26.残穢
成山秀貴は母親を知らない。
自分を生んだ瞬間に死んでいるのだから仕方のないことだが、写真すら見たことがなかった。というか、写真はあるらしいのだが、見せてもらったことがない。
母の姿を見ることで『自分がこの人を殺してしまったんだ』と深く認識するだけだと判断した春江が、一切見せようとしなかったのだ。それには、父も賛同していた。
元々居なかったので、秀貴自身もあまり意識したことがない。
読んだ本に母親の話題が出れば気になったし、使用人たちの会話に名が挙がれば耳をそばだてた。その時に『あんなにお綺麗な方が』とか『とてもお優しい方だったのに』と聞くたびに気持ちが落ち込んだので、いつからか母の話を聞こうという気もなくしていた。
結局、春江が危惧していた通り、母を知るほど心が荒んでしまうのだ。
だから、心に蓋をして母のことは考えないように努めた。秀貴自身も周りも、それで困ることはない。そのお陰で、今まで生きてこられた。
あろうことかこの男は、蓋を鈍器で殴り割ってしまった。
秀貴の中から溢れ出した、おどろおどろしい感情になど気付かず、未だにべらべらと講釈をたれている。
秀貴が罪の意識にさいなまれた時、諫めてくれるのはいつも春江だった。しかし、その春江ももう居ない。
この男が殺してしまった。
男への恨みと、春江が居なくなった悲しみと、自分への怒りと虚しさがない交ぜになる。
力を制御することなど、すっかり頭から飛んでいた。
否、もしかしたら殺すつもりだったのかもしれない。目の前に居る、春江を殺した男と、自分を。
なけなしの電球は無残にも砕け散り、汚れですりガラスのようになっている窓も割れて、落ちた。空気は弾け、地震のように振動している。
「オレにはお前が必要だ」「お前にもオレが必要なはずだ」「オレとお前が組めば億万長者だ」などとペラペラ喋っていた男も、今は腰を抜かしてへたり込んでいる。
秀貴から発せられる電気も磁気も男には視えないだろうが、この異様な雰囲気と、何よりこの空間で起きている現象は男を失禁させるくらいには強烈なものだった。
秀貴は元々、怒りを外へ出すのが苦手な性分だ。怒りをぶつける先がなかったのも大きな要因だろう。なので、不満など負の感情は内に押し込めてしまう。
だが、その器の容量にも限界がある。
これがもし、十五歳になる前だったなら、伯父を名乗る男はおろか、この周辺一帯が停電となり、多数の死者を出していただろう。現在、それを食い止めているのは、父親が秀貴に贈った腕珠だ。
しかし、それにもひとつ、ふたつと小さなヒビが入り……
「お前なんか、死――」
バキッ! ガガッ、みしっ。
空気を裂くような轟音と共に、屋根の一部が秀貴と男の間に落ちてきた。
それに遅れて赤い羽が一本、重力を感じさせない速度で落ちてくる。そこだけ刻が止まったような錯覚を覚えていると、黄金色と紅色の派手なかたまりが降ってきた。
男の前に立っているそれは、少女である。輝くような金髪、背には大きく真っ赤な双翼。服装はオーバーサイズ気味のスカジャンにズボンというラフな格好だが、その神秘さに、男はだらしなく開いた口を閉じられずにいた。
つぐみを追うように舞い落ちてくる羽根たちが、口に入ってしまいそうだ。
陶器のように艶やかな肌は上気しており、皮膚の下に通う血液の存在を示している。
男が、人形のように可愛らしい少女から目が離せずにいると、よく熟れた果実を思わせる唇が開いた。
「よくもあたしの弟を泣かせてくれたなぁ!! おっさんよぉ!!」
視覚からと聴覚からの情報の差に脳での処理が追い付かず、男はフリーズした。
秀貴は別の意味で固まっていた。
