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仲良くなるための努力

 生まれて初めて、自分以外の顔を見た。


 筆舌に尽くしがたい衝撃だった。正直、自分の人生で自分以外の顔を見られるとは思ってなかった。これが本当の、まさか!

 とにかく背が高い印象が強すぎて、あんまり顔を見られなかったのが残念……いや、そもそも知らない人の顔をじっと見つめるのも、失礼な話なんだけど。


 気づけば私は、自宅のダイニングに居て、いつの間に会計したのやら、彼に取ってもらった本は、きちんと紙袋に包まれていた。

 会計……してもらった、んだよね?

 いつものおじいちゃんは居なかったけど、どうしたんだろうか。混乱しすぎてて何も聞けなかった。


 本を開いても一頁どころか一行も読み進められないまま、彼のことを思い浮かべる。

 聞き逃してしまいそうに小さな声、壁かと思うくらい大きな体、ふわりと漂ってきた知らない洗剤の匂い。



「ただいまー、って、あれ。今日はユイの方が早かったのか」

「おかえりなさい」

 ぼんやりしていたらお姉ちゃんが帰ってきた。

「ユイ、体調悪い?」

「え、そんなことないけど……なんで?」

 栞を挟んで本を閉じる。見上げると、お姉ちゃんが私の顔を覗き込んだ。

「だって、顔、赤いから」

 ぺたりと額に手を当てられ、言われた言葉の意味に気づいて、かっと顔が熱くなる。

「や、あの、違うの」

 咄嗟に俯いて、無駄とわかりつつも手で顔を仰いでみる。どうしよう。すごく顔が熱い、ということは、きっと私の顔は、真っ赤なんだろう。

「……なんかあった?」

 お姉ちゃんの声が少し低くなった。これは心配してる声。そっと右手を握られる。温かい手が、私の手を包む。

「あの、えっとね」

 温かい手に勇気を貰って、顔を上げた。お姉ちゃんの顔に浮かぶ、か細く震えた文字。きっとすごく心配してくれてる。


「顔がわかる人に、会ったの」

「…………………………え?」

 お姉ちゃんの顔に浮かぶ文字が、震えた線から普通の線になり、やや太字になり、文字そのものが間延びしていく。これは、驚いた顔。

「えぇっ?!」

 やや太字だった文字が、しっかりした太字になり、文字間が気にならない間延びした文字になった。これは、ものすごく驚いた顔。

「まっ……、えっ、ほんとに? 顔、わかったの?」

 私が頷くと、文字は緩やかに元通りになって、いつも通りの顔になった。

「それで、あの……すごくびっくりして、どうしたら良いかわからなくて、でも、ずっとその人のこと、考えちゃって」

 私がしどろもどろに説明すると、お姉ちゃんの顔に浮かぶ文字が、ゆるゆると柔和な文字になっていく。

「そっかー! そうなのか! 良かったねぇ」

 すごく嬉しそうな声と共に、わしわしと頭を撫でられた。全身で嬉しいと表現するような撫で方だ。

「それで赤くなってたんだ?」

 面白がるような声が降ってきたと思ったら、お姉ちゃんの顔には、丸みを帯びた、踊るような文字が浮かんでいた。これは、悪いことを考えてる笑顔だ。


「さて、人生の大先輩である、このお姉ちゃんに、全て話してみなさい?」

 柔和を通り越してこれでもかと丸みを帯びて踊る文字が浮かんだこの顔のとき、お姉ちゃんが納得するまで、長いんだよなぁ。



 私はつっかえながらも今日あったことを全て話し、お姉ちゃんにたいへん祝福された(からかわれた)

「それで? 初めて見る人の顔(・・・)は、どうだった?」

 それはからかうような声色だったけど、顔に浮かぶ文字はとても柔和で。優しい顔をしていた。

「目、が……」

 私は彼の顔を思い浮かべる。

「人と、目が合ったの、初めてだった」

 いつもはそこにある文字をなぞるだけだから、目が合うってこういうことなのか、と感動した。


 初めて見た自分以外の目は、私の目より、色素がやや薄かったように思う。私の目はほぼ真っ黒に近い焦茶だから、あんなふうにキラキラした目があることに驚いた。結構な衝撃である。


