花火大会にて
カラン、とドアのベルが鳴る。
「いらっしゃいませ!」
「こんにちは、ユイちゃん」
「おじいちゃん! ご無沙汰してます」
ニコニコと笑うおじいちゃんは、店主だからつまり店長なんだけど。堅苦しい呼び方は嫌だと言われ、今まで通り、おじいちゃんと呼んでいる。
「バイトしてくれて、いつも助かってるよ」
カウンターに座るおじいちゃんにお水を出すと、そう労ってくれた。
「私こそ、ありがとうございます。このお店が大好きなので、働けて嬉しいです!」
「いやいや。ユイちゃんはもう孫だからね。ここで働いてくれたら助かるし、安心だ」
働き始めて四ヶ月ほど経つが、会う度に孫と呼んでくれるのは、少しくすぐったい。
働き始めの頃は、お店を改装してくれたことや、私を雇ってくれたことについて、迷惑をかけたのでは……と心配したけれど、おじいちゃんもタカトさんも、好きでやったことだからと言ってくれた。
おじいちゃんが「書店だとコーヒーを飲むにも気を遣うけど、喫茶店なら気兼ねなく飲めるから」と言うのを聞いて、私はいつまでも気にするのをやめた。
私が笑顔でありがとうと言うと、二人がニコニコしていたので、やっぱり、ありがとうで正解だったみたい。
「もうすぐ夏休みだろう? もう予定は決めた?」
「なんでじいさんがユイちゃんの予定を聞くんだよ」
「いいじゃないか。年寄りの楽しみだよ」
「絶対嘘だろ。僕の予定を聞いたこと無いじゃないか」
「タカトの予定を聞いてもなぁ……」
「……そういうところだよ、じいさん」
私と話すときより少し幼い印象になる彼に、ドキッとする。これが好きってことだと思う。毎日どんどん好きになって、好きの最大値を更新し続けてどうしよう。
「やっぱり海とか行くのかな?」
ぼんやりと二人のやりとりを眺めていたら、おじいちゃんがこちらを見た。びっくりした。
「私、あまり人が多いところが、得意じゃなくて……」
「夏のイメージを押し付けるのはやめろよ、じいさん。僕もユイちゃんも、人が多いところは好きじゃない」
言い淀む私に、彼が援護してくれる。優しい。
「予定は二人で考えるから、じいさんは気にしないでくれ。というか、放っておいてくれ」
「そうか……寂しいな」
おじいちゃんの顔に、か細くてくしゃりとした文字が浮かぶ。本当に寂しそうで、咄嗟に口を開いた。
「あの、花火を見に行きたいと思ってます!」
私の言葉を聞いた彼が、何とも言えない顔をした。これは、見たことない顔だな……。
「花火! 花火かぁ。夏らしくて、とても良いね」
おじいちゃんの顔には、柔和な文字が浮かんだ。反対に彼の顔は、なんだか渋い顔をしている。なぜ?
「ユイちゃん、ありがとう。また来るよ」
残ったコーヒーを飲み干したおじいちゃんがカップを置いて席を立つ。その顔には踊るような文字が浮かんでいて、とても楽しそうだ。
そもそもおじいちゃんが店主なんだから、私に断らなくても、いつでも来れば良いと思うんだけどな?
カウンターを拭いていると、彼の声がかかる。
「ユイちゃん、花火が見たいの?」
「あの……好きな人と花火を見に行くの、昔から憧れで」
「そっか。じゃあ、見に行こうね」
柔和に笑う彼の顔に、私もつられて、にこりと笑った。
「じゃあ浴衣買いに行かなきゃ」
晩ごはんを食べながら、花火を見に行く話をした私に、お姉ちゃんが言った。
「花火大会と言えば浴衣、浴衣と言えば花火大会。浴衣無しに花火大会の思い出は語れないよ。最高に可愛い浴衣を選んであげるから、安心してね!」
柔和な文字を浮かべるお姉ちゃんの顔は、たぶんすごく笑顔なんだけど、言ってることはよくわからなかった。
「なんで浴衣なの?」
「彼氏彼女で花火大会に行って、浴衣だったときと浴衣じゃなかったときで、テンションの上がり方が違う」
きっちりと丁寧に書いたような文字は、スン……とした顔。
「そ、そうなの……?」
「まだよくわからないと思うけど、ここはお姉ちゃんに任せて、浴衣にしておきなさい」
ぽんぽん、と肩を叩くお姉ちゃんの声には、なんだかよくわからない重みがあった。私はよくわからないまま、首肯した。
カランコロン、と下駄が鳴る。
お姉ちゃんが着付けてくれた浴衣は、濃紺に鮮やかな赤い花が描かれた古典柄の浴衣に、山吹色の帯を締めてくれた。とても可愛いけど、やはり洋服に比べると歩きにくい。足が全然前へ出せないので、一歩がすごく小さい。昔の人はよくこの状態でたくさん歩けたな?
