25.ゆめうつつ
長い夢だったのかもしれない。
ガラス戸の外へ出たこと、青く澄んだ空、春江と食べた食事、新しい家族、小学校で行った運動、覚えた料理、温かい商店街の人々。それらが全て夢で、目覚めたらいつもの部屋で独りきり。カレンダーに丸を付けて始まる一日。
そんな日常に戻るのかもしれない。
心の隅でずっとくすぶっていた不安。最も危惧するべきは、暗い納屋に首輪で繋がれていたあの日に戻ること。考えるだけで悪寒が走る。だから、極力考えないようにしていた。楽しいことばかりに目を向け、嫌なことに蓋をしていた。
暗く沈んだ意識の中で聞こえてきたのは、重ねた年によって少ししわがれた――けれど、落ち着く優しい声。
『坊ちゃま』
確かに聞こえた。消え入りそうな小さなものだったが、聞き違えるはずがない。秀貴は十五年間、毎日この声を聞いて生きてきたのだ。
しかし、目を開けて見た世界に、彼女の姿はなかった。
代わりに目に映ったのは、自分を見下ろす、憎悪や憤怒を孕んだ顔。その人物の姿に、秀貴は息を呑んだ。
次いで、首にある冷たい存在に気付く。無意識の内に、それに手を添えていた。硬い皮の感触。大型犬の首に巻くためのものが、そこにある。
少し動くと、結合している鎖がジャラリと鳴った。暗がりで鈍く光るそれは、視覚からさえ、冷たく感じる。
(やけにリアルで長い夢だったな……)
秀貴は落胆し、視線を落とした。
違和感が全身を駆ける。
着ているものが白い着物ではない。伸びた前髪が視界を遮ることもない。何より、自分の体が折れそうなほど細いものではなくなっている。
(……あれ? おかしい。夢の中と同じ服を着てる……)
次第に頭が冴えてきた。世界が鮮明に見えてくる。
今までのことは、夢ではなくすべて現実。はっきり断言できるくらいには、記憶が蘇った。
確か、夕食の買い物をしていたのだ。最後に買ったのはキャベツ。みかんも貰った。商店街を出たところで急に甘い香りが鼻腔をくすぐってきて――
(記憶はそこで途切れてる)
特に痛むところはない。頭を打ったりはしていないようだ。それに関して安堵していると、横腹を激痛が襲った。衝撃で僅かに体が浮き上がり、そのままコンクリートに叩きつけられた。
蹴られたのだと気付いたのは、頭を踏みつけられた時だ。コンクリートに接した頬が急速に冷やされ、じんじんと痛みを伴う。冷たいような、熱いような感覚。皮肉なことに、痛みのお陰で冷静さを保っている部分もある。
なぜ、どうして……。そんな事を考えるよりも先に、口が開いた。
「何しやがんだ。アンタとは絶縁したはずだろ!」
思いの外大声が出たので、自身が驚く。
それよりも驚いているのは、秀貴の側頭部に靴の裏を押し付けている男だ。
秀貴の実母の兄――伯父。秀貴にとって、唯一の血縁者である。
男は呆気にとられた顔から一変。脚を地面へ戻し、秀貴の前にしゃがみ込んで目尻を下げた。かと思うと、今まで聞いたことのない猫撫で声で話し始めた。
「少し見ない間に逞しくなって、おじさん、驚いたぞぉ」
目尻と口元に皺を作って笑うその声は、秀貴の全身を粟立たせるには充分すぎた。
人のことを「嫌いだ」と思ったことのない秀貴ではあるが、この感情が“嫌悪”なのだと直感した。今まで散々殴り、蹴り、踏み付けてきた男の豹変ぶりは、秀貴の警戒心をこれでもかというほど引き上げた。
そんな秀貴の心境など察せぬ男は、なおも甘ったるい声で言葉を続ける。
「離れて思い知ったよ。オレにとっても、お前はたったひとりの血縁者だ。家族として、これから仲良くやっていこうな?」
いや、家族を首輪で繋ぐ奴なんていないだろ。と、今の秀貴ならゼロコンマで答えに辿り着ける。
以前ここに繋がれていた時は、何も分からず、されるがまま、言われるがまま従っていたが。
それも、今では“おかしい事”なのだと分かる。そして、目の前の“家族”を広言している男が、自分を家族として扱う気がないことも。
「やっぱり、なんだかんだ言っても血の繋がりが一番大切だからな」
“家族”を知った秀貴に、この男の言葉が届くはずもない。
「アンタがどう思おうと、俺はアンタを家族だとは思わない。帰るから、早く首輪を外せよ」
男を気絶させて、そのうちに……ということも頭を過るが、それをしないのは秀貴の良心だ。倒れた拍子に頭を打ってしまう可能性を危惧して、あくまで口頭で告げる方法を選んだ。
