箱入り忌み子・上
僕はなんのために生まれてきたのだろう。
そう考えない日はない。
今日は満月。
東の窓から月明かりが入ってくれて、それだけで本が読める。
けれど、南側には窓がないから暗くなったら寝なければならない。
ぱらり……ぱらり……。文字を目で追い、今まで幾度も読んだ本のページをめくる。
十ページほど読んだころ、月は壁のむこうへ隠れてしまっていた。
窓から差し込む光で目を覚ます。
窓の格子には雀が休みに来ていた。磨りガラスでわかりにくいけれど、冬毛に包まれて丸々としている。
それもすぐに飛び立ってしまった。
小さい体で羽を広げて、どこへでも飛んでいく。
それを、羨ましい、と思わなくなって久しい。
流しで顔を洗って、卓上カレンダーに丸をつける。毎朝これをしておかないと、今日が何日かわからなくなってしまうから。丸を書いた日が今日。
(今日がなんにちか……なんて、知っていてもあまり意味はないけれど)
カラッ、と勝手口を開ける音に続いて、
「坊ちゃま、おはようございます」
壁の向こうから声がした。
僕の身の回りの世話をしてくれる女中の、春江。年のせいか少しだけしゃがれてきたけれど、柔らかい声をしている。
彼女は白髪交じりの頭を下げて、にこりと笑う。春江は、いつも花を象った髪留めで髪をまとめている。春は桜、夏は紫陽花、秋は山茶花、冬は椿。
今は椿の花が、春江の後頭部に咲いている。
「お食事と今日のお召し物をお持ちしました」
床に面した壁にある小さな戸――猫の出入り口のようなもの――が開いた。
春江は食事と着物を、そこから室内へ滑り込ませる。
昨夜たたんで置いておいた着物を引き取ると、春江はガラス扉の方へ来た。この扉は元々ふすまだったのだけれど、春江が父に頼んで透明なガラス製のものに変えてもらったものだ。
僕が昨日着ていた着物を抱えて、春江は笑っている。
下がった目尻や口元には何本もしわが刻まれている。それでも、彼女の笑顔は優しくあたたかい。
「春江、いつもありがとうございます」
「いいえ。それより坊ちゃま、私なぞに敬語はおやめくださいまし」
「春江の喋り方がうつってしまったんです。気にしないでください」
坊ちゃまときたら、と笑みを含んだ小言を挟みつつ。
僕と話してくれる女中は春江だけ。
父とも、基本的には年に一度しか会うことはない。
「時に坊ちゃま。本日は何の日だか覚えてらっしゃいますか?」
春江が一層優しい笑顔で訊いてくる。
だけど、覚えがない。今日は十二月三十日……。
「あ……」
「坊ちゃま、十五歳のお誕生日おめでとうございます」
そういえば、朝食の品数がいつもより多い。一番目立つのは赤飯だ。
「御髪も五年ぶりに鋏を入れましょうね」
「お願いします」
後ほど伺います、と言い残して、春江は離れから去っていった。椿の花を象った髪留めを見送る。
腰まで伸びた髪は、座る時たまに踏み付けてしまって少し鬱陶しい。洗うのも一苦労。特に今は乾くのも遅い。
それでも、僕の体に接触することは命の危険を伴うので極力さけるべき行為だということも重々承知している。
それに、人命と髪の毛を天秤にかけるなんて……それ自体が愚かだとも思う。
よいしょ、と結ってある重い髪を持ち上げて立ち上がる。
冷めてしまっては勿体ないので、お膳を卓上へ運んで食べた。
食事を終えてしばらくすると、荷物を持った春江が来た。
割烹着の上から、体じゅうにお札を貼って。
まるで耳なし芳一だ、と思う。
「坊ちゃま、失礼しますね」
ガラスで出来た引き戸を開けて春江が入って来た。
いつもの笑顔で荷物を置く。散髪セットと漆塗りの木箱。
「旦那様が、本日分のお仕事だと」
「父の容体はどうなのでしょう?」
訊けば、春江は表情を曇らせた。
父は末期の肺がんだと聞く。現代の医学での救済は困難だということは、この部屋にある医学書に記してあった。
この部屋には様々な本がある。辞書や図鑑、“学校”の教科書、小説、絵本、多分野の専門書……。本の重みで部屋が少し沈んでいるほどだ。
畳の上に大きな風呂敷を広げながら、春江が文机の上を見て、あら、と声を上げた。
食後に広げていた『エルマーとりゅう』。現在はしおりを挟んで閉じてある。ルース・スタイルス・ガネットの著書。『エルマーのぼうけん』の続編。
少年が、竜と旅をする物語。
「すみません。邪魔でしたら片付けます」
「いいえ。そのままで。坊ちゃまはその御本がお好きですね」
