、というオムライスがブロッコリーを脇に従えて鎮座している。
つぐみが思わず、おお! と感嘆の声を上げた。
それを聞いた秀貴が、満足そうにエプロンの掛かった胸を張る。
つぐみが手を合わせて「いただっきまーす!」と叫ぶように声を張る。
見た目は文句なし。味も、今回のものは王道といえる、ケチャップ味のチキンライス。
スプーンが玉子の膜を割り、赤いご飯と共につぐみの口へと運ばれていく。
「うめぇ!」
そのひと言に、秀貴は張っていた胸を撫で下ろした。見た目に自信はあったものの、味でダメ出しをされる可能性を危惧していたのだ。味に関してはいつも「うめぇ」を貰っているのだが……。
「でも飽きた! からあげ食わせろ!」
つぐみの容赦ない言葉が秀貴を襲う。
「つぐみは給食で別のモン食ってんだろ。ほら、ちんたらしてっと学校に遅れるぞ」
つぐみの食の進み具合を見ながら、やけに薄い鞄をつぐみに手渡す。
それを受け取ると、つぐみは手を振って「いってきまーっす!」と、飛ぶように出ていった。
「いってらっしゃい」という秀貴の言葉は、彼女の忙しい足音に掻き消された。
開けっ放しの扉を閉めて、出しっぱなしの食器を流しへ運ぶ。
「つぐみ、行ったんだ」
とは、今起きた竜真の眠そうな声だ。
今日の朝方まで仕事をしていたらしく、珍しく起床が遅い。
「おはよ。竜真さんは、まだ寝てなくていいのか?」
「おはよう。うん。それよりお腹すいた」
いつも綺麗なウエーブを描いている髪が、今は絡まるように頭からしな垂れている。
ふらふらと洗面所へ行く背中を数秒眺めた後、秀貴は台所へと急いだ。
「竜真さんがそんなに疲れてるなんて珍しいな」
竜真の前に、綺麗な楕円形をしたオムライスを置き、秀貴はその向かいに腰を下ろした。
自分には、真ん中が破れて赤いご飯が覗いているものを盆から下ろす。
つぐみと竜真に出したものは、店のものと並んでも遜色ない出来だったのだが、まだ失敗することもある。
秀貴が手を合わせて「いただきます」と小さな声を発した。
「ちょっとね。仕事は何てことないんだけど、色々あってさ」
竜真は乾いた笑顔で肩を竦めて見せた。
五歳も年上ということもあり、普段は頼れるお兄さん。そんな彼が弱っている姿を見せてくれる事を、秀貴は少しだけ喜ばしく思った。
(少しは信頼してもらえてんのかな……)
穴のあいたオムライスにスプーンを通していると、今やっと目が覚めた、というような声を竜真が発した。
「秀貴君、今回のオムライス、すごく綺麗だね」
食べるのが勿体ないなぁ、と言いながら、手を合わせている。
続けて、ひと口食べてから「うん、おいしい」と言うのだ。
竜真は基本的に、何を作っても美味しいと言ってくれる。失敗して焦がした時は「この苦みがいいアクセントになってる」とか「大人の味だね」とフォローしてくれる。
いつだったか、酒と酢を間違えた時ですら「ジャマイカのジャークチキンみたいだね」と言っていた。
決して、料理そのものを貶しはしない。
平気で「豚も食わねーぞ、こんな飯」と、けちょんけちょんに言ってくるつぐみとは違うのだ。
秀貴はふと疑問に思った。
「竜真さんって、苦手な食べ物はねぇのか?」
「苦手な……」
ぱたり。竜真の手が止まる。
「や、やだなぁ……秀貴君。オトナになると、嫌いな食べ物は消滅して、何でも美味しく食べられるようになるんだよ」
明らかに動揺している。
未だかつてないくらい目があっちやこっちに泳ぎまくり、見たことがないほど笑顔が引き攣っている。