待ちあわせまでの道のりを、一人歩く。カランコロン、カランコロン、下駄の音は軽やかだけど、これも慣れてないから、とても歩きにくいのだ。
遅刻したくないからいつもより早めに出たけど、本当に時間ぴったりくらいに着きそう。浴衣ってたいへんなんだな。
下駄は靴と違って、しっかり足を入れてはダメらしい。ひっかける? つっかける? 感覚で履かないと、足を痛めるそうだ。
知らなかった。道理で小さい頃、下駄を履くたびに足が痛くなったわけだ。
浴衣を着て下駄を履いたのなんて、たぶん幼稚園ぶりだ。昔から人混みは苦手だったけど、小学校に入る前に相貌失認と言われてからは、堂々と人の多いところは怖いと言えるようになった。
花火は綺麗だけど、それに至るまでの道のりが、ちょっと……。人、人、人の混雑の中、ひたすらいろんな文字を見るのは疲れてしまうので。
それでも、好きな人と見る花火は諦められなかったんだけども。彼が快諾してくれて、本当に良かった。
待ちあわせ場所には、やはりというか、既に彼が居た。ベンチで本を読んでいる。
「タカトさん」
声をかけて近寄ると、彼は読んでいた本から顔を上げた。私を見て、ぱっと顔を綻ばせる。
「ユイちゃん。浴衣、すごく似合ってる。僕も浴衣にすれば良かったな。こんな格好でごめん」
そう言って眉を下げる彼は、今日もややダボっとした白いリネンシャツに、ネイビーのテーパードパンツ、足元はチャコールのスリッポンスニーカーで、清潔感のある、いつもの感じだ。
「謝らないで。今日も清潔感のある服装で素敵だよ。それに、浴衣って思ってた以上に動きにくくて、たいへん。すごく歩きにくいの。タカトさんがいつもどおりの服装で、ちょっと安心した」
「そっか。大丈夫? 疲れてない? いつもよりゆっくり歩くね」
大きな手が差し伸べられる。そっと手を重ねると、ぎゅっと握り返された。
「じゃあ、行こうか」
そう言って歩き出す彼の足が向いているのは、改札と反対方向で。
「タカトさん、電車じゃないの?」
「……ごめんね。ちょっと予定が変わって」
手を引かれるまま問えば、彼が少し苦い顔で答えた。予定が変わった……ということは、違う花火を見に行くんだろうか?
彼と花火が見れたらそれで良い私は、それ以上追求することもなく、おとなしく彼の後をついていく。
いつもよりゆっくり歩いてくれてるし、手を繋いでくれてるから、さっきより安定して歩けている。優しい。
改札と反対方向へ歩き、駅ビルを抜けて、なんだか綺麗なエレベーターホールに辿り着いた。
「急なことで申し訳ないんだけど」
エレベーターへ乗り込みながら彼が口を開く。私は、エレベーターホールが綺麗なら、エレベーターも綺麗なんだなぁ、なんて間抜けなことを考えていた。
「この上から花火を見ようかと思うんだ」
彼が押したのは、最上階のボタン。ドア上部のフロアガイドを見ると、バーラウンジと表記されている。よくわからないけど、高層階だし、景色は良さそう。私は頷いて答えた。
ポーン、という到着音と共にドアが開く。その向こうには、私が見たこともないような、高級感溢れる空間が広がっていた。
「えっ?」
私は思わず彼の左腕に縋った。そんな私を見た彼は小さく笑ってから、ゆったりとエスコートした。
「驚かせてごめん。そんなに身構えないで」
「でも、私、こんな格好で……」
そうなのだ。浴衣とはあくまでもカジュアルな服装だから、フォーマルな店には向かないとお姉ちゃんが教えてくれた。つまり、この高級感溢れるお店のドレスコードに引っかかってしまうのでは?
