箱入り忌み子・下
父が死んだ。
そう……。この離れには、僕の力を外に出さないための結界が施されている。
今の衝撃が、術者である父にまで届いてしまったのだろう。病床に伏している父では、その負荷に耐えられなかったに違いない。
「僕は……父まで手に――」
「坊ちゃま、それ以上は」
ぴしゃりと言われ、口を噤む。
春江は、大きな声を出して申し訳ございません、と一度頭を下げてから、少々お待ちくださいね、と言ってまた去って行った。
少しして。
春江は桐の小箱をふたつ持って来た。
「旦那様から坊ちゃまへ……『誕生日の祝いの品だ』と言付かっております」
箱の蓋を開けてみると、ふたつとも同じ緑色の数珠が入っていた。透明度は高く、ガラス玉のようにも見える。
「この石は……電気石……ですか?」
「トルマリン、とも言うらしいです。坊ちゃまの好きな色を聞かれ、勝手ながら私がお答えしておきました」
春江に緑色が好きだなんて、言った事はない。
何で分かったのか……。
「ふふ。坊ちゃま、よく小窓から庭木を眺めてらっしゃいますから」
すりガラスで鮮明には見えないけれど、確かに僕はよく緑を眺めていた。
数珠を手に取る。
外気温は零度に近く、数珠も氷のように冷たい。
すりガラス窓から入る日光に照らしてみると、数珠はそれ自体が発光しているかのように輝いた。
「春江には敵いませんね……」
「旦那様は、両手につければ人と触れ合っても大丈夫だろう、とおっしゃっていました」
散髪の時に春江は護符だらけだった。
ということは、この数珠は父の死に際に渡されたのだろう。
「旦那様は、坊ちゃまがお外へ出られるようにいつも調べ物をなさっていたんですよ」
「……僕は父上に嫌われているのだと思っていました」
春江は少し言いにくそうに、旦那様は、と切り出した。
「自分の息子に会うのが恐ろしいなど、情けなくて顔向けできない……と、こちらへいらっしゃるのは元旦だけでしたから」
父がそんなふうに思っていただなんて、初めて耳にする。
両手首についた数珠を見て春江は、よくお似合いですよ、と顔に皺を増やして笑った。この笑顔を見ると、僕も安心する。
「坊ちゃま。ガラス戸を開けてみてくださいまし」
「え……」
このガラス戸にも、父の作った護符が貼られている。
小さいころ、誰かに悪戯で天井付近にある小窓から、大きなネズミを投げ入れられたことがある。上手に着地したネズミはタタッと少し走って、コロンと転がり、死んでしまった。
夏に入ってくる虫も、パラパラと死に、落ちてしまう。
僕の近くへ来ると、みんな死んでしまう。
近付く人がみんな倒れてしまうので、僕の体を詳しく調べたこともない。でも、父が言うには……僕の体からは電気だか電磁だかがたくさん出ている、とのことだ。
前例のある強磁性体の中でも、類をみない強さなのだと言われた。
手首にある、若葉色をした数珠に目を落とす。
父を疑うわけではないけれど、やっぱり、こわい。
僕が数珠を見たまま震えて動けなくなっていると、春江が「仕方ありませんね」と。言うが早いかガラス戸に手を掛けた。
「…………っ」
思わず顔を両手で覆ってしまっていた僕の頭に、温かい重みが加わる。
ゆっくりと顔を上げると、目の前に春江の、春の陽気のようにあたたかな、優しい笑顔があった。
「ほら。大丈夫でしょう?」
春江は僕の頭を撫でて言う。
「坊ちゃま。坊ちゃまはきっと、どこへでも行けます」
完全に諦めていたかつての望みに僅かな可能性を感じ、胸の奥がじんわり温かくなった。
父の葬儀は大晦日とり行われるとの事だ。
大晦日の夜から三が日は、住み込みで働いている人も家を空けるので、お寺が融通をきかせてくれたらしい。
まだ人前に出る心の準備が出来ず、通夜の間は離れに閉じこもって経をあげた。
翌朝。葬儀の準備で忙しい時に申し訳ないと思ったけれど、父に挨拶がしたいと春江に頼んだ。
使用人たちには、きっといい顔はされないだろう。それでも、父に会っておきたかった。
死んだ父は色々と話してくれた。
今まで閉じ込めてすまない。父親らしいことをしてやれず、すまない。
そんな謝罪から、父との対話は始まった。
頼まれて僕がしていた仕事で、今後の生活費を二千万円貯めたこと。使用人たちの解雇手当てや遺産の相続などは弁護士に遺書を渡してあること。使用人たちの再就職先の斡旋手続きも済ませてあること。
