40.夢
「ここって……」
「君が生まれ育った家」
周りは田んぼが多く、山々に囲まれた閉鎖的な集落。
主を失った大きな日本家屋。立派な門には、まだ表札が掲げられている。
母屋へ入ったのは一度きり。この建物自体は『自分の家だ』とは言い難い。
そこへは足を踏み入れず、まっすぐ向かったのは離れだった。大きな平屋の隅にある。そこが、秀貴にとっての『家』。
離れの鍵を開け、中へ入る。あの頃と変わらない室内。たった一か月ほどしか経っていないのに、ひどく懐かしく感じる。
「元々厨房を担当していた方が、週に一度掃除に来てくれてるんだ。君は未成年だから、今の所有者名義は僕だけど、君が二十歳になたら必ず返すからね」
彼は口にしないが、掃除をしてもらっている費用も竜真が出している。
持って行きたいものがあれば持ち出すように言われ、本棚の前へ来た。家に伝わる、先祖が遺した手記などを段ボールへ詰めていく。
本がありすぎて何を持って行くか迷いながら手に取ったもの。
料理本だ。
いつも自分が食べているものがどうやって作られるのか知りたいと春江に言い溢したら、用意してくれたものだった。
「これがあれば、俺の料理のレパートリーも増える」
「それは僕も楽しみだなぁ」
竜真も本を覗き込む。
「そう、俺、カレーが作りたいんだ。何かの本で読んだんだけど、キャンプで作るカレーがすごく美味しいって書いてあって。天空のトコでひと晩過ごしたのも楽しかったし」
「ふふふ」
笑われ、秀貴の口が止まった。
「おかしいから笑ったんじゃないよ。君が、自分がやりたい事をこんなにはっきり言うようになったのが嬉しくてさ」
竜真は一度目を閉じ、天井を見上げ、室内を見回した。
「十五年間、秀貴君はここで過ごしたんだね」
広さは今秀貴が使っている部屋の三倍以上ある。その三分の一が本棚。自分たちが入ってきたガラス扉の他に、木製の扉が二か所ある。風呂、トイレ、洗面所などの水場だ。
電球など、電気を使うものは一切ない。おそらく、水道は通っておらず井戸水のみだろう。
「この一か月、君は色んなことが出来るようになったよね。これからも出来ることを増やしていこう。出来ないことももちろんあるし、打ちひしがれることだってあると思うけどさ。経験は全て、君の財産になるはずだよ」
竜真からは以前にも、似たような事を言われた気がする。
本を読むたびに新しい世界を知ったけれど、自分には届かないと諦めていた。やりたいことなんて考えるだけ無駄だと思って生きてきた十五年が、この一か月で覆った。
「竜真さん」
ここで過ごしていた日々において、外の世界を知るきっかけとなった本に目をやる。
「俺、生きてて良かった」
今、彼が見せている笑顔は、真夏の空のように眩しくて、冬の夜空に見える星のように輝いていた。
「うッッ!」
急に心臓を押さえて片膝を突いた竜真に、秀貴がギョッとする。
「たっ竜真さん!?」
「だ……大丈夫……いや、何ていうか、最近よく笑うようになったとは思ってたんだけど、破壊力が……」
「は、はかいりょく!? はっ! まさか俺、無意識の内に竜真さんの心臓に負担をかけるような電気を出してたのか!?」
「ごめん。言葉が悪かった。君の良い笑顔が見られて嬉しかったんだ」
よろりと立ち上がり竜真が笑うと、秀貴も控えめに笑い返した。
秀貴は少し腑に落ちない様子ではあったが、本棚から本を抜き出す作業へ戻る。
「竜真さんが嬉しいと、俺も嬉しいな」
「おとうと、かわいすぎるんだけど……」
「ん? 何か言ったか?」
「なんでもない……」
初めて会った時は妹には無いしおらしさだと思っていたが、竜真は今、未就学児の弟と接しているような気持ちになっていた。
「竜真さん」
再び呼ばれ、だらしなく綻びきっていた顔をいつものにこにこ笑顔へ戻す。
これが、いつも心がけている竜真にとっての大人の余裕というやつだ。
「俺、どんな仕事がしたいかはまだ分からないけど、人の助けになることがしたいって思ってんだ。俺は、ずっと人に助けられて生きてきたから」
竜真が依頼を持ってくる符の作成も、立派な人助けだ。秀貴の力は悪用すれば世界を壊すことも可能だろうが、善行に使えば多くの人を助けられるだろう。
「竜真さんの仲間たちもだけど、昨日、豆腐屋の富子さんを助けた時、何となく『これだ』って思ったんだ。元気になって喜んでるのを見てたら、もっとこの笑顔が見たいなって、思って……」
まだはっきりと何がしたいかはまとまっていない様子だが、前向きな気持ちが聞けたので竜真も頷いた。
「うん。僕も同じような気持ちで、今の仕事をしてるからよく分かるよ」
「それで、たくさん仕事をして、学費も自分で払って、勉強もたくさんして……自立出来たら、また、この家に戻ってきたい」
だから、持って行く本は最小限にするのだと。
そんな彼の手の中には、数冊の本。
その一番上には、竜真も知っている物語が乗っている。
「それ、国語の授業で習った。懐かしいなぁ」
少年とりゅうのイラストが描かれた表紙を指差す。
秀貴はその表紙を撫でた。
「いつも読んでたんだ。俺、ここしか知らなかったから。たまに世界地図と並べてみたりして。死ぬまでに、一回くらい外に出られたら……って。欲を言えば、日本以外の色んな国へ行って、言葉も肌の色も違う人たちと会ってみたいなって。そんな事考えるなんてバカみたいだとも思ってたけど。たくさんお金を貯めたら、こんな俺でも色んな国へ行ける……かな」
熱弁していたのが恥ずかしく思えたのか、声は尻すぼみとなっていった。
竜真が「きっと行けるよ」と言えば、秀貴の表情がまた明るくなった。