「大丈夫。今日は特別なんだ。それを言うなら、僕の方こそアウトだよ」
言われてみれば、そうかも……? と混乱してる間にも、足は進む。
「須藤様、お待ちしておりました」
廊下を進んだ先の入口で、かっちりしたスーツを着た男性が声をかけてきた。私は驚いて、少し飛び上がった。
「無理を言って悪いね」
「とんでもない」
二人のやり取りを眺めながら、男性へ会釈しておく。私を見た男性は、柔和な文字を浮かべた。
「お席へ案内いたします」
男性に先導され、恐る恐る店内を進む。店内は大きくガラス張りになっており、外がよく見えた。今は綺麗な夕日が見えている。
なんか、天井にすごく綺羅びやかなシャンデリアがかかってる。主張しすぎないBGMは、なんと店内のピアノで生演奏だ。
……知らない世界を垣間見た気分。ドラマとかで見たことあるけど、本当にあるんだ、こんな世界。
「こちらです」
ぼーっと店内のいろんなものに感心してる間に、どうやら席に案内されたようだ。
それは少し奥まったところにある、小さなソファ席だった。背の高い観葉植物で周囲と区切られており、ちょっとした個室感がある。窓へ向かって座るようになっていて、なるほどたしかに、ここなら座りながら花火が見られそうだ。
「エアコンが当たりやすい位置はある?」
「こちらの座席ですと、冷えすぎないかと」
「じゃあ、ユイちゃんはこっちね」
ぼんやりしてる間に、冷えすぎないらしい方に座らされた。私の冷え対策まで考えてくれて、やっぱり優しい。
「アミューズをお持ちします。お飲み物は何になさいますか?」
「飲みやすいものを、ノンアルコールで」
「畏まりました」
アミューズって何? お楽しみ? と思ってる間に、会話は終わってしまった。ソファ席に、二人きり。
「この場合のアミューズっていうのは、日本料理で言うところの、突出しのようなものだよ」
「そうなんだ。お楽しみって、何かと思った」
「たしかにそう考えると、面白いね」
ふふ、と少し細められた彼の目は、やっぱり綺麗だった。
「ここは花火大会の日だけ、バーだけじゃなくてレストランになるんだ。ドレスコードもかなり緩くなる。まぁ、同じ系列のホテルレストランが出張してるだけなんだけど」
「へ、へー。すごいね」
知らない世界の話に、何と返事すれば良いか、さっぱりわからない。
「突然ごめんね。驚いたでしょ? ユイちゃんが花火を見たいって言ったのを聞いたじいさんが、張り切ってさ……ここの予約取って、譲ってくれたんだ」
「えっ? おじいちゃんが?」
私への甘やかしがすごい。
「思ってた花火大会と違ったら、ごめん」
「そんなことない。正直、浴衣で人混みは難易度高いと思ってたから、すごく嬉しい。でも、こんなに良くしてもらっても私、何も返せないのに……」
「じいさんは孫を可愛がってるつもりだから、そのままありがとうって言えば喜ぶよ」
彼が茶化すように言うから、思わず笑ってしまう。
「そんなことで良いの?」
「良いんだよ。勝手に押し付けてきて、有難迷惑だと断られても仕方ないレベルだ」
くすくす二人で笑っていると、アミューズから始まり、コース料理が運ばれてきた。ドリンクはさっぱりとしたグレープジュースだった。
「美味しい〜〜!」
「本当に。じいさんに感謝だな」
私は最初の緊張もどこへやら、夢中になって料理に舌鼓を打った。どれもこれも、本当に全部美味しかった。
来たときには夕日だった空もだんだん暗くなり、もうすぐ花火の始まる時間だ。
「どうしよう。メインの花火が始まる前から、既に幸福度が満たされてる」
「それはたいへんだ。これからもっと幸福度が上がるのに?」
「たいへん! もっと幸福になってしまう!」
「では、もっともっと幸福になってもらいましょう」
彼にそっと抱き寄せられ、二人で寄り添うように窓の外を眺める。ガラスには、柔和な顔をした彼と、少し頬を染めながらも幸せそうな顔をした私が写っていた。
ドン! と打ち上げられた花火が、パン! と弾ける。たくさんの花火が打ち上げられ、夜空を美しく彩った。きらきら、きらきら、色とりどりの花が咲いたよう。
「タカトさん、見て! 小さい花がたくさん!」
「あれは千輪菊だよ」
「じゃあ、あのいろんな種類がいっぱいのやつは?」
「あっちはスターマインだね」
この人もしかして知らないこととかないのでは? と思ってしまう瞬間である。
「タカトさん、すごいね。私、花火すごい! くらいしかわからないよ」
「それは……ユイちゃんに、いいところ見せたくて」
見上げた彼の顔は、ほんのりと赤くなっていた。照れてる?