「……竜真さん、さすがにそれは、俺にも嘘だって分かるぞ」
そんなに聞かれたくないことなのか。
秀貴は僅かばかり残念な気持ちになるも、話題を変えようと努めた。
「言いたくねぇならもう訊かねぇから。じゃあ、好きな食べ物――」
「昔はね、たくさんあったんだ」
ぽつりと落とされた言葉が何を示すのか、秀貴は一瞬で理解出来ず、視線をさ迷わせた。
苦手な食べ物についてだと気付いたと同時に、竜真が続きの言葉を紡ぐ。
「嫌いな野菜なんて数えきれないほどあってね」
どこか遠い目をして、竜真はぽつりぽつりと吐露する。
秀貴は食事の手を止め、黙ってそれを聞いていた。
「だって、野菜って言っても、根っこや草だよ?」
それについては同意しかねたが、秀貴の苦笑いには目もくれず、竜真はオムライスをひと口、頬張った。咀嚼を挟み、溜息をひとつ溢す。
「つまりさ、野菜を残して捨ててたら……六合の怒りを買って、料理が出来ない体質にさせられたってワケ」
秀貴は、喉に刺さった魚の小骨がやっと取れた気持ちになった。
しかし、新たな疑問がふつりと湧く。
「竜真さんは野菜が嫌いなのに、六合は一緒に居てくれるんだな」
“カミサマ”の考えることなど到底分かる気はしないが、不思議に思う。
「まぁ、それも色々あってね……」
またしても竜真が遠いどこかへ目を向ける。
だが、言葉が続くことはなかった。
「じ、じゃあ、好きな食べ物は何だ? 俺、竜真さんに何もお返し、用意出来てなくて……」
そんな事、本人に言うべきではないのだろう。が、気付けば口をついて出てしまっていた。
竜真はきょとんと目を丸くする。
「え? いいのに。本当に、アレは僕が君に『チョコレート』っていうものを食べさせたかっただけだから」
バレンタインだから、という意味はないのだという。
顔を伏せ、肩を縮めた秀貴を見ると、竜真は「えーっと」と一度天井を仰ぎ見た。
「好きな食べ物は、ミートパイとか。無難に焼肉も好きだし、牛丼とかスパゲティ、うどんやお蕎麦も好きだしさ、ラーメンも……」
最初のミートパイだけ聞き馴染みが無かったが、よく知るメニューが並んだ。
秀貴はふむふむ頷きつつ、心の中でメモを取る。そして、あまり野菜けのない料理名ばかりだと気付いたが、何も言わないでおいた。
「好きな食べ物って、挙げだすとキリがないから今まで言わなかったんだー」
竜真が「ごめんね」と手を揃えて首を竦めた。
「いや、俺が気になっただけだし、そんな、謝らないでくれよ」
逆に恐縮してしまう。
軽い気持ちで聞いただけなのに。彼の中に埋まっている暗い何かまで掘り起こさせてしまったようで、申し訳なかった。
竜真はもう一度眉を下げたが、すぐにいつもの笑顔へと戻った。
「それにしても、このオムライス、見た目は勿論、味も本当に美味しいよ」
「ケチャップとコンソメと、今日はバターと塩コショウを多めに入れてみたんだ」
ざっくり説明すれば、竜真は「あぁ、胡椒か」と感心したように呟いた。
「まろやかな中にちょっとした刺激が美味しいなーって思ってね。秀貴君、味付け上手くなったね」
元々、薄味の和食ばかり食べて育った秀貴は、ガツンとパンチのある料理を作るのが苦手だった。よく、つぐみに文句を言われて醤油や塩を足されるのだ。
そもそも、藤原家はインスタント麺や外食や総菜が中心の食卓だったのだ。つぐみが味に関して物足りなく思うのも仕方のないことだろう。
料理本を見ながら分量をしっかり守って作れば苦情もないが、今回のように味を変えていると文字通りさじ加減が難しい。
