8.初めての街とすれ違い
靴――というものを、秀貴は履いたことがなかったらしい。
身長も三十センチほど違うので、当然脚の長さもかなり差がある。そんな秀貴の歩調に合わせて、竜真は歩いている。
今、秀貴が履いているのは、竜真が中学生の時に他所行き用にしていた靴。女物のトレーナーは母親のもの。化粧道具も拝借した。そして、宣言していたとおり秀貴とは手を繋いでいる。
秀貴は言いつけを守れない子どもではないが、初めて街へ出て、初めて店へ行くのだ。注意散漫になってしまうだろう。初めての場所というものは、誰でも興奮するものだ。それを叱るわけにもいかない。
「八百屋さん、魚屋さん、お肉屋さん……たくさんお店が並んでいるんですね」
手を繋いだまま、きょろきょろと周りを見回す秀貴。
(本当に初めてなんだな)
竜真は不思議な気持ちになっていた。十五歳になるまで一切外へ出たことのない人物が、本当に居るんだなと。
何を見ても目を輝かせている姿を見ていると、少しばかり罪悪感が湧いてきた。
竜真は元々、秀貴を預かることに賛成していたわけではない。秀貴の性別が男だと分かると、余計反対した。
家にはつぐみという、年頃の娘が居るのだ。素行はあまり褒められたものではないが、竜真にとっては大切な妹。そんな妹の居る屋根の下に、他の男が入ってくるなど受け入れ難かった。
聞けば、特異な体質のせいで周りに危害が及ぶかもしれない……とのことだ。尚のこと、そんな奴は相手にせず、野垂れ死なせておけばいいと思った。思っていた……が。
(実際、見ちゃったら抛っておけないんだよなぁ……)
親から受け継いだ血がそうさせるのか、今は、出会って間もない新しい家族を守らなければという気持ちが強まっている。
(まだ出会ってたったの数時間なのに)
思わず笑いが込み上げる。
それを、はしゃいでいるのを笑われたのだと勘違いしたのか、秀貴は「すみません」と小さく謝って俯いてしまった。
「ごめん、ごめん。君を笑ったんじゃないよ。ただの思い出し笑いだから、気にしないで」
安心したのか、琥珀色の瞳が控えめに見上げてくる。それは、妹のつぐみには無い、しおらしいものだった。
養護心が一気に膨らむ。
秀貴がもし本当の女の子だったなら、これを恋心だと勘違いしていたかもしれない。
そして、今ので確信した。このままでは危険だ。
(こんな小動物みたいな子を、荒くれ者の集まる高校へ行かせるわけにはいかない……!)
早急に、彼の肉体改造をしなければ。
「秀貴君」
「はい」
「いっぱい食べて、しっかり鍛えて、筋肉つけようね!」
真意はおそらく伝わっていないだろうが、秀貴からは「はい」と元気な返事があった。
「竜真君じゃん! お久ー。元気? 今何してんの? それ、新しい彼女?」
ソバージュ頭で化粧の濃い女が話し掛けてきた。竜真の、高校時代の同級生だ。
「久し振り。僕は元気だよ。明美も元気そうだね。この子は、僕の新しい弟だよ」
秀貴は驚いた表情で竜真を見上げ直してきた。『弟』と言われたことに対するものか、はたまた、女装までしたのにすんなり“男”であると明かしたことに対するものか。あるいは、その両方か。
そんな秀貴は見て見ぬふりをして、竜真が続ける。
「この子、服が無いからこれから買いに行くとこ。で、僕は彼女も居ないし、イイ子が居たら誰か紹介してよ」
「んじゃさ、今度合ハイおいでよー。でも、アンタ来たら女かっさらって行くから他の男カワイソー」
ケタケタとよく笑う女に対しても、竜真はいつも通りの笑顔。適当に世間話をして女と別れると、秀貴がおずおずと口を開いた。
「……僕は、何故女装をしているのでしょう?」
「あぁ、パッと見男女に見えれば、手を繋いでいても怪しまれないし、知り合いに出会ったら本当のことを言った方が怪しまれないでしょ?」
男兄弟で手を繋いでいるのは“おかしい”のかもしれないが、『新しい弟』と言えば事情が複雑なのだと察してもらえる。事実、慣れない土地だから手を繋いでいるだけなのだ。変に勘ぐられても、真実を言っているのでやましい事はない。
「……すみません」
何故謝られるのか。竜真は首をかしげた。
「何で?」
「あの……人と接するというのは、何というか……とても……、色々と、考えなければならないのですね」
「あー……まぁ、最低限のことはねぇ。そういえば、秀貴君は街を歩くの初めてなんでしょ? 今までどんな生活をしてたの?」
大まかには両親から聞いている。生まれた時に実母と産婆を心臓麻痺で死なせてしまったのだとか。その体質の為に、十五年間は離れに住み、ひとりきりだったのだとか。実父とも年に一度しか顔を合わせることがなかったのだとか……とか。
実際、今確認してみても、秀貴の口から断片的に語られる生活の様子も合致している。
彼の話によると、今まで生活の世話をしてくれていた女中の存在は特に大きそうだ。
(よくそれで乳児期を生きてこられたものだな、とは思うけど……。つまり、今まで生きてきて話した人数は片手で足りるくらいかな?)
