10.居れば会いたい、妖怪
「たっだいまー!」
つぐみが帰宅した時、外は茜色に染まっていた。外の寒さなどなんのその。つぐみは元気いっぱいで台所へ突入した。
そこで目にしたのは……、
「あ、お帰り。手を洗っておいで」
いつものように柔和な笑みを湛えている竜真と、
「おかえりなさい……」
涙をボロボロこぼしている秀貴だった。
対照的なふたりの表情を何度か見返し、つぐみが半眼になる。
「兄貴、秀貴に何したんだよ。まさかイジメてたんじゃねーだろうな」
「僕は何もしてないよ」
「すみませ……僕が、軟弱なばっかりに……」
「いや、どんな屈強な男でも、玉ねぎには勝てないよ。多分」
秀貴の手には、包丁と玉ねぎ。もう少しで切り終わるという量が、まな板に乗っている。
「秀貴君がね、ご飯を担当してくれるんだって。といっても彼も料理をするのは初めてだから、取り敢えず今日はご飯を炊いて、味噌汁を作ってくれてるよ」
竜真からは包丁を扱えるのかと心配された秀貴だが、勿論、触ったことすらなかった。それでも、鉛筆を削るのにナイフは使っていたし、料理本も読んだことがある。
包丁に関しては、切るものを押さえる手は指を伸ばさず猫のような形にするだとか、包丁の動く方向へ手を持っていかないだとか、基本的な扱い方は頭に入っている。
料理の作り方はさすがに全て覚えていないが、よく食べていたものは料理本で作り方を見ていたし、記憶にも残っている。中でも、味噌汁は比較的簡単そうなので挑戦してみたのだが……。
「硫化アリルがこんなに手強いとは思いませんでした」
玉ねぎに惨敗してしまった。ぐすぐすと涙を拭い洟をかむ秀貴に、つぐみは瞼を半分落としたまま言う。
「お前の鼻水が入った味噌汁は食いたくねーからな」
ひどくショックを受けた秀貴だったが、入ってないから大丈夫だよー、と竜真がフォローを入れた。
なんとか残りの玉ねぎを切り倒し、気を取り直して調理を続ける。
鰹節でとった出汁の中へ玉ねぎを入れ、火を通す。くし切りにした玉ねぎが半透明になったらワカメを加え、ひと煮立ちさせて火を止め、味噌を溶いて加えた。
「わあ、すごい。インスタントじゃない味噌汁なんていつぶりだろう」
竜真が手を叩いて喜んでいる。
「味噌汁に含まれる塩分は、高血圧に影響がないらしいです。あと、お野菜のカリウムが塩分の排泄を助けてくれるのだそうです」
玉ねぎもワカメもカリウムの含有量が多い。
つぐみは目をパチパチさせている。
「秀貴は学校行ってねーのに、色んなこと知ってんな」
「本に教えてもらっただけなので、本当かどうかは分かりませんけどね」
はにかむ秀貴。
ふたりが話している間に、竜真は買ってきた惣菜を居間の卓上に並べ終えていた。
「ちょっと追加で買いたいものがあるから、出てくるね」
と、財布を持って出かけてしまった。それと同時に、炊飯器が米の炊き終わりを告げる。
秀貴は竜真を待ってから、と思ったが、つぐみがもう器に白米や味噌汁を装っていた。それらと箸を卓上に並べていると、竜真が帰ってきた。手には、四角い白い箱。
竜真は一度台所へ消え、手ぶらで居間へやってきた。
つぐみが、何を買ってきたのか聞いたが「良いもの」としか返事がなかった。つぐみは少しムッとしたが、箱の形状から“なに”が入っているのかは大体察しがつく。自身は腹が減っているので、真っ先に食卓へついた。
三人揃って、いただきますと手を合わせる。
つぐみがテレビのリモコンへ手を伸ばすも、物言わぬ箱となった家電を見て、そっと手を引っ込めた。
「……すみません……」
秀貴が泣きそうな顔で俯いた。
これ以上泣いては体内の水分が干からびるのでは、と竜真は味噌汁をひと口飲んで、少々わざとらしく明るい声を発する。
「この味噌汁、とっても美味しいよ!」
そのひと言で、目と鼻を赤くして俯いていた秀貴に笑顔が戻った。
つぐみも「うめー!」と喜んでいる。それを見て、秀貴も胸を撫でた。
「ところで、つぐみは今日何をしていたんだい?」
「彩花の部屋で宿題してた」
「それはご苦労様。彩花ちゃんっていうのはね、つぐみの幼馴染でね。つぐみは放っておいたら勉強をしないから、見張ってもらってるんだ」
「幼稚園の頃から一緒なんだぜ!」
ふたりが“彩花”について説明してくれる。
今日は昼食時以外ずっと一緒に居たらしい。よほど仲が良いのだろう。
秀貴は首を斜めに動かし、瞬きをしてからひと言。
「あやかしさん……ですか?」
「妖怪じゃねーよ! 人間だよ!」
「『彩』る『花』って書いて『彩花』だよ。綺麗な名前だよね」
竜真が、総菜のコロッケにソースをかけながら言った。
「そうでしたか。それは失礼なことを言ってしまいました。僕は未だ妖怪に出会ったことがないので……お恥ずかしながら、少し期待してしまいました」
竜真とつぐみの動きが、ピタリと止まった。だが、頭と眉を下げている秀貴は気付いていない。
秀貴が白米を口へ運び、顔を上げた時、玄関のチャイムが鳴った。
電子的な音に続いて「ごめんください」と、風鈴を思わせる声が聞こえてきた。