商店街の喫茶店:下
「特に竜ちゃん、アンタ女に飽きて、今度は男に手ぇ出してるわけ? しかも年下? どーいうことよ」
声を抑えることなく、女給は竜真に詰め寄ってくる。
「違うよ。秀貴君は僕の大切な弟――」
「誰が信じるか、そんな言葉。たまーに、ここからふたりが並んで買い物してる様子を見るけど、距離が近すぎるんだよ!」
最後は怒号に近い声だった。
他の客も何事かとこのテーブル席へ視線を向けてくる。
竜真には身に覚えがあるので、しばし沈黙が訪れる。
大切な弟も本当だし、距離が近いのも本当だ。
「秀貴君のそばに居ると、癒し効果がすごくて……」
これだ。距離が近い理由は。
自分の名前が連呼されるが、秀貴は状況が呑み込めずにいた。取り敢えず、溶ける前にとアイスを食べている。
「そうだ。杏子も怖い顔してないで、秀貴君と握手でもしてみれば分かるよ」
竜真の言葉に「この人はあんずっていう名前なのか」と思うと同時に「今、何つった?」と秀貴は動きを止めた。
女給――杏子は「男と手を繋ぐだなんて、そんな!」と、今までの威勢はどこへやら……顔を赤くして狼狽している。
この娘、男勝りだけど案外ウブで可愛いんだ。
竜真がこそっと伝えてきた。
「聞こえてんぞ竜真ぁ!」
ぎゅっ。
今にも竜真に殴り掛かりそうな杏子の手を、抑え込むかたちで秀貴が握った。
すると、どうでしょう。臨戦態勢だった杏子は静まり、自分の体をまじまじ見始めた。
「か、体が軽い……」
「でしょ」
「あたしも欲しい」
「この子、槐のお嬢さんの婚約者だからムリだと思うよ」
「……本当に何者なんだ、この子……」
訝し気な目を向けられ、秀貴は俯いたままアイスを食べる。
しかし、何か言うべきかと色々考えた末に出てきた言葉が、コレだ。
「あ、あの……えっと、クリームソーダ、しゅわしゅわとしゃりしゃりで美味しいです」
杏子は一瞬、何を言われたのか理解できない様子でいたが、竜真の耳に口を寄せた。
「この子、いつもこんなカンジ?」
「おおむね」
「……アンタが可愛がるの、少しわかったわ」
「でしょ」
竜真のニヤケ顔を少しだけ恨めしそうに一瞥し、杏子が秀貴へ笑顔を向けた。
「そうかい。ありがとう。うちはナポリタンも美味しいから、今度家族みんなで食べにおいで」
客を次に繋げることも忘れずに、杏子は仕事へ戻った。
「ナポリ……イタリア料理か?」
瞳を輝かせる秀貴。
竜真は「ナポリタンの発祥はここ、横浜だよ」という言葉を、ギリギリで呑み込んでいた。
「俺、アイスクリームを食べたのも初めてだけど、氷菓って高価なんだろ? 貴族しか食べられないって、本に書いてあった。その上イタリア料理まで食べられるなんて、喫茶店ってすごい店なんだな」
秀貴が感動すればするほど、竜真の良心が抉れていく。
なので、話題を変えてみた。
「秀貴君って、生家に居た時はおやつに何を食べてたの?」
急に話題がおやつに移り、秀貴が感動で輝かせていた眼をパチパチ瞬かせた。
記憶を手繰っているのか、視線は斜め上を向いている。
「煎餅、おはぎ、おかき、団子、まんじゅう……あ、カステラも食べた事あるぞ。飴は虫歯になるからダメだって言われたけど、一度だけ食べた事がある」
「……明治時代の人かな……?」
「ん?」
「いや、何でもない」
竜真は真っ直ぐ自分を見てくる琥珀色の瞳から目を逸らし、明後日の方を向いてコーヒーを飲み干した。
(三歳児と話しているような気になっている時に、急に九十歳のおじいちゃんみたいなこと言うんだもんなぁ……)
菓子の話を振ったのは竜真なのだが、複雑な気分だ。
ふと、竜真の脳裏を疑問が過る。
「あ、じゃあさ、チョコは?」
「本で見たことはあるけど、食べたことは無い」
つぐみがチョコレートケーキを美味しそうに頬張っていたのは、まだ記憶に新しい出来事だ。
「じゃあさ、バレンタインに買ってきてあげるね」
「いいのか? 女が男に渡すんじゃ……」
「あー、いいのいいの。ほら、僕たち付き合ってんだし」
ざわっ!
店内に戦慄が走った。
客の殆どが、ふたりの会話に耳をそばだてていたようだ。
「ヤッベ……彩花ちゃんの前以外でこのネタ使っちまった」
とは、口元をひくつかせている竜真の小さな呟き。
竜真はふとした時“昔の口調”に戻ることがあるのだ。
「お前が女側かよ!?」
これは、カウンター裏から飛び出してきた杏子の叫びだ。
「あー……付き合ってるって言っても、超絶プラトニックっていうか……」
今は何を言っても店内でざわめきが生まれてしまう。
竜真は小さく息を吐いて「めんどくせぇな」と低く呻くと、さくらんぼを食べている秀貴を指差した。
「彼は僕の彼氏で、彩花ちゃんの婚約者。以上! 質問は受け付けないよ」
竜真は人間関係について、とても面倒臭がりな上、他人にどう思われようが気にしない質だった。
秀貴がとんでもない巻き込まれ方をしているが、それもこの後なんやかんやと言いくるめる気でいる。
そして、巻き込まれている事に気付いていない秀貴は、真っ直ぐ竜真を見上げて訊いた。
「竜真さん、さくらんぼの種って、どこに出せばいいんだ?」
「紙ナプキンにペッてしたらいいよ」
紙ナプキンとは何ぞや……ときょろきょろしている秀貴にそれを渡してやる。
それで口を隠して種を出し、綺麗に畳んでいる秀貴の様子を見ながら、竜真は「面倒だからって面倒なこと言ったなー……」と心の中で自嘲した。
そう、この店内に居る人々の中に、秀貴が肉食二股男だという、この上なく残念な印象を植え付けているのだ。
彼はまだ、未成年だというのに。
心の隅で「ゴメンネー」と謝りつつ、竜真はいつもの笑顔を湛えている。
その視線の先には、メニュー表を広げる秀貴の姿。
竜真の視線に気付いた秀貴が、視線を泳がせた。
「あ、あの、俺、外食って初めてで……えっと、洋食もあまり食べたことねぇから、どんな料理があるのかと思って……」
「あははっ。追加で注文しようとしてるなんて、思ってないよ。あ、食べたかったら食べても良いんだけどね?」
秀貴が今まで和食ばかり食べてきたのだということは、日頃の生活から伺える。箸の扱いは上手いが、ナイフとフォークの扱い方はイマイチなのだ。
あぁ、そうだ。ナイフとフォーク……。
竜真が小さく呟く。秀貴と視線が交わった。
洋食のマナーを叩き込む目論見が竜真の脳内でまとまりかけている事を、この時の秀貴はまだ知らない――。