「はい。本……物語は、僕をどこへでも連れていってくれます」
そう言うと、春江が今にも泣きだしそうな顔になった。少しあせる。
そんな僕の心境を読み取ったのか、春江はすぐに目を細めた。
僕が自分の足で色々な場所を旅するなんていう望みは、人が鳥のように自由に空を飛ぶことくらい……不可能だということも、僕は理解している。
僕はここから出られない。
だから本を読む。
「坊ちゃまは綺麗なお顔をされているので、長い御髪もたいへんお似合いですけれど……。坊ちゃまももう十五……昔でいう元服の頃ですね」
元服――明治以前の成人式だと、本で読んだ。
「坊ちゃまがどのような殿方になられるのか、春江は楽しみです」
はさみがシャキンと鳴って、長い金色の髪が風呂敷の上に落ちた。
昼の準備があるからと春江は出ていき、僕は文机に向かった。
机の端にある鏡で髪を見ると、首が隠れるくらいの長さで整えられていた。まだこれから寒くなるので、首が冷えないようにと春江が気を利かせてくれた結果の長さ。
鏡に映る自分は本で見る他の“日本人”とは違う。髪は黄色いし、目の色も黄味の強い琥珀色。
父は真っ黒い髪をしているというのに。
せめて自分も黒髪なら……と思いながら鏡を裏返す。
少年とりゅうが描かれた表紙を横目に、父から託された仕事に取りかかった。
硯で墨を磨り、無地の紙札を置いて準備を済ませ、依頼書に目を通しながら要望通りのお札を作る。
一般的に護符、霊符、秘符と呼ばれる符を作るのが、僕の――呪禁師の家系である、この家の生業。そう、父に教わった。僕はその力が大きいのに加えて、生まれ持った体質が人と接するのに不向きなのだと言われている。
筆をとり、依頼書を見ながら、魔除け、厄除け、家内安全、身代り……病気を治す霊符も作る。
(……父上の病は、これでは治らないけれど)
頭痛や肩こりなどの軽い症状のものは治せても、複雑な病気は治せない。
この護符が一枚いくらか……なんて知らないけれど。売れるから依頼もくるのだろうと思う。
計三十枚。墨を乾かしている間に読書の続きを――
「あなた知ってる? 坊っちゃんの事」
くすくすと笑う声がする。複数の……女中さんや通いの使用人の声と足音も。
これは、わざと僕に聞こえるように話す声。度々、こんな会話が聞こえてくる。
父上の病気の事を知ったのも、顔も知らない彼女たちの噂話がきっかけだった。
「奥様が坊っちゃんを産む時に亡くなったお話?」
「そうよそうよ。しかも坊ちゃんを取り上げた産婆さんもなのよ」
「おふたりとも心臓麻痺ですって」
「呪われてるんじゃない?」
「きっとそうよ。呪いをする側だっていうのに、ねぇ?」
「坊ちゃん、顔も見せないし、きっとお顔も醜いのよ」
「イヤだわイヤだわ。近付かないようにしましょ」
くすくすくす。談笑は遠ざかる。
(こんなの慣れてる。文字を読んでいれば聞こえな――)
「ほんっと、春江さんはよくあんな気味の悪い子の相手ができるものだわ」
続いて聞こえてきた声に、僕の心臓が大きく脈打つ。
「もうお年ですもの。耄碌してるんじゃない?」
――――バチンッ!
大きく、家が“鳴った”。少し揺れたかもしれない。外から、たくさんの小鳥が一斉に飛び立つ音と、高い悲鳴を上げながら走り去る足音が聞こえた。
母屋の方では使用人が大声で、停電だ、と騒いでいる。
遠い喧騒に溜め息をひとつ吐き出して、墨の乾いた霊符をまとめた。
少し頭に血が上っただけでこの騒ぎ。もちろん、いつも気を付けている。でも、自分のことは聞き流せても、春江のことを悪く言われると感情が先に出てしまう。
「こんなだから、ずっとここに……」
僕の居る離れは、父が作った“結界符”に守られている。正確には、“結界符で僕から外を守っている”。それでも母屋にまで被害が及んでしまった。
僕が居るだけで他の誰かが危険にさらされる。
僕が生きているから、たくさんの人に苦労をかける。
自分をこの世に連れ出してくれた人を、ふたりも殺めて。それでも――
「それでも……そうまでして生きる意味なんて、あるんだろうか」
春江に問えば、何をばかな事を、と諭されるのは分かりきっている。
それでも、そう考えない日はない。
鬱々とした気持ちでいると、外から慌ただしい足音と息遣いが近付いて来た。
息を切らした春江が、ガラスの向こうに現れる。
「はぁ、はぁ……、坊ちゃま……、旦那様が……」
それは、父の訃報だった。