「良かったね」

 お姉ちゃんの声も、顔も、とても優しい色をしていた。




 それから、お姉ちゃんに相談しながら、本屋に通った。

 お姉ちゃんのアドバイスに従い、高校生の間は、常連として認識してもらうことを目指した。

 大学生になるまでは、あくまでも一顧客としての認識しか求めなかった。


「普通の大人はね、どんなに好きでも高校生には手を出さないものよ」

 これはお姉ちゃんが私の顔を覗き込みながら、一語一句区切るように告げた言葉。言われてみればその通りだと思ったので頷くと、ゲンナリした声でお姉ちゃんが続けた。

「逆説的に言うと、高校生ってわかってるのにアッサリ手を出す男はクズよ」

 ーーーーーお姉ちゃん、なんかイヤな目に遭ったことあるのかな?

 なんとなく深く聞けなくて、神妙に頷いておいた。



 通い始めて少しずつわかったこと。

 彼の名前、須藤 貴人(スドウ タカト)。年齢、私より二つ年上。店主のおじいちゃんの孫。この辺で知らない人は居ない有名な大学の理工学部に通う大学生。実家を出て一人暮らしを始める条件として、おじいちゃんの手伝いをすることになった、らしい。


 最初は、ぽつりぽつりと、一言、二言のやり取りから。おじいちゃんについて聞くと、意外といろんな話をしてくれた。

 この本屋は完全におじいちゃんの道楽でやっている店だから、利益は求めていないこと。幅広くあらゆるジャンルを揃えているのは、おじいちゃんの趣味であること。おじいちゃんにも私のことは認識されていて、常連として認めて貰っていること。


 第一印象から、彼の声は小さいと思っていたけれど、違った。

 彼の声が小さいんじゃなくて、彼の声が私の耳に届くまで離れすぎていた(・・・・・・・)のだ。

 実際、会計のときに彼がレジ前の椅子に座ると、普通に聞こえた。これは結構ショックだった。

 なんだか思わぬところで、改めて自分の小ささを思い知ってしまい、わりと真剣に落ち込んだ。



 彼のことを聞くばかりでなく、私のことも話した。

 女子校に通う高校二年生であること、読書が趣味なこと、読みたいものが揃うこの本屋がとても好きなこと。お姉ちゃんと暮らしてること。

 彼はただ静かに頷いて私の話を聞いてくれるので、つい話しすぎてしまったと思わなくもない。聞き上手ってこういうことなのか……?