にわかには信じ難いが、そういうことだろう。
(話し方や教養がしっかりしているのは、きっと女中さんがしっかりしていたからなんだろうな)
手本となる人物が居なければ、こうはならないはずだ。
そういえば、彼の居た場所には本が沢山あったと両親から聞いている。
「秀貴君は、今までどんな本を読んでたのかな?」
本の話題を持ち掛けられたからか、秀貴の眼が少し大きくなった。しかし、口がパクパクしているのみで音が伴わない。
少し待って聞こえた声は「色々です」だった。
もう少し待つと、指を折りながら「童話や、その他の小説、小・中学校の教科書、図鑑や辞書に料理本、医学書……」と、次々色んなジャンルが告げられた。どうやら、何から言うべきか考えていた“間”だったらしい。
「教科書を読んでいたなら、学校の勉強もバッチリだね」
「内容は把握していますが、通用するかはまだ……。あと……、出来ていない教科もあって……」
秀貴の顔が少し赤みを帯びる。目も逸らされた。
口に出しにくい教科といえば……、
「保健体育?」
秀貴の目が見開かれた。
「何故分かったのですか?」
「いや、そりゃ……まぁ……」
男子は大好きなんだけどねぇ。と思ったが、声には出さなかった。
秀貴は相変わらず、もじもじしている。
「お恥ずかしながら、僕はまだ経験がなくて……」
「いや、君の年ならそれが普通だろうし。恥ずかしがることじゃないよ」
「え……そうなのですか?」
何故か、意外そうにしている。
「僕の読んでいた本では、授業中みんなで――」
「いや、待って! それ何ていう本!?」
とんでもない話題を持ち掛けられ、竜真は思わず大声を上げていた。
秀貴は、何故竜真が慌てているのか全く理解出来ていない様子だ。きょとんとしている。
「僕の記憶では、小学一年生の教科書です。みんなで楽しそうにしていましたけど……“かけっこ”を」
「かけっこ!!!」
「はい。僕、走ったことがなくて……」
竜真にとって、予想外の答えが返ってきた。同時に、穢れきっていた自分の思考を恥じた。
聞けば、とんだりはねたり、物を投げたこともないと言う。勿論、泳いだこともない。一日中座ってばかりでは体を壊すからと、一日一時間から二時間は体をほぐしたり、本を読みながら歩いていたのだと秀貴は語った。
(軽い気持ちで『筋肉を付けよう』って言ったけど……この子ちゃんとついてこられるかな……)
竜真の通っていた高校において、体力テストは重要だ。いくら見た目だけ取り繕っても、実際に逞しくなければ生き残れない。
三か月でどうにか……せめて、中の中くらいには育てたいものだ。
本物の不良ならば、体力テストなどサボれば良いだろう。しかし、竜真はそれを許すつもりはない。
(お金を払って通う以上、サボリは論外だよね)
となれば、本気を出すしかない。
竜真はひそかに闘志を燃やし始めていた。