12.初ダッシュは大失敗
そう。秀貴は、自分のこの厄介な体質について竜真の口から説明されるのだと思っていた。
(つきあっている……って、どういう関係にあるんだろう?)
残念ながら、秀貴は“人間がどのようにして生まれるか”は知っていても、そこに至るまでの情愛などについては全く知識がなかった。今まで読んできた本に、恋愛ものがなかったのが大きな原因だろう。
今日まで関わってきた人が少なすぎて、恋愛感情どころか、その他の対人感情すらまだ芽生えていないものがある。
秀貴は何か言おうと口を開きかけたが、すぐに口を噤んだ。
すると、竜真が肩から手を離し、秀貴のトレーナーを指差した。
「この服も僕の趣味で、秀貴君に無理を言って着てもらってるんだよね。他の誰にも言ってない事だから、他言無用でよろしくね」
にこにこと笑顔で嘘を吐く竜真に、つぐみは閉口してしまっている。同時に、すごい剣幕で怒っていた彩花も、今はおとなしくなっている。
秀貴は、彩花を一発で黙らせた『付き合っている』という言葉にどんな意味があるのか、訊きたくてうずうずしていた。
この場に居る全員が、各々全く違う事を考えているのだと気付いている者は居ない。
そんな状況の中、彩花が点にしていた目を大きく開き、手で口を隠すようにして大きく息を吸った。
「そうだとは知らずに、わたしったら……! 環境は厳しいかもしれませんが、わたしでお力になれる事がありましたら、何なりとお声がけください! わたし、応援しています!」
「わあ。ありがとう、彩花ちゃん。親にも言ってないから、絶対に人には言わないでね」
二度目の口止めをして、竜真はケーキの続きを食べるよう、彩花に促した。心なしか、彩花の瞳は輝き、頬は紅潮している。
つぐみも食事を終えたので、秀貴は三人分の食器をまとめた。
「秀貴、皿とフォーク三人分持ってきてくれ」
「洗い物は僕がするから、置いといてね」
つぐみと竜真の声に、まとめて「はい」と答える。
彩花から先刻とは違う眼差しを向けられつつ、秀貴は台所へ向かった。
秀貴の居なくなった居間では、彩花がつぐみに顔を寄せ、感嘆の息を漏らした。
「つぐみちゃん、わたし、男性同士のカップルを初めて見ました」
「あー、あたしも初めて見たぜ……」
つぐみは半眼で口元をひくつかせている。
「え、つぐみちゃんも知らなかったの?」
彩花が驚くのも無理はない。竜真とつぐみの仲の良さは、彩花どころか町中が知っている。そんな兄妹間で共有されていない話題があることは、彩花にとって意外だった。
そして、今のが竜真の嘘だと気付いているつぐみは、取り敢えず竜真に話を合わせた。
「ほら、いくら兄妹でも、やっぱ気まずいもんじゃね?」
彩花も彩花で、それもそうよね、と納得したようだ。
そうこうしていると、皿とフォークを三人分持った秀貴が戻ってきた。
つぐみが、白い箱を開いて中を秀貴に見せる。
「秀貴が家族になった祝いだ! 好きなの選べ!」
そういった趣旨のケーキかは定かではないが、買ってきた本人がにこにこと笑って頷いているので、秀貴は中身を覗き込んだ。
ショートケーキ、チョコレートケーキ、あと卵色に似たケーキがある。秀貴は心の中で、緑色のケーキはもうないのかと気持ちを落としたが、表面がピカピカ光っているケーキを選んだ。
“ケーキ”といえば、ショートケーキとチョコレートケーキしか知らない秀貴。しかも“ケーキ”を食べたことがない。誕生日の定番だと何かで読んだことがあるものの、口にする機会には恵まれなかった。
祝い事といえば赤飯。甘味といえば、団子や柏餅、桜餅、たい焼き、最中など、和菓子ばかりだった。口にした事のある洋菓子といえば、プリンやカステラくらいだろう。
(色はカステラと似ているけれど、これは何というケーキなんだろう)
見た目だけでは味の想像ができない。
するとつぐみが「秀貴はチーズケーキが好きなのか?」と訊いてきたので、これが“チーズケーキ”なのだと判明した。
食べて、味だけで何のケーキか当ててみようと密かに思っていた秀貴は、少し落ち込んでいる。