 常連としての会話を逸脱してないかドキドキしながらも、彼との会話をやめたくなかった。会う度に少しずつ、彼に惹かれている自覚があった。




 ふとした瞬間、彼の口元が緩やかに持ち上がるのがとても綺麗で、それを見られると、とても嬉しい。

 ーーーーーこれは、なんの顔なんだろう。


 口端を少し上げて、目元は緩んで……彼の顔を思い出しながら鏡の前で練習してると、お姉ちゃんが不思議がった。

「何してるの?」

「この顔がわからないから、研究してたの」

 たまに彼がこんな顔をしているけど、なんの顔かわからないと相談すると、もしかして笑顔じゃない? とアドバイスをくれた。とても驚いた。

 笑顔の存在は知っていたけど、実際に見るのは初めてだから、わからなかったのだ。私が普段見る笑顔とは、柔和な文字の羅列だから。


「これが笑顔だと気づくの、ユイだからじゃないかな。普通はたぶん、その微妙な変化、見逃すと思うよ」

 ほんの少し持ち上がる口元と緩む目元を再現する私を見ながら、お姉ちゃんが言う。

 もし、そうだとしたら嬉しい、と思ってしまう。今まで人の顔がわからなくて寂しい思いをしてきたのは、このためだったのでは、なんて、思ってしまう。

 私は自分で思ってたよりも、かなりチョロい女みたいだ。


「せっかく練習するなら、もっと満面の笑顔にしよう!」

 柔和な文字が浮かんだ顔を触らせて、お姉ちゃんが笑顔の手本を教えてくれた。口角はぐっと上げる、眦は緩く下がって。

「笑顔の一番大切なことはね、ユイが嬉しい! とか、幸せ! って気持ちを、顔で表すことだよ」

 優しい文字が浮かぶお姉ちゃんの顔は、私にまで嬉しい気持ちが伝わってくるような、幸せな色をしていた。




「前に読んでた本の続編、入ってるよ」

 レジ前を通って店内を歩く私に、本から顔を上げないまま彼がカウンター越しに声をかけた。声に従ってそちらを向くと、綺麗な横顔。

 人の顔に凹凸があることは知っていても、私に見える顔はのっぺり(・・・・)としたものだから、彼の横顔で初めて、凹凸の意味を理解した。

「これだよね?」

 顔を上げた彼の、重い前髪越しに覗く目が、とても綺麗で。思わず見惚れてしまった。

「……違った?」

 返事をしない私を訝しんだ彼が、違う本だったのかと確認する。私は慌てて首を振る。

「ち、違わない、です。ありがとうございます」

 本を持ち上げた彼から、それを受け取る。私が読んでる本、気にしてくれたんだ。


「その作者、文章が読みやすくて良いよね」

 柔らかく持ち上がる彼の口端に、緩む目元。私も嬉しくなって、つられて口元が、というか、顔が緩む。

「丁寧な描写がわかりやすくて、好きなんです」

 ちゃんと笑えてるだろうか?

 あれだけ練習したはずなのに、なんだか上手く笑えてる気がしない。そっと彼の顔を確認すると、目を丸くしていた。

 えっ、なんで? なんか違った? 何か失敗してる?


 私が混乱していると、カウンターの向こうから彼の手が伸びてきて、私の頭を撫でた。

「驚いた。初めて笑ってくれたの、嬉しくて、びっくりして、変な顔しちゃった。ごめんね」

 穏やかな声色に、優しい笑顔。

 私は嬉しくて笑顔になった。それを見た彼も、柔らかく笑みを深めた。


 私はこうして、笑えるようになった。




 それからも私は、彼と交友を深めた。もちろん、あくまでも常連としての範囲を逸脱しない程度に。

 レジのとき少し話をして、試験前にはオススメの参考書を教えて貰って、お礼にお菓子を持っていったり、それをカウンターに並べて一緒に食べたり。

 お菓子については、おじいちゃんとも一緒に食べてたから、常連の範囲内……のはず!


 お互いに面白かった本を勧め合ったり、読んだ感想を言い合ったり、やっぱりお菓子を一緒に食べたり……。

 そんな穏やかな時間を過ごし、月日は流れて。


 私は高校を卒業した。



 卒業式では、早く終わってほしくてソワソワしてしまった。そんな気持ちで式に参列していたのはきっと、私だけだろう。

 式のあと、号泣している同級生たちを横目に、さっさと荷物を持って引き上げる。みんなの顔には、等しく滲んだ文字が浮かんでいた。嗚咽混じりの泣き声があちこちから聞こえる。


 あれは私にはできない青春だった。

 ろくに友達も作らず、しっかりとした人間関係を築くことすらできなかった私には、縁のないもの。

 六年間あったのに、何もしなかった私は、怠惰かもしれない。けれど私はやっぱり、この人たちと同じように泣いたりするのは、無理だったと思う。

 というか、この学校、みんなお互いにライバルって感じで競い合ってたと思うんだけど、こんなふうに泣きあうくらい仲良くなれるんだ。不思議。

 私は何回やり直しても、きっと無理だ。うん、人間、向き不向きがあるよね。


 昇降口を出たところで待っていたお母さんとお姉ちゃんが、私を捕まえる。

「ユイちゃん、おめでとう。六年間、よく頑張ったね」

「みんな泣いてる中、一人だけスン……ってしてるの、すごく面白かった!」

 お母さんは優しく(ねぎら)ってくれたのに、お姉ちゃんは完全に面白がっている。

「ありがとう。あのね、私、行きたいところがあって」

 三人で校門まで歩きながら、私が切り出すと、お母さんとお姉ちゃんの顔に柔和な文字が浮かぶ。

「これからが本番なのね、応援してるわ!」

「帰ってきたら話聞かせてね!」

 二人に背中を押されて、校門から踏み出した瞬間。私の時間が止まった。


 見間違いかと思った。だって、こんなところに居るはずない。なのに、なんで、こっちへ歩いて来てるの……?


