35.まだ弱い
特訓に使っていた小学校のものより広い運動場へ出る。取り囲むように出来た人だかりは圧巻だった。少しは耐性が出来たとはいえ、大勢の前へ出るのはまだ緊張してしまう。
「秀貴さん」
歩み寄ってきた彩花の左腕は、ただぶら下がっているだけで力が入っていない。
視線に気付いた彩花が、紅潮している顔を伏せた。
「折れてしまったみたいで……お恥ずかしいです」
(女って、骨折が恥ずかしいのか……)
秀貴は女性に対する、少々偏った情報をアップデートした。
「秀貴さん」
再び名を呼ばれ、小首を傾げる。
「剛田がもう二度とつまらぬ事を言わないよう、完膚なきまでに叩きのめしてください」
傷だらけの細い体に似つかわしくない、勇ましい声を掛けられ、秀貴は何故か弱々しく笑う事しか出来なかった。
グラウンドの中央には、秀貴と剛田のみ。他は皆、グラウンドの隅か校舎に固まっている。
「『倒せ』って言われたからそうするけど、逆恨みしないでくださいよ」
相手は年上なので敬語を使う事を忘れない。因みに、前回出会った時はそんな事完全に頭になかった。
ドーピングにドーピングを重ね、肉体改造を繰り返してきた剛田は、秀貴の言葉に激怒した。
「やれるもんならやってみろ、ガキが! 二度と嘗めた口きけねぇようにしてやる!」
怒号と共に飛んでくる右拳。それをしゃがんで避け、剛田の足首目掛けてローキックを見舞ってやる。
バキッ。鈍い音が運動場に響く。
「痛っ。あ、ヤベ、折れたかも」
攻撃した側なのにダメージが倍以上帰ってきた事に少なからずショックを受けている秀貴の耳に、竜真の声が届いた。
「肉弾戦で勝てるわけないでしょ!」
「わ、分かってっけど、今の俺の体がどれだけ強くなったか知――ッ」
よそ見をしていた秀貴の脇腹を、剛田のつま先が抉った。体がゴムボールのように飛び跳ね、少し転がる。
あばらの少し下。挫滅してもおかしくない衝撃だった。
げほげほ噎せつつ、連続で向かってくる足を転がって避ける。
正直、今の一撃の所為で戦意が大分削がれてしまった。
はぁ、と小さな溜め息が漏れた。折れたらしい足首は動きを妨げるし、内臓も酷く痛む。しかし、竜真とつぐみから『勝て』と言われている以上、負けるわけにはいかない。
そして、自分が一番気になっていた事は、分かった。
(結構がんばって体鍛えたけど、俺ってまだまだ弱ぇんだな……)
自分はまだ未熟だ。それを思い知らされた。充分ではないから、更に努力が必要だ。“先生”に恥じぬよう、研鑽を積まなければ。それを、身をもって知ることが出来たのだから、自分の行いは間違っていなかったのだ。
(痛い思いをした甲斐があった)
ひとり満足し、秀貴は頭を下げた。
攻撃を躱すためではなく、謝礼の意を成すこの動作。剛田は理解が及ばず、腹を立てて秀貴を殴りに来た。それを一度、身を捩って躱す。
両手を胸元で構え、
「このまま、殺さない程度に、力を加減して……」
「何をブツブツ言ってやが――」
怒鳴りながら、再度右拳を振りかぶった剛田の動きが、パタリと止まり――ゆら、とグラついたかと思うと、ズシンッと倒れ込み、土埃が舞った。
しぃぃ……ん。静寂が数秒。
誰かが「やったのか?」と間の抜けた声を発した。それを皮切りに、ざわめきが広がり、それが何故か歓声に変わった。
しっかりと言いつけを守った秀貴だが、どうにも腑に落ちない。
(自分の力で勝ったのは嬉しいけど、人を倒すのって全然良い気がしねぇな)
自分の両手を見つめながら、心の中で嘆息した。そして気付いた。自分の手首にある数珠のヒビが深くなっていることに。
地面を転がり回った時、小石にぶつけたのかもしれない。今にも割れてしまいそうだ。
「やべ……ッ」
危険を感じて全身に意識を集中させる。力を自身の内側へ留めておくイメージをしっかり抱いたところで、数珠が数個割れた。
刹那、轟音が一瞬その場を震わせた。それは雷鳴にも似た音だった。
だが、それだけだ。
周りに被害らしいものは見当たらない。
音に驚いた鳥たちは一度、一斉に飛び上がったが、すぐに校庭にあるフェンスの上へ戻ってきた。冬羽で丸々としたスズメたちが顔を見合わせて羽を震わせている。
すでに倒れていた剛田以外は、誰も倒れていない。
「……夢……かな……」
自問するが、力を抑え込んでいることによる疲労感は紛れもなく本物だ。というか、長時間は耐えられないかもしれない。今、もし自分が気を失いでもしたら……と思うと、背筋が凍る。現在、自分の周りに居るのは、虫や小動物ではなく、数百に及ぶ人だ。
一番近くに居る剛田の胸が上下しているので、一旦は安心した。が、気を緩めればどうなるか。考えたくもないが、考えなければ自制できない。
全力を尽くしている秀貴だが、周りの人には、棒立ちしているようにしか見えていない。
数珠が割れて、一分。その間、双方に動きがない。となると、疑問の声も上がり始める。




