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44.ケンカ

「ご苦労様」


 校長が穏やかに声を掛けてくる端では、教員が慣れた手付きで解答用紙を回収していく。

 別の教員が、お茶を持って来て古い湯のみを下げる。

 小さく「頂きます」と湯呑みに手を伸ばし、温かいお茶を飲んでいると、校長が小さく咳払いをした。


「ところで、これから体力測定を行おうと思ってるのだがね」


 校長が切り出したところで、部屋の扉が三回ノックされた。校長が入るように促すと、入ってきたのはクリーム色の髪をした長身。その姿を見た校長の体が、一度大きくビクリと跳ねた。

 分かりやすく動揺している。


「や、やぁ、藤原君」


 立ち上がった校長に軽く会釈をし、竜真は人好きのする顔でにこりと笑った。ただし、背後に黒い何かを背負って。


「入試の日程ってとっくに終わってるはずなんですけど。ウチの秀貴君がなかなか帰ってこないもので。何か粗相でもしましたか?」

「い、いやぁ、あんまり優秀だから、色々と話し――」

「本当?」


 瞬時に汗だくとなった校長には目もくれず、竜真は未だソファーへ座ったままポカンとしている秀貴へ視線を向けた。

 何も後ろめたいことのない秀貴は勿論、ありのままを竜真に報告する。


「小学生の問題と高校入試の問題を解いて、これから体力測て――」

「あー! あー! あー!」


 校長が短い両手を精一杯広げて、ブンブン振りながらふたりの間に割って入ってきた。

 竜真は校長に向かって溜息をひとつ落とす。


「僕の推薦を不服に思っているなら、そう言えば良いんです。そうすれば、校長が満足する入試方法を受けてもらいましたよ、秀貴君には」

「い、いや、別に不服だとは……」

「追加であれこれやらせているのが、その証拠でしょう? で、今のところ彼は合格ですか?」


 竜真はやれやれと肩を竦める。心なしか、いつもより視線が鋭い。言葉にも尖ったものが感じられる。

 校長も観念して、丸い身を縮めて言った。


「学力は申し分ない。あとは運動能力を見てみたい」

「初めからそう言ってください。彼と会う前に判を押させたのは僕ですが、実力をしっかり確認したいと思うのは道理なんですから」


 竜真も太い眉を下げる。

 犬ならば尾を股の間に垂れさせて耳も伏せていそうな校長と、それに呆れ顔の竜真を交互に見やり、秀貴は思った。


(竜真さん、在学中、校長先生に何したんだ?)


 校長の怯え方に不穏な空気と僅かな疑問を抱きながら、秀貴はふたりの後について校庭へ向かった。


 外はまだ明るいが、太陽が遠くの山に隠れようとしている。暗くなるのも時間の問題だろう。


「で、どういった種目を見たいんですか? 僕が一か月以上かけてしっかり指導しましたから、何でもどうぞ」


 主導権が竜真に移っているが、それには気付かぬふりをして、秀貴は校長の言葉を待った。

 空が徐々に青から紫を広げ、茜色へと変わっていく。

 そんな時間に、何種類も体力測定が出来るとは思えない。かといって、体育館を使う様子もない。

 校長は肉厚な丸い顎を撫でながら、もう一方の手で秀貴と竜真を指差した。


「じゃあ君たち、ここでケンカをして見せておくれ」


 発言者が校長とは思えない事を言い渡された。

 秀貴は意味が自分の中で噛み砕けず「へ?」と間抜けな声を漏らすのみである。

 体力測定という名目はどこへやら……だ。

 ケンカ? 俺と竜真さんが?

 校長からの要望をようやく理解した秀貴は、自分の顔面が引き攣っていくのを感じた。


 つぐみとは一緒に競争したり、剛田との一件があってからは手合わせという名のケンカじみた取っ組み合いをしてきた。だが、竜真とは共にジョギングをした程度。指示を出されて秀貴が手や足を出すことはあっても、彼は受けるのみ。