今まで渦巻いていた感情がさっと晴れ、一番に頭に浮かんだ言葉は「いや、泣いてねーし」だ。それも、すぐに自分の目頭の熱に気付き、心の中で「あ、泣いてたわ」とこっそり訂正した。
秀貴が赤い翼と金の髪を後ろから眺めていると、今度は秀貴のすぐ後ろの壁が外側から破壊された。
もう、涙などとっくに引っ込んでしまっている。
ぽっかり空いた穴からは、人工の光がこれでもかというほど差し込んでくる。あまりの眩しさに秀貴が目を細めていると、おっとりとした声が入ってきた。
「秀貴君、さっきの凄かったねぇ。髪の毛が下敷きゴシゴシしたみたいになっちゃったよ」
逆光で顔は見えないものの、見上げるほどの長身とふわっとした金髪で、誰だか分かる。
下敷きゴシゴシは分からなかったが。
いつもはふわふわくるくるとまとまっている髪が、今は少し横へ広がっている。
つぐみと竜真の登場に困惑していると、男が尻を地面についたまま吠えた。
「何だてめぇら! 人ん家勝手に壊しやがって!」
ひっくり返った声で怒鳴られたところで、この場に居る者はビクともしない。
「何だはこっちのセリフだ! よっくも秀貴を誘拐しやがったな! お陰であたしは腹ペコだ! どーぉしてくれんだ、この野郎!!」
小さな足に額を踏みつけられ、男が呻く。
秀貴は、食欲優先のつぐみに複雑な気持ちだ。
「あんな事言ってるけど、つぐみは秀貴君の事すごく心配してたからね?」
取ってつけたような竜真のフォローも相まって、ずいぶんと心臓も落ち着いてきた。最近慣れ親しんでいたこの空気に、心地よささえ感じる。
が、その空気が一変した。それそのものが質量を持ったように重くなり、明るいはずの光すら打ち消すほどの黒い何かが広がった。
それが、竜真から発せられているのだと気付き、秀貴が首をもたげる。
そこには、口元に笑みを湛え、目は微塵も笑っていない竜真の顔があった。
外からの光を遮っている“何か”は、竜真の背後で蠢いている。目を凝らして見れば、それらが背中から伸びているのだと伺えた。
「さて、と」
ひどく落ち着いた声だった。いつもの彼と変わらぬ声。けれども、いつものものとは比較にならないくらいほど重く冷たい声だと、秀貴は思った。
竜真は一歩も動かない。
つぐみは少し不満そうに唇を尖らせて、男から離れた。
男は歯をガチガチ鳴らしながら、空を見上げている。
そんな男を、氷のように冷たい眼が見降ろした。いつもならば、ゴミ虫にも優しく語りかけそうな竜真が、
「どうしようかな。四肢をもいで生きたまま融かしてやろうか」
男がヒッと息を詰まらせる。
「そ、そんな事をしてみろ! お前も殺人罪で――」
「は?」
そのひと言だけで、男が再び言葉を失くす。
「何か勘違いしてねぇか? 俺はただ、ゴミを掃除するだけだ」
目の前の男を“生物”とすら思っていない目。今は“冷たい”という温度すらない。それはまさしく、道に転がっている小石を見るのと同等な眼だった。
自分に向けられているわけでもないのに、秀貴は血管に直接氷を当てられたかのように体が冷え、動けなくなってしまった。
一方、男はガタガタ震えるだけで、もう声も出せていない。
つぐみは肩をすくめて後ろを向き、両耳に人差し指を突っ込んでいる。
次の瞬間、声も出せないくらい憔悴しきっていた男の口から、耳を劈くような断末魔が発せられた。脳を八つ裂きにされたと思えるほどの、人とは思えない、獣の咆哮ような声。
秀貴は瞬きをしたわけでもないのに、一瞬の内に男の両腕と両脚は消えていた。
不思議なことに、血は一滴たりとも落ちていない。だが、男の形相と悲鳴が、四肢がもがれたことを如実に物語っている。
竜真の口元の笑みは、とうに消えていた。




