16.良くも悪くも純粋
本日後半のメニューは、ランニングと腹筋を中心に、腕立て伏せや鉄棒、校庭にあるアスレチックも使った。
秀貴が驚いたのは、つぐみの身体能力の高さだ。他の人がどれだけ動けるものなのか、秀貴は知らない。それでも、つぐみの動きが常軌を逸しているのは明らかだった。
小さな体で鉄棒に飛び乗り、そこからまたジャンプしてジャングルジムのてっぺんへ飛び、今度はブランコが吊るされている鉄筋へ足を下ろした。そして、こんなことを言う。
「秀貴ぁー! 鬼ごっこしようぜ!」
絶対に勝てない。
“鬼ごっこ”というもののルールもよく分からないが、確か“鬼”が触れたら、その人が今度は“鬼”になって他の人を追い掛ける……というもののはずだ。つまり、つぐみに追い掛けられたり、追い掛けたりしなければならない。
絶対に勝てない。
秀貴は心の中で反復した。
といっても、勝ち負けで物事を判断するような経験も自尊心も、秀貴の中では育まれていない。やろう、と言われれば応えるのみ。
その結果、
「遅ぇ! てめぇの足は何のために体にくっついてんだ! 手も使え! 次は雲梯だ! ほら! 猿みたいに、こう!」
小さい体で走り回っては罵声を浴びせ、雲梯をふたつ飛ばしながら進むつぐみ。
対して、先日まで握力など鍛えたことのなかった秀貴。重い本を持つことはあっても、せいぜい三キロくらいだ。しかも、鉄の棒は冷えてしまっているが、汗をかいた手で握れば滑ってしまう。
それでも、端から端まで行けるようになった。
凄い上達ぶりなのだが、褒めるのは竜真のみ。
「すごいねー。今まで家から一歩も出ずに育ったとは思えないよ!」
と、少しばかり嫌味に聞こえるかもしれない声援も、秀貴は気にしない。褒められれば、素直に嬉しく思う。
「この程度でイイ気になってんじゃねーぞ! 次はこのジャングルジムだ!」
叫んで登って、一番上まで行って終わりかと思いきや、一番上の棒に足を引っ掛けてコウモリのように逆さになると、つぐみは上体を折って腹筋を始めた。
アスリートでもやらないような無茶っぷりだが、良くも悪くも純粋な秀貴は、やはりこう応える。
「わかった」
しかし、これにはさすがに竜真も割って入った。
「つぐみ、新しい遊び相手ができて嬉しいのは分かるけど、それは明日かな。今日は雲梯をひとつ飛ばしまでにしておこうよ」
今し方、やっと渡れるようになった雲梯を、ひとつ飛ばして行けと言う。
しかしながら、秀貴の手はボロボロだ。ろくに日の光にも当たらず育った、もやしのような体。手のひらの皮が分厚いわけもない。
自分の手のひらを見た秀貴が、息を呑んだ。言われた事をこなすのに必死で、手の痛みにまで気が回らなかったのだ。
それに気付いたつぐみが、顔を歪めた。
「うーわー、マジかよ。何で言わなかったんだよ!?」
「今気付いた。すげー痛い」
「あぁもう! ちょっと待ってろ!」
半ベソ状態の秀貴を飛び越える形で、つぐみは竜真の元へ行き、ある物を受け取った。
そしてまた、飛ぶように帰ってきた。その手にあるのは、小振りなバタフライナイフ。
秀貴が嫌な予感を抱いていると、つぐみはおもむろに、自分の手にナイフの刃を滑らせた。そこから滴る赤色が視界に入った瞬間、秀貴の意識は遠退いた。
「おーい、起きろー!」
パンパンパンパンッ。
つぐみの小さな手が、秀貴の青白い頬を真っ赤になるまで叩いていた。
ひりひり走る痛みで目を覚ました秀貴は、頬を手で覆って冷やした。ふと、あることに気付く。手のひらに痛みがない。それどころか、破れてズタズタになっていた皮と肉が、綺麗に治っている。
「あたしの血は万能薬だかんな!」
と、つぐみは男のような胸を張って見せた。
「普通は、傷口に他人の血なんて垂らしたら感染症をはじめ、とんでもない事になっちゃうんだけどね。つぐみは特別だから」
因みに、僕の血じゃ治らないよ。と付け加え、竜真は秀貴の手を引いた。
「初日から飛ばし過ぎちゃったね。秀貴君、教えたことすぐに出来ちゃうから、楽しくて……つい」
竜真も反省の色を見せる。
「あたしは、ちょっとキビシーくらいが丁度いいと思うんだけどな」
つぐみは口を尖らせた。そんな彼女の手には、若草色の数珠が握られている。
秀貴が慌てて手首を見ると、何もついていない。気を失っていたので、ろくに制御も出来ていないはずだ。全身から血の気が引いた。
急いでつぐみから数珠を返してもらい、両手首へ戻す。つぐみが死なないのは散々聞かされたので、秀貴もあまり心配はしていない。
生身である竜真も、普通に立っている。
「た、竜真さん……なんともないんですか?」
「うん。少しピリピリするけど、大したことないよ」
普通ならば即死だろう。それを、竜真は笑顔で受け止める。秀貴にとってはこの上ない安心感である。
「予定より進んでるし、筋肉ってそんなにすぐ付くものじゃないし、秀貴君には話もあるし、今日はこれくらいにしよっか」
つぐみは遊び足りず、ぶぅ垂れていたが、竜真に諭されしぶしぶ小学校を後にした。