1.正月早々の受難・上
十五歳の誕生日。初めて外へ出た日。青い空を自分の目で見た日。初めて多くの人と顔を合わせた日。
それは、彼の人生において、間違いなく革命的で飛躍的な一日だったことだろう。
ここは酷く冷える。外気と変わらぬ空気は、容赦なく体温を奪いにくる。指先の感覚はとうに消え失せ、血色すら薄れていた。耳は切れるほど、頬は鑢で擦られるような痛みを伴う冷気。
四角い空間の中心には、太い柱があった。そこに吊るされている裸電球の、赤みを帯びた黄色い灯りは四隅まで届いていない。その一角には、建物の中だというのに仮設トイレが置かれている。
コンクリートの地面は土埃や砂利でザラザラ。柱を囲うように茣蓙が敷かれ、小さな文机がちょこんと乗っている。淡い光に照らされたそれは、まるでこの空間の主のようにすら感じられた。
ガサ――。
暗がりで動く影がある。薄い毛布をゆっくりと持ち上げ、むくりと起き上がった。肩まである金の髪が灯りに反射し、ふわっと光が拡散する。寝癖らしいものはないが、髪は傷み、枝毛が確認できた。
身に纏っている着物は全体的に茶色と灰色のまだら模様。所々白い事から、元はその色だったのだと想定できる。袖と裾から伸びている四肢は細く、血が通っていないような白さだった。握れば折れそうなほど細い両手首には、若草色の数珠が覗いている。
全体的に薄い色をしたその人物の首元にだけ、深い色があった。青い首輪だ。そこから、太い鎖が中心の柱にまで伸びている。首輪と鎖は溶接されているのか一体となっており、外す事ができなくなっている。
建付けの悪い扉が、ガタガタとわめいて開いた。まだ朝といえる時間。太陽の明かりが一気になだれ込む。同時に、外からの空気の流れに乗って、酒のにおいが鼻腔を攻めた。
「てめぇ! いつまで寝てやがる! さっさと仕事しやがれ、グズ!」
瞼を上げられないほどの光と罵声を浴びせられ、着物の金髪はゴザに手をついて深々と頭を下げる。
「すみません、伯父さん。すぐに取り掛かります」
「ったく。何のために、てめぇみたいな気色悪ぃガキ引き取ったと思ってんだ。仕事ができねぇなら、売り飛ばすぞ!」
「……すみません……」
金色の頭は下げられたまま。
ここは、怒声と罵声を発しているこの男の家の、納屋だ。母屋は別にある。
自分の名も呼ばぬこの人物――伯父に重ねて謝罪するも、左頬を殴打された。この行為に意味などない。あるとすれば、単なる憂さ晴らしだ。
反射的に左頬を左手で包む。寒さによって感覚が麻痺しているからか、痛みはあまり感じない。しかし、ぶたれた頬は一気に赤みを増し、熱を帯びた。
伯父の白眼に晒され視線を上げることもままならない。
「お前、顔だけは良いのによ。せめて女なら、もっと金になったってのに……。まぁいい。今日の仕事と飯だ。じゃあな」
ガタタッと大きな音を鳴らして、扉が閉ざされる。埃が舞い上がり、肺が悲鳴を上げるように咳が飛び出した。
残されたのは、大量の紙と水。飯だと渡されたものは、味噌汁に浸ったほんの少しの白米と、その上に乗っている沢庵ひと切れ。そのお椀が、コンクリートの上に直置きされている。お椀に乗っていた箸は、扉が閉まった拍子に地面へ転げ落ちた。
食事の前に正座すると、金髪の少年は両手を合わせた。箸を拾い、土埃を手で払うとお椀を持ち上げて中をしげしげと見つめた。
(僕は今までお料理の種類別にお皿に盛られた食事を食べていたけれど……この食事は、効率重視なのでしょうか)
世間というものをろくに知らない少年にとって、俗にいう“猫まんま”は食事時間短縮の工夫として認識されていた。いつも正月といえば作り置かれているおせちのお重を三日かけて食べていたので、正直、最初に“猫まんま”を見た時には驚いた。だが、食べてみると見た目ほど悪くはない。
冷めた猫まんまを食べていると、頬の痛みが鮮明になってきた。低い気温も相まって、食事がなかなか進まない。
ここへ来てまだ二日。しかし、毎度思い出したように、唐突に繰り返される暴力は、少年に恐怖という影を落としていた。
中でも一昨日負った火傷が、未だじくじく痛む。
◇◆◇◆
時は遡り――二日前。
少年、成山秀貴が伯父と名乗る男にここへ連れて来られ、わけもわからぬまま柱に繋げられたのは元旦だった。
拉致ともいう。強引に車に押し込まれ、気付けば薄暗い納屋にいた。
車に乗ったのも初めての事だったが、写真や絵でしか見たことのない街並みや、神社に群がる多種多様な服を着た人たちを見て楽しむ余裕など、皆無であった。
車を運転している人物が自分の母の兄であるという事と、伯父と名乗るその人物の家へ向かっているという情報しかない中。畏怖の念に支配され、秀貴は後部座席で体を小さくして黙っている事しかできなかった。
何しろ、今まで十五年間生きてきて会話を交わした人物は、父と、身の回りの世話をしてくれていた女中の春江だけなのだ。
急に『伯父だ』と名乗る人物が現れても、何を話せばいいのかわからない。そもそも、母親――この男の妹――は、自分が殺したようなものなのだ。
確かに、父から身元引受人が決まった旨と、迎えが来る事は告げられている。だから抵抗せず、車に乗っているのだが――、
(でも、何故父上はあの時『伯父が迎えに来る』と言わなかったんだろう?)
秀貴の中に、僅かにある違和感。喉に刺さった魚の小骨のような気持ち悪さを感じていた。
そうこうしていると車が停まり、外へ放り出され、一転。暗くて埃っぽい納屋へ投げ込まれたのだ。
その時、秀貴は自分が歓迎されていないことを悟った。伯父にとって、自分は妹を殺した人間だ。歓迎されないことは、ある程度、車の中で覚悟していた。
それからすぐに首輪を付けられ、鎖で柱に繋がれた。
秀貴は、ここまでしなくても逃げやしないのに、とは思ったが声に出す必要性も感じず、黙っていた。抵抗の仕方も、わからない。
そして渡されたのが、白くて長い紙。筆と墨と硯と水。下敷きや文鎮も投げ入れられた。父から受けていた仕事と同じもの。符作りを、伯父は秀貴に命じた。完成したものをどこかで売るらしい。
実際、父もどこか売りに出して収益を得ていたと聞いているので、それは一向にかまわない。やること自体は、今までと変わらない。
(本が無いのは寂しいけれど……仕方ない)
贅沢を言える身ではない。
両親を殺してしまった自分への罰だと思い、この環境と立場を受け入れた。
心残りといえば、常に身辺の世話をしてくれていた春江に、ひと言も告げず家を出てしまったことだ。書き置きすら残す時間がなかった。
春江は、三が日は自分の家族と過ごす。秀貴が屋敷に居ない事に気付くのは、明日だろう。不思議なのは、伯父が迎えに来ることを春江も知らなかったことだ。知っていたなら、大晦日に一緒に食事をした時に話題になっただろうに。
(でも、これで春江も僕の事は気にせずご家族とのんびり暮らせますね)
秀貴は少しだけ胸を軽くして、渡された注文書を拾い上げた。道具も、納屋の中央にある机の上に移動させた。