「……ケーキ自体初めてなので……好きかどうかは、まだ……」
「ケーキ、初めて召し上がるんですか?」
嫌味にも取れるが、彩花にとっては何気ない質問。彼女の口調や様子からも、嫌味は感じない。
「クリスマスやお誕生日のお祝いは何を召し上がるんですか?」
「クリスマスは、イエス・キリストの生誕祭でしたよね。サンタクロースという老人が子どもたちにプレゼントを配るのだという事は把握してあります。誕生日は毎年赤飯を頂いていました」
秀貴も事実を話す。クリスマスに特別なことはしなかったし、誕生日は献立が少し豪華になっただけ。それが、秀貴にとっての“普通”だったので、何とも思わない。
昭和ももうすぐ六十年が来ようとしている。日本経済は右肩上がりが続き、景気も良くなってきている。そんな時代にケーキのひとつも食べたことがない同年代が居ることは、彩花にとって衝撃だった。そして、彼女はこう思った。
(秀貴さんはきっと、とても貧しいご家庭で育ったんだわ)
彩花は秀貴の背景に、奉公少女の『おしん』でも見ているのかもしれない。
「秀貴さん、わたしに出来ることがあればお力になります! 困ったことがあれば言ってください!」
クリスマスや誕生日の話から何故そうなるのか……秀貴にはさっぱり分からない。それでも、彩花から向けられていた敵意に似た鋭さが少しだけ消えたことに、気を楽にした。
「でしたら……困ってはいないのですが、今後僕とも仲良くしていただけると幸いに思います」
「ええ、もちろんです!」
男女の友情らしきものが芽生えた横では、つぐみが口の周りに生クリームをつけてケーキを頬張っていた。
それに気付いた彩花が、フリルのあしらわれているハンカチでつぐみの口を拭く。そして、つぐみはまたすぐに口を汚す。彩花が拭く。
それを何度か繰り返したところで、玄関が開いた。入ってきたのは、黒髪にサングラスの男。黒いスーツを着ている。
「彩花様、そろそろ帰りませんと……」
「あら、チャイムも鳴らさずによそ様のお宅へ入ってくるだなんて、一体どういう教育を受けているのかしら」
微笑みながらつぐみの口を拭っていた人物だとは思えないほど、冷たい声だった。
「あまつ、わたしの大切なお友達の前で真っ黒いサングラスをかけたままだなんて。許されると思っていますか?」
ゆら、と彩花が立ち上がった時――開いていた玄関から、人の叫び声が飛び込んできた。
「火事だー!」
「誰の家!?」
「王さんとこだってよ!」
と、騒がしい。
火事は近い。今日、秀貴たちが歩いた商店街の方へ、人が流れていく。
秀貴が気付いた時には、竜真とつぐみも飛び出していた。靴を履く瞬間すら、よく見えなかった。
彩花は草履を履き、
「秀貴さんも行きましょう」
と手招いた。
「あの、えっと……すみません。僕、走るの……苦手で……」
家から五十メートルも離れていない場所で、秀貴は盛大に転んだ。
足をもつれさせたのだ。初めて走ったのだから、仕方がない。彩花はそんな秀貴を嗤わず、背に負ぶっていた。
「そんなに細い体ですもの。急に動くと、体を痛めてしまいますよ」
彩花さんも充分細いですよね、と秀貴は思ったが、声に出せなかった。細いとはいえ、秀貴の身長は彩花と同じくらいある。秀貴は自分の体重を知らないが、四十キロくらいはあるはずだ。
その秀貴を背負って、彩花は野次馬に向かう人々を軽々と走り抜いていく。
「早くしなくちゃ、見逃しちゃう……! 秀貴さん、しっかり掴まっていてくださいね!」
言うが早いか、彩花の速度が増した。
秀貴が彩花から降りた時、商店街の中華料理屋から黒い煙がもくもくと立ち昇っていた。風もある。隣の精肉屋に、火が燃え移りそうな勢いだ。
「屋根が落ちた方が保険金が沢山貰えるとか言うなよ! すぐに消してやっからな!」
火の粉が舞う中、仁王立ちをして叫んでいるつぐみ。
その姿を、彩花は指を組んでうっとりと眺めている。着物に火の粉が落ちようと、気にもしない。
そんな彩花の横顔から視線をつぐみに戻すと、彼女は囂々と燃えている住宅兼店舗へ飛び込んだところだった。