 竜真はあくまで、常に指導者だった。しかも、校長は実にわかりやすく――何と言ったか。


「ケンカって、率直すぎやしません? 組み手じゃ駄目なんですか?」


 竜真がツッコむ。

 校長は両手の指を、握るでも開くでもなくワキワキと中途半端に動かしている。


「試合ではなく死合いとも言う、ルール無用のケンカこそ、男の強さを見極めるのに最適だとは思わないかね?」

「……半分くらいは言いたいことを理解できますけど。聖職者が何言ってんですか」


 竜真は呆れているものの、軽く体をほぐし始めた。どうやら、校長の要望を聞き入れるつもりらしい。

 ともすれば、応えぬわけにもいかず、秀貴も体の関節を伸ばし始めた。


 ストレッチをしている間に、遠くにある山の隙間から見えていた太陽が、ほぼ見えなくなってしまった。

 校庭を囲う塀やフェンスに沿って点々と設置されている照明が点灯し始める。校舎にもポツリポツリ明かりが灯った。


 運動場の中央で、お互い数メートルの距離を取って向き合う。

 位置が定まり、ふたりの動きが止まると、校長が大きく手をひとつ叩いた。反響するほど張りのあるいい音だった。

 開始の合図だ。

 同時に竜真も動く。右脚が僅かに動いたかと思うと、竜真の姿は秀貴の視界から消えていた。

 取っていた間合いが一瞬でなくなる。


「秀貴君とケンカだなんて、初めてだね。家じゃ口喧嘩すらしないもんねぇ」


 目の前に現れた王子様スマイルとは不釣り合いな威圧感。

 咄嗟に後ろへ跳躍するが、秀貴は手が出せないでいた。距離を取るので精一杯だ。


 竜真も一度動きを止め、再び向かい合う。じっとこちらを見据える眼光には、僅かの優しさも感じられない鋭利さがあった。


「秀貴君。ケンカっていうのはね、さっき校長も言ってたけど、ルールがないんだ。弱い方が負け。ただそれだけ。武器もアリだし、複数人で私刑(リンチ)もアリ。幸い、今はお互い一対一(サシ)だし、君にとっては好条件」


 竜真の言う事は尤もだが、秀貴は頷けないでいた。『好条件』に「その通りだ」と納得出来ないのもあるが、視線を少しでも動かすと彼の動きを見失いそうだからだ。

 話す余裕などもっとない。

 確かに、竜真と秀貴の条件は対等であり平等だ。しかし、絶対的な経験値の差はどうすることも出来ない。

 竜真は単純に、殴る、蹴るを繰り返すだけで、フェイントを仕掛けることすらしない。見切れば反撃のチャンスはありそうだ。

 体躯の差もあり、一見すると竜真が有利に思えるだろうが、竜真は体が大きい分、防御の甘くなる部分も生まれるはず。

 とは秀貴も思うものの、反撃に移れるかというとなかなか体が動いてくれない。


 竜真が単調な動きしかしないのは、きっと秀貴を試しているからだろう。でなければ、今頃腕を引っ掴まれて倒され、地面に押し付けられて殴るなり蹴るなり踏むなりされているに違いない。竜真であれば、そんな事は余裕で出来るはずだ。

 あくまで、これは入試の一貫であり、秀貴をボコボコにするのが目的ではない。

 だが、竜真の放つ一撃、一撃の速さと重さは本物で……掠めただけで皮膚が切れ、血が飛んだ。


(どういうデタラメな速度……ッ)


 思わず、胸中で毒づく。


(こんなのまともに喰らったら、剛田さんの時みたいに骨折じゃ済まねぇ)


 竜真はおそらく、本気に近い力を込めている。たった一度、まともに当たっただけで致命傷を負う事は明白だ。

 本能が『逃げろ』と警鐘を鳴らす。

 それに逆らい反撃しようとするも、体がいう事を聞かず逃げの一手だった。

 体が、前に進まない。


「逃げてばっかじゃ、勝てないよ。せめて一発入れてみなよ」


 伯父に向けていたのと同じ眼。

 敵意とも違う。感情が読み取れない。

 深く黒い、井戸の底を思わせる眼だと、秀貴は思った。

 よく『普段優しい人が怒ると恐い』などと言うが、それとも違う。

 竜真が纏っているのは怒りではなく、威圧感。しかもハッタリではなく、実力に裏付けられたもの。だから、重厚さが違う。

 普通の人なら、気圧(けお)されて失禁するのも頷ける。

 そんな中に居て、秀貴は度々この空気に触れてきた事もあり、体が順応しつつあった。

 後ろへ、後ろへと下がっていた足が、一歩前へ出る。相手の動きを注視しつつ、反撃の隙を狙う。


(竜真さん、攻撃中も防御に余念がねぇから、狙えるトコが限られてんな)


 下手に突っ込めばカウンターを食らうのは火を見るより明らかだ。わざと隙を作って攻撃を誘い反撃する、というのは、教科書として読んでいた漫画でもよく使われていたテクニックだ。竜真がそれを失念しているとは考えがたい。

 となれば、どうするべきか。


(結局、自分から仕掛けるしかねぇか)


 観念して動く。行動は消去法で決める。

 脚を出すより、腕の方が反撃があった時に対処しやすい。

 そして、


(手の方が速く動かせる)


 ただし、ガードが堅いのも上半身。だが、竜真は言った。

 ケンカは何でもアリだ、と。つまり、殴る蹴るのみの攻防でなくとも良い。

 手と足を止め、秀貴は二歩下がった。


「ちょっと、試したいことがあるんだ」

「へぇ。校長が巻き添え喰って死なないなら、やってごらん」


 竜真の言葉に、のんびりと観戦していた校長は青ざめ、小刻みに震えながらじりじりと後退り、距離を取った。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] たまにいますね、校長みたいなタイプの人。 自分で自分の首絞めてるのに自分だけは大丈夫だって勘違いしてるから加減が効かない。やれやれ(笑)。
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