そして、僕の身元引受人がもう決まっていること。
その人は特殊な体質に詳しく、一月中に迎えに来てくれるということ。それまでは、今まで通り春江が僕の身の回りの世話をしてくれるとのことだ。
それらを話し終え、肉体を持たぬ父は、もう一度だけ「すまなかった」と頭を垂れた。
(謝ってほしいと思ったことなんて、一度もないんだけど……)
心の中で思ったけれど、こういう時にすっと声が出ない。
そもそも、その父を殺したのもこの僕だ。僕の方こそ謝らなければ。そう思ったけれど、顔を上げた父の厳格な面持ちが、謝罪の言葉を喉元から出すのを許さない。
ここで僕が謝罪をすれば、父に恥をかかせてしまう。そんな気がする。
「……いいえ。父上から頂戴した数珠のお陰で、こうして外へ出ることが叶いました。ここまで育ててくださったことに感謝こそすれ、憎いなどと思うはずがありません。安らかにお眠りくださいませ」
頭を下げ、次に顔を上げた時に見た父の顔は、優しいものだった。棺に入っている父の顔も、心なしか穏やかに見える。
遠くからこちらを見ている使用人たちが、こそこそ話しているのを、視界の端が捉えた。
“霊”というものは多くの人には目視出来ないらしい。だから、彼らにはきっと僕が虚空に話し掛けているように見えるのだろう。
「春江」
「はい、坊ちゃま」
呼ぶと、春江がすぐに襖を開けて入って来た。
「少しだけ、庭へ出てみたいのですが……」
「ええ、もちろん。よろしいですとも」
初めて下駄に足を乗せる。履き方は知らないけど、履いている人の写真は見たことがある。鼻緒の間に親指を入れるのが少し大変だったけど、無事に履けた。
親指と人差し指の間が少し痛い。けれど、そんな痛みより喜びの方が大きかった。
歩み出せば、カランと木の軽い音がした。そんな些細なことさえ楽しくて、わざと音を鳴らしてしまう。
庭の開けた場所で止まり、顔を天に向ける。
「わ……ぁ……」
とても遠い。けれど、とても澄んだ青が広がっていた。
「春江! 空はこんなにも広かったんですね」
振り返ると、春江は目を大きく見開いてかたまっていた。
「……春江?」
不思議に思って近くへ寄ると、春江は目から大粒の涙をこぼしていた。
「坊ちゃま……初めて、笑って……」
最後は嗚咽で聞き取れなかった。
少し待ち、落ち着きを取り戻した春江は赤くなった目を細めて「すみません。年のせいか涙もろくて」と笑った。
母屋へ戻り、距離を取って、僕は初めて他の使用人たちと向き合った。知らない顔ばかり。緊張で体が震える。
ゆっくり息を吸い込むと、冷たい酸素が肺に届いた。
「葬儀前の忙しい時にお邪魔してしまい、すみません。喪主となるべき僕が不在でご迷惑をおかけします。やはりまだ、大勢の人の中に居るのは怖いので……僕は離れへ戻ります」
一度頭を下げ、昨日、外で話していたと思われる女の人たちのほうへ向いた。
「醜い顔を晒してしまい、申し訳ありません。もう戻りますので……失礼します」
もう一度頭を下げて、春江と一緒に離れの勝手口へ向かった。
「あっはっはっは」
「どうかしましたか?」
春江が大声を出して笑うなんて、珍しい。
「どうしたもこうしたも……ふふっ。坊ちゃまったら」
何がそんなに面白かったのだろう?
「私は、坊ちゃま以上にお綺麗な顔をした方とお会いしたことなんてありませんよ」
「……え……」
それはおかしい。だって僕は……、
「こんなにヘンテコな髪と目の色をしているんですよ?」
「あらあら。私はヘンテコだなんて思ったことありませんよ」
こうなったら、春江はガンコだ。
「……まぁ、僕は春江の笑った顔が一等好きですけどね」
そう言うと、春江はまた「坊ちゃまったら」と笑った。
夜は春江と年越しそばを食べた。
初めて、人と一緒に食事をした。火を持ち込むことの許されなかった室内。その食卓の真ん中にろうそくを置いて。
それは当然楽しい時間となった。人と話しながら食べる食事は、美味しく思う。
父を喪い悲しいはずなのに、初めて、生きていたいと思えた。
不謹慎かもしれない。けれど――
(幸せって、こういう時間のことを言うのかもしれない)
緩む口元を脱力させたまま、そんなことを考えてしまう。
食事を終えて春江が母屋へ戻り、僕は布団の中へもぐった。
遠くではゆっくりと、除夜の鐘が鳴り始めた。
いつもより温かく感じる布団の中で、除夜の鐘を数えながら眠りについた。