未知なるホワイトデー:1
ホワイトデー。それはとてつもなく大変なイベントなのだと、秀貴は気付いてしまった。
秀貴は、商店街で配られていたチラシを手に、血の気が引くのを感じていた。
ホワイトデーを全面に出している紙面には大きく『バレンタインのお返しは3倍で!!』と、目立つ書体と色で書かれている。
どうやら、バレンタインで貰ったものの三倍の価値のものを返さなくてはならないらしい。
(マジか……)
チラシを凝視したまま棒立ちしている秀貴に、チラシを配っていたスーパーのおばちゃんが「大丈夫かい?」と声を掛ける。
驚かされたわけでもないのに、秀貴はビクリと体を跳ねさせ「わ、悪い。大丈夫だから」と言い残して、そそくさと前に進んだ。
貰った物の相場も分からねぇのに、何だよ、三倍って!?
そう叫ぶのを心の中だけに留め、買い物カゴへ入れたチラシを横目で見た。
ジュエリーやバッグをメインに、マフラーや手袋、ハンカチの写真が賑やかしく載っている。食品の写真がないのは、これは雑貨屋のチラシだからだ。
秀貴は小さく溜息を吐いた。
バレンタインに秀貴にチョコレートをくれたのは、合計で十人だった。竜真、つぐみ、彩花と、あとは商店街のおばちゃんたち。以前、命を助けた富子もその中に含まれている。
竜真が請けてくる仕事のお陰で、貯金はかなり増えている。しかし、学費など、将来必要となってくる費用のことを考えると、あまり手は出せない。将来、自分がどんな仕事に就くのかもまだ分からないのだ。
(生きるのって、大変だな)
ふとそんな事を考えていると、また『ホワイトデー』の文字が目に入った。
そわそわと落ち着かない気持ちのまま買い物を終わらせ…………。
「あれ……? 夕食、何作るんだっけ……」
目の前のテーブルの上にあるのは、卵と鶏もも肉、牛乳のみ。
ボーッとしていたら、買い物頻度の多いつぐみの好物と牛乳しか買っていなかった。
商店街へ入るまでは、あれを作ろうか、これを作ろうかと考えていたはずなのに。
(全部吹っ飛んじまったな)
それほど、あのチラシのもたらした衝撃は甚大だったのだ。
実のところ、つぐみへのお返しはもう買ってあるのだ。
因みに、つぐみから貰ったバレンタインのチョコは“チロレチョコ”という四角い小さなチョコだった。駄菓子屋で売られているものだ。それの三倍ならば、数十円で事足りる。なんなら、用意しているものはもう少し値が張る。
三倍、三倍とそればかりが頭の中を駆け巡る。そして、夕食が何も思いつかない。
(彩花に至っては、手作りのチョコレートケーキだったから、値段なんて付けられねぇし)
彩花は藤原家の三人に、それぞれ違うケーキを作って届けてくれた。それについては、竜真やつぐみとお返しの相談をするとして……。
(竜真さんには何を返そう)
正直、商店街の皆へのお返しも、竜真に相談しようと思っていた。
しかし、だ。
竜真から貰ったもののお返しを、本人に相談するわけにもいかない。
彼からはベルギーのチョコを貰っている。仲間のひとりが輸入食品や雑貨を扱う仕事をしているらしく、その中でも一番のオススメを貰ったのだ。
相場が全く分からない。
秀貴はまたしても嘆息した。
「どうしたの? 溜息なんてついちゃって。恋煩い?」
「わぁっ!」
頭上から声がして、思わず大きな声が出てしまった。
心臓が、太鼓にでもなったかのように五月蝿い。
「あ、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど……本当に恋煩い?」
竜真はきょとんとしつつ、空中をさ迷っていた右手を自分の首の後ろへ回して摩った。
「こ、恋煩いじゃねーし」
貴方へのお返しを考えていました。とは言えない。
「ふぅん。じゃあ、何を真剣に考え込んでたの? 僕がこんなに近付いても気付かないなんて、余程の事だと思うんだけど」
「そ……れは……」
どうしてこうも見透かされてしまうのかと、胸中で悔しく思いながら、まだ買い物カゴに入ったままのチラシを指差す。
竜真はカラフルな紙を手に取り、小さく「ああ」と言い溢した。
「ホワイトデーね」
