31.誤解解消
「そうそう。まずは『受験番号』って書かれてるところに自分の番号を書いて『氏名』にフルネームを漢字で書こうね。で、この枠の中に答えを書くんだよ。解答欄を間違えないように気を付けてね。問題用紙の余白は、計算式とか自由に書けば良いから」
喋り方、動き方に続き、受験に向けての特訓も始まった。地頭がよく、学校で使われている教科書も読破している秀貴。だが、テストは一度も受けたことがない。
父親が各種問題集を春江経由で定期的に寄越していたので、それに関してはクイズ感覚で問題を解答し、完了させてきた。義務教育で教わる内容は完璧に近い。
ただし、教師が意図的に作るひっかけ問題には弱い傾向にある。それを克服するために、竜真は知り合いの教師に入試の過去問題を山のように用意させた。秀貴は今、それを解いている。
竜真が学校に及ぼす権力は未だ健在だが、不正をしてまで秀貴を首席入学させる考えは持ち合わせていない。実力のない者に人はついてこない。それが、竜真の持論だ。
ただ、学力については心配に及ばないだろう。ひっかけ問題以外は完璧なのだ。そして、意地の悪い問題も分析できるようになってきた。
春江がこの世を去ってから、もう数週間経っている。
机に向かい、家事もこなし、近くの公園で体も鍛えている。秀貴はこの家へやって来た時と別人のように逞しくなった。最初の一週間で最も大きな変化があったので、そこから見た目はあまり変わってはいないのだが――。
人前で話す時に怯えなくなったのは、大きな進歩だ。人の上に立てる空気を作る為には、必要なことだ。行儀のよさも残っているので、粗悪な感じもない。良い意味で“砕けた”といえる。
あと足りないものは“自信”だ。自己肯定感が極端に低い秀貴。それは今もあまり変わっていなかった。
「人は簡単に変われない……とは言うけどねぇ」
ほう、と溜息と共に声がこぼれた。
そんな竜真を、秀貴は不思議そうに見上げる。
秀貴も身長が伸びたとはいえ、190センチ近い竜真には遠く及ばない。
「いやね。秀貴君は見違えるほどしっかり成長してるけど、根底にあるものは変わらないなーって思ってね」
「それって、俺が舐められるって事か?」
「ちょっと違うけど、でも、君は優しいから、なめられるかもしれないね」
「じゃあ、鴨にされて殺されるのか」
「あー、この調子だと、もうカモにされる事はないと思うけど……」
事ある毎に秀貴は「なめられてかもにされて……」と言うのだ。
竜真はずっと疑問に思っていた。そんなにインパクトのある言葉だったのだろうか、と。
「竜真さん」
視線を声の方へ向けると、そこには、真剣な顔があった。造り物のように整った顔。同じ男の竜真でさえ、息を呑むことがある。今もそうだった。
とっさに返事が出てこなかった。
一拍置いて、何かな? と微笑む。
「舐める以外に、鴨にされる方法ってあるのか?」
「はい?」
竜真は微笑んだままフリーズした。
しかし、秀貴の表情は真剣なままだ。
「例えば、手を握るとか、頭を撫でるとか」
「え、ちょっと待って。何の話?」
今度は秀貴が固まった。
「何って……竜真さんが言ったんだろ? 俺なんかが高校に行ったら、ナメられてカモにされて殺されるって」
言った。竜真にも覚えがある。秀貴が藤原家へ来た時だ。
「高校には、人間を鴨に変える力を持った奴が居るんだろ? だから、その対処法を――」
「うっそ! ええ!? そういう事!? あははははは! なーんだ。謎は解けたけど……ふふ……まさか、そんな……」
ひどく笑われているが、何故笑われているのか、皆目見当もつかない。おかしな事を言ったつもりもない。秀貴はそんな表情をしている。
一頻り笑った竜真が「あー、お腹痛い」と息を整えている。
「秀貴君、あのさ。君に、言葉の教科書として漫画を沢山読んでもらったでしょ?」
秀貴は解せぬ顔で頷く。
「『バカにしやがって』の同義語を言ってみてくれるかな?」
「えっと『ふざけやがって』『おちょくりやがって』『ナメやがって』……あ……え……?」
「お察しの通り『バカにされて、ターゲットにされて、ボコられる』ってカンジの意味合いで言ったんだけど……まさか、そのまんま受け取るとはねぇ」
秀貴は、つきものが落ちたように脱力した。
「俺、自分が、生きてるだけで周りの生物を殺せるから……人を鴨に変える人が居てもおかしくねーなって……思って……」
言われてみれば。と竜真も指を鳴らす。
彼の周りに花が咲いた。
「こんな風に、何もない場所で花を咲かせる人間も居るしねぇ」
案外、笑い事ではないのかもしれない。
「でもまぁ、僕が知る限り人を鴨に変えちゃう人は居ないから。それに関しては安心しなよ」
竜真は秀貴の不安を取り除こうと、肩に手を置いたのだが――せせら笑いが再発した。
「ふふ……秀貴君って、鴨になっても顔面偏差値高いんだろうね……ふふふ……」
「もう、何か恥ずかしいから止めてくれよ……」
「ごめんごめん。だってさ、君、素っ頓狂なこと言うから……」
「……あん時はナメるの意味知らなかったんだから、仕方ねぇだろ」
拗ねてしまった。
初めて聞いた時のイメージのまま、情報がアップデートされる事なく秀貴の中で定着していた勘違いが剥がれ落ちたのだ。それにしても、この反応も、藤原家へ来た時には見られなかったもの。
随分と打ち解けてくれたものだと、竜真も嬉しくなる。
「たっだいまー!」
中間テスト期間中のつぐみが帰ってきた。この期間は部活動などもなく、全校生徒が昼までに家へ帰ってくる。
つぐみはピラっと一枚のプリントを取り出し、竜真に渡した。
「今年度最後の授業参観だぜ!」
竜真とつぐみの目が同時に、秀貴へ向いた。
「……へ?」
秀貴は言い知れぬプレッシャーを一身に受け、顔が引き攣るのを感じた。
人が居る状態の学校を知る、絶好のチャンスなのだ。当然、秀貴も強制連行されることとなった。