竜真の言う『味付け』とはつまり“つぐみの好きな味付け”のことだろう。
秀貴も、自分の前にあるオムライスを口へ運ぶ。まだ店のオムライスを食べたことはないが、美味しいと感じるので良しとした。
◇◆◇◆
「まぁ! それは本当なの? つぐみちゃん!」
彩花は両手を行儀よく揃え、口を隠して言った。
鈴が弾んだような声は、その手を通り抜けてつぐみの首を縦に振らせる。
「おう。次の土曜日、夕方六時にウチへ来いよ。秀貴がメシ食わせてくれっから」
毎日練習台になっているつぐみが、にかっと笑う。
彩花は口からゆっくりと手を離し、拳を握った。
「それはつまり、暗に『俺が一生メシを食わせてやる』という意思を示して――」
「いや、ただのバレンタインのお返しな」
彩花の恋心を知りながら、友人であるつぐみは冷ややかに指摘した。
それでも、彩花はめげない。
「手土産は何が良いかしら。事前に秀貴さんの薬指の太さを測って……」
「いや、手土産は逆に気ぃ遣うからいらねぇだろ」
暴走しかねない彩花の思考を、つぐみが抑制する。
彩花は大きな目をぱちくりさせ、細い首を捻った。
「わたしったら、急ぎすぎちゃった?」
「たった一歩で海を跨ぐくらいな」
つぐみは、やれやれと溜息を吐き出した。
彩花は「でもね、つぐみちゃん」と、両頬へ手を添える。悩まし気な吐息付きで。
「わたし、こんなに男の人を好きになったの初めてで、勝手が分からなくて……」
珍しく、しおらしい事を言っている。
「あれか? まずは手を繋ぐとか、そういう」
「そう、それそれ。わたし、おんぶはしたのよ?」
「お前、そりゃ彩花が秀貴を背負ったんだろ……」
中華料理店が火事になった時の事だ。初対面で、彩花は帯のある着物だというのに秀貴を負ぶって走っている。
「あら、体を委ねられたことに変わりはないわ」
彩花は自信に満ちた表情で言い切った。
それに対して、つぐみは呆れから半眼になっている。
「あたしは、色恋云々はよく分かんねーんだけどよ……いっそ、交尾しちまえば――」
「ダメよ、つぐみちゃん! 女子がそんな事言っちゃ! それに、それじゃ一歩で世界を一周するくらい急いでしまっているわ!」
彩花は顔を真っ赤にして、つぐみに迫る。
普通ならば骨が砕ける勢いで両肩を掴まれているが、つぐみは少しばかり眉間を狭めるだけに留まっている。
見た目はおっとりしておしとやかそうな……それこそ、可憐な少女なのだ。彩花は。
しかし、興奮すると力加減を忘れてしまう。
家柄の事もあり、昔から友人は少なかったが、今ではつぐみだけが彩花の親友なのだ。
その友人の小さな肩を掴んでいた手の力を抜き、彩花は肩を落とした。
「ごめんなさい。つい、力んでしまって……」
しゅんと顔を伏せる彩花に、つぐみは「いーっていーって」と肩を回しながら笑顔を飛ばす。
「ま、土曜の夜は空けといてくれよな。何なら、泊まってってもいいぜ」
ボンッ!
彩花の顔が、火を吹く勢いで赤くなった。
そして、つぐみはまた目を半分まで細めるのだ。
「泊まるのはあたしの部屋だかんな」
呆れて告げると、返ってきたのは意外な言葉だった。
「ひっ秀貴さんと竜真さんが同じ布団で眠るという場面に出くわしてしまったら、わたし、どうしましょう……。カメラをあと何個買っておけば……」
「安心しろ。あいつら、それぞれの部屋で寝てっから」
きっぱりと言い渡され、彩花は小さく「ちぇっ」と口を尖らせるのだった。
◇◆◇◆