竜真が内容を把握したと同時に、秀貴が口を開く。
「さ、三倍って書いてあるから、どうしようかと思って……」
左右を行ったり来たりして定まらない視線。それを、竜真は「相当考え込んでいるな」と判断した。
「こういうのは気持ちの問題。って言いたいけど、それじゃ君は益々困るよね」
向けられる苦笑が嘲るものではないと分かっていても、秀貴は俯いてしまう。竜真と目が合わせられない。
「どうしても迷って困ってるなら、商店街のお姉さんたちへのお返しは一緒に買いに行こうか。僕も貰ったから、被らないやつにしよう」
「あ、あのっ」
うん? と見下ろしてきた竜真と目が合う。
「商店街の皆へのお返しは、竜真さんと買いに行く。あと、つぐみへのお返しは、もう買ってきたんだ」
そこで一度、言葉が途切れた。
竜真はポンと手をひとつ叩く。
「彩花ちゃんへのお返しで悩んでるんだね。そっか。手造りだったもんねぇ」
秀貴は、それもあるけどそうじゃない、と心の中で反論するも、音は舌に乗らなかった。
秀貴の脳裏に、艶やかなザッハトルテが蘇る。スポンジとチョコレートが何層にも重なっていて、柔らかいガナッシュと、歯ごたえのある板状のチョコの組み合わせには感動すら覚えたものだ。そして、柑橘系の酸味が時折顔を出し、鼻から抜けていく。甘すぎず、苦すぎず、まだ出会って日が浅いというのに、秀貴の好みを熟知したチョイスにも感嘆した。
あれを作るとなると、どれだけの知識と技術が必要なのだろう。
秀貴はお返しを考える度、思考が迷宮へと入り込んで出られなくなるのだった。
「あのチョコレートケーキの三倍の価値があるものなんて、俺には思いつかない」
腹の底から、絞り出すような声が出た。
「あー、何て言うか、三倍の呪縛に囚われない方がいいよ。それ、ただ商品を売りたい店側の言い分だし。っていうか、三倍のお返しが来ないからって文句を言うような人とは距離を取るべきだね。人として」
後半を捲し立てるように言い放つと、竜真はおどけるように肩をすくめた。
「コレ、年長者としてのアドバイスね。要するに、重要なのは気持ち。ってコト」
先にも言った言葉を繰り返し、竜真はウインクを飛ばした。
その、気持ちの表し方が分からないから悩んでいるのだが……。
竜真と一緒に買い物へ行った時、改めて考えよう。と、秀貴は思考を切り替えた。
目の前にある食材へと視線を落とす。
「ボーッとしてたらこれだけしか買ってなくて」
正直に話すと、竜真はにっこり笑った。
「この材料だったら、オムライスが出来るよ」
大丈夫。と微笑まれ、秀貴も頷く。
オムライスなら、実家から持ってきた料理本にも乗っていたはずだ。
台所の片隅に立てかけてあった本を手に取り、テーブルの上で開く。
黄色い掛け布団のような玉子の中から覗く、赤みの強いご飯の写真が目に飛び込んできた。
そして、とても綺麗だと思った。
だが、この、楕円形というか、ラグビーボールのような独特の形……ご飯を玉子の上に乗せ、更に包み込むらしいのだ。
「難しそうだな」
「失敗は成功の基ってね。包むのを失敗したって、味は変わらないんだから。気楽に作ってよ」
簡単に言ってくれるなぁ、と少しばかり不満が漏れそうになった。
しかし、竜真が言う事も尤もだ。最初から上手くいく事の方が少ない。
「残飯みたいになっても文句言わないでくれよ」
「もちろん。いつも美味しいご飯をありがとう」
毎度、この優しい笑みにほだされてしまうのだ。
秀貴はそのまま、夕飯づくりへ移った。
“お返し”の事は頭の隅に追いやって。
そうして出来上がったオムライスを見たつぐみは、爆笑したのだ。
「つぐみ、笑いすぎ」
竜真に注意され、つぐみは涙目で「悪い悪い」と声を震わせて謝った。
ケチャップを使ったチキンライスは、ほぼ完璧なのだ。多少焦げている所があるものの、色ムラ自体は少ない。
問題は玉子だった。
フライパンに敷いた油が少なかったのか、形を成していなかった。
赤いご飯に混ざっているものと、ご飯に寄り添うように添えられている黄色い残骸があるのみ。よく言えば、スクランブルエッグになっていた。