「エアコンで冷えないよう気を遣ってくれたり、アミューズの意味教えてくれたり、いつもかっこいいのに? まだかっこよくなるの?」
「好きな子には、いつだっていいところを見せたいのが男心ってやつなんだよ」
少し困ったように笑う彼に、胸がときめく。
「いいところが見られなくても、優しいタカトさんが好きだよ」
真っ直ぐに彼を見上げて言うと、彼は少し驚いた顔をしてから、柔らかく笑う。
「僕も、僕のために浴衣を着てくれたり、急な予定変更でも怒ったりしない、優しくて可愛いユイちゃんが好きだよ」
「りょ……両想い、だね」
笑って言いたかったのに、うまく笑えなかったし、恥ずかしくて俯いてしまう。こういうときって、どんなこと言えば良いの?
真っ赤になった私の頬に、彼の大きな掌が添えられる。俯いていた顔を上げると、私を見る彼の目は怖いくらい真剣で、どうすれば良いかわからず、ぎゅっと目を瞑った。
唇に柔らかいものが触れて、すぐに離れていく。
「!」
驚いて目を開くと、目の前に彼の顔。えっ?
「あの……、タカトさん、」
「……嫌だった?」
「や……じゃ、ない」
「良かった」
ほっとしたように顔を緩める彼に、心臓が痛いくらいドキドキしている。
「もう一回してもいい?」
彼の指が私の唇をなぞる。数瞬遅れて、その言葉の意味を理解して、心臓が更に早鐘を打つ。驚きと恥ずかしさが込み上げて、だけど決して嫌じゃない。
彼に嫌じゃないことを伝えたくて、私の唇をなぞる彼の手に、そっと手を重ねる。
「……もう一回、だけ、なの?」
じっと彼の目を見て伝えてから、震える瞼を閉じる。彼が小さく息を飲む気配のあと、唇に柔らかいものが、何度も、何度も重なる。優しくて、温かくて、彼の人柄を表すようなキス。
ふわふわする。キスってこんなに幸せな気持ちになるんだ。胸が、いっぱいになる。
息っていつまで止めてたら良いの? そろそろ息継ぎしたいけど、鼻息が彼にかかったら……と思うと、気になってできない。
ぐるぐる考えてたら酸欠になって、ぐらりと体が傾いだ。倒れる前に、彼が抱きとめてくれる。
「ごめんね、調子に乗っちゃった」
浅く呼吸を繰り返し、息を整える私に、しょんぼりと眉を下げた彼が言う。
「だ、いじょ、ぶ。わた、し、こそ、ごめん、ね。慣れ、て、なくて」
くたりと力の抜けた体を彼に預けて、息が整うのを待つ。そっと前髪を整えてくれる大きな手は、とても優しい。
「花火、終わっちゃった……」
「綺麗だったね」
「また来年も、一緒に見たいな」
そっと彼を見上げると、優しく笑ってくれた。
「勿論。来年は僕も、浴衣を着てみようかな」
「本当に?」
「今年は僕がユイちゃんの浴衣にドキッとしたから、来年は僕の浴衣にドキッとしてくれる?」
「ドキッとしすぎて私の心臓が止まったら、心肺蘇生してね」
こつんと額を合わせて、来年の話をしながら、二人で笑う。来年もこんなふうに二人で、笑って過ごせたら良いな。
イメージしてた百倍くらい高級感があって快適な、花火大会だった。私はもしかしなくても、ものすごい彼氏と付き合っているのでは……?