だが、それが男の神経を逆なでしてしまった。カッと頭に血が上った男の顔は一瞬で紅潮し、怒りを露わにした。そして同時に、蹴りが飛んでくる。
受け身を取る間もなく、まともに鳩尾に喰らい、吹き飛びこそしなかったが内臓を押し上げられるような痛みから、その場に蹲る。
やっとのことで息を整えていると、カンッと何かを投げられた。軽い音のした方を見やると、そこには金属で出来た椿の髪飾り。一見地味だが、細工の精巧さから、価値のあるものだと分かる。
秀貴がよく知っているものと酷似していた。
手に取ってみる。
それが記憶の中にあるものと同一であると確信し、心臓が早鐘を打った。脊髄を冷水が流れるような感覚に襲われ、それが全身へ広がった。力の入らない手のひらに乗った椿を凝視する。
細かい傷が増えてはいるが、これは間違いなく――。
「これを……どこで……」
ひどくかすれた声が出た。喉にも力が入らない。
心の片隅で、別人のものであることを祈りながら、男を見上げた。
笑いを堪えきれないと言わんばかりに喉を鳴らし、無精髭に覆われた口は下卑た三日月を模った。
「『坊ちゃま』は知らねぇほうがイイんじゃねぇかぁ?」
先程までと変わらない、猫を撫でるような声だが、そこには厭味ったらしさが多分に含まれていた。人を小馬鹿にした嗤い。
しかし、今の秀貴にはそんな事どうでもよかった。
「世界にとっては害悪でも、オレにとっちゃ金の卵を産むガチョウだ。誰もお前を必要としなくても、オレは違う。オレにはお前が必要で、お前にはオレが必要なはずだ」
男はつらつらと述べるが、秀貴の脳内を支配しているのは、この髪飾りの持ち主かもしれない人物。
「春江はどこだ」
彼女の名を声に出したことによって、己の中で否定していたものが崩れた。
生家では多くの人が働いていたが、秀貴の事を『坊ちゃま』と呼ぶのは彼女だけ。他の者は秀貴の事を『坊ちゃん』と呼んでいた。
春江がこの男と接触したことは確実だろう。その時に髪飾りを落としてしまっただけ。彼女は無事に家に帰った。そうに違いない。
やけに五月蝿い心臓を抑え込むように、胸元で髪飾りを握りしめた。
「あのババアなら、死んだよ」
「し……」
そこまで考えていなかった秀貴は、言葉を失くした。いや、薄々感じてしまっていたのかもしれない。だからこそ、先の質問が口から出たのだろう。
まどろみの中で聞こえたあの声が“本物”ならば、この男が言うように、春江はもう――。
「あいつ、三が日が明けて成山の家へ行ったら、お前が居なかったっつって、ここまで来たんだ。五日ごろだったっけかな」
それだけで何故、彼女が死ななければならないのか。
「坊ちゃまはどこだっつってウルセーから、直前までお前が居たこの“お屋敷”を見せてやって、もう藤原に送り届けたって教えてやったんだよ」
それで、何故。
「そしたら、あのババア『坊ちゃまをこんな所に繋いでいただなんて』って急に怒り出しやがってな。ウルセーから突き飛ばしたらひっくり返って、そこの角に頭ぶつけて死んじまったんだ」
『そこ』とは、この男が秀貴の枕にと持ってきていた四角いコンクリートブロック。硬くて使えたものではなかったので、隅へ追いやっていたものだ。暗くて気付かなかったが、よく見ればほぼ黒にしか見えない液が乾燥してこびりついている。
秀貴は頭に血が一気に上がっていくのを感じた。
今まで冷たかった体が、沸騰したように熱くなる。
周りの空気はビリビリと震え、申し訳程度についている窓ガラスは、窓枠にガタガタと体をぶつけた。
「春江は何も悪くないだろ」
絞り出すように、感情を男にぶつける。
返ってきたのは、予想外の言葉だった。
「桜子も、何も悪くねぇだろ」
一瞬、何のことだか分からなかった。
桜子……聞き覚えのある名だ。
「なんにも、悪事なんざしてねぇ。なのに“殺された”。何でだ?」
少し考え、名の主を思い出し、秀貴の顔は再び血の色を失った。
「桜子に罪があるってんなら、そりゃお前をこの世に産み落としたことだ」
あんなに五月蝿かった心臓の音すら聞こえない静寂の中、男の声だけが、脳を殴られているかのように痛みを伴って響く。
秀貴は、自分の中で何かが割れた音を聞いた。それは、重く分厚い陶器が砕けるような音だった。