一部はパリパリになり、一部はふんわりしている。
「バカにしたんじゃねーよ。秀貴がこんな盛大に料理を失敗するなんて、めずらしーから、何か楽しくなって」
「バカにしてんじゃねーか」
未だに肩を震わせているつぐみに、思わず半眼になる。
「いや、マジでバカにしてんじゃねーっての。お前が作る飯はいつも美味ぇから、今日のも期待してんぜ! ぷふっ」
最後のは余計だろう。と言いたくなったが、竜真はつぐみを咎めるよりも秀貴へ向き直った。
「さっきも言ったけど、失敗は成功の基。それに、失敗したって愛嬌があるよ、このオムライス」
「兄貴ぃ。もはやこれは“オム”ライスじゃねーんじゃ――」
「つぐみは少し黙っていようか」
圧のある笑顔に、つぐみがぐうと押し黙る。
秀貴は秀貴で、竜真が言葉巧みにフォローしてくれているのが居た堪れなく、惨めな気持ちになっていた。
あぁもういっそ、早く食べて皿から消し去りたい。そう思う。
俯いたまま視線をさ迷わせている秀貴に気付いた竜真が、ついに「いただきます、しようか」と先を促した。
チキンライスの玉子添えは、見た目こそ崩壊しているものの、味は悪くない。しっかりとしたケチャップの味からコンソメの風味が顔を出し、バターの香りが鼻腔を撫でる。
鶏肉も柔らかいし、小さくサイコロ状に切られている玉ねぎや人参も良いアクセントになっていた。
「うん。やっぱり美味しい」
竜真はふた口食べて、そう言った。
つぐみも、もう見た目の事を言わない。赤色のご飯を無心で口へ掻き込んでいる。
その顔を見ていると、秀貴は今までうじうじしていた自分がバカらしくなった。
ふたりに続き、秀貴も自分のチキンライスへスプーンを差し込んだ時だ。竜真が「そうだ」と声を上げ、秀貴やつぐみの動きが止まり、視線だけが竜真へと集中した。
「秀貴君、彩花ちゃんへのお返しは、夕食への招待でどうかな?」
竜真を見ていたよっつの目が、今度はふたつずつ向かい合う。
秀貴とつぐみはお互いの顔を見ながら、同じタイミングで瞬きをした。
「……そんなので良いのか?」
訊いたのは秀貴だった。
「良いだろ。彩花、泣いて喜ぶんじゃねぇか?」
これは真顔のつぐみだ。
「で、あたしへのお返しは?」
ちゃっかり自分を指差し質問するつぐみに、秀貴は棒付きキャンディーを差し出した。
細い渦巻がつぐみの手のひらほどの大きさになっているものだ。
「少し早いけど、やる」
つぐみの表情がパァッと明るくなった。すぐに透明の包みを外そうとするので、竜真がご飯を食べてからにするよう、つぐみを制止している。
「それはそうと、彩花ちゃんの好きな食べ物と苦手な食べ物って何?」
竜真が小首を傾げたと同時に、つぐみがスプーンを手に取った。
「好物はあんみつだな。あずきとか抹茶の菓子が好きだぜ」
「ご飯系が知りたかったんだけど」
竜真が困り顔を向ける。
つぐみは記憶を絞り出そうと、人差し指でふわふわの頭をトントン突いた。
「嫌いなモンは聞いたことねーな。好きなモンは多すぎて絞れねぇ。肉と魚なら、魚派って感じだな」
「そっかぁー……」
少しばかり残念そうな竜真。心の中で、洋食が好きならついでに秀貴のナイフとフォークを使うテストでもしよう、と目論んでいたのだ。
企てが不発に終わり、ひとり気を落としている。
そんな事は露知らず、秀貴が顎に手を添えて唸った。
「魚……シンプルに煮付けも美味いけど、フライや天ぷらも良いよな」
「お前も和食好きだよな」
「好きっつーか、慣れてるっつーか。俺は洋食も好きだぞ」
「じゃあさ、魚を使った洋食にしようよ」
これでナイフとフォークの練習が出来る! と、竜真は嬉々として言った。
秀貴はまたしても、ううん、と唸っている。
「俺、魚を使った洋食って、あんま食ったことねーからピンとこねぇんだよな」
「食ったことねーモン作れったって難しいよな」
珍しく、つぐみも秀貴へ助け舟を出した。
食べ物の事となると、彼女も寄り添って考えを出してくれる。
竜真はそんなふたりを微笑ましく思いつつ、カトラリー訓練はまた今度かな、と目論みを白紙に戻したのだった。