「卒業おめでとう」

 私の目の前まで来た彼が、綺麗な花束を差し出した。混乱したまま、それを受け取る。

 見慣れない、パリッとしたスーツを着こなして、いつもボサッとしてる髪も、後ろへ流されている。よく似合ってて、知らない人みたい。でも、首が痛くなるくらい見上げないと見えない顔に、少し色素の薄い目。間違いなく彼だ。


「なんで……」

 上手く言葉にできない。いろんな気持ちがぐちゃぐちゃに混ざってる。嬉しい、びっくりした、どうして、かっこよすぎる!

「迷惑かと思ったんだけど、どうしても、おめでとうが言いたくて」

「ありがとう……すごく、嬉しい」

 私が笑いかけると、彼も顔を緩めた。

「それで、その。どうしても伝えたいことがあって」

 さっき緩めた顔を引き締め、彼が膝をつく。これは緊張してる顔。この二年の付き合いで、随分と彼の表情がわかるようになった。


「店で会う度、いろんな話ができて楽しかった。一緒に食べるお菓子は美味しかった。きっと常連だからしてくれてたんだと思う。だけどこれからは、それだけじゃ、嫌なんだ」

 じっと私を見つめながら告げていた彼が、一つ息を吐いた。そして意を決したように、私の手を取る。真っ直ぐな目が、私を見ている。


「僕の彼女になってください」


 その言葉の意味をじんわりと理解した瞬間、私は花束を持っていることも忘れて、全身で彼に抱きついた。

 嬉しくて、驚いて、幸せで、気持ちを言葉にできないまま、何度も頷いて抱きつく私を、彼は壊れ物に触れるように、そっと抱きしめた。

「これは、オッケーってことで良い?」

「っ、はい!」

「はは! やった!!」

 彼は私をぎゅっと抱きしめてから、腰を持ち上げて、くるくると回した。二人に挟まれてひしゃげた花束から、花弁がひらひら落ちていく。

「わ、あの、花束が」

「潰れちゃったね、ごめん。でも、嬉しくて」

 見たことないくらい、満面の笑みを浮かべた彼が浮かれたように言うから、私は何も言えなくなった。私だって、嬉しいのだ。


 一頻り私をくるくるして、満足したらしい彼に降ろしてもらうと、お姉ちゃんの楽しそうな声がした。

「良かったじゃ〜ん! 今日はWでお祝いだね〜!」

 はっとして振り返ると、丸みを帯びて踊るような文字を浮かべたお姉ちゃんが居た。少し離れたところに、柔和な文字を浮かべたお母さんも居る。

 そうだった。ここ、学校の真ん前……。


 真っ赤になって俯く私を突いてから、お姉ちゃんが彼に声をかけた。

「初めまして。姉のマイです」

「は、初めまして。須藤です」

「初めまして〜! 二人の母です」

 少し離れてたはずのお母さんも、しっかりと挨拶してる。なんだかムズっとする……。

「なんで今日告白したか聞いても良い? 高校生と付き合いたいと思わなかった?」

 踊るような文字を消して、少し強張った文字になったお姉ちゃんが、真剣な声で問いかけた。


「僕はユイさんが高校生だから好きになったわけではありません。この二年交流した中で、魅力的なユイさんにどんどん心惹かれました。だけど、高校を卒業するまでは気持ちを伝えないと、自分で一つの区切りにしていました。ご家族を心配させるようなことはしません。どんなユイさんも好きです。大切にします」


 そう言って頭を下げる彼に、じんわりと胸が温かくなった。そして、しれっと呼ばれた名前にドキドキしてしまう。チョロい女だな、私。

「まぁ、まぁ! しっかりした人じゃない! ユイちゃん、良い人を選んだのね」

 お母さんの顔はとても優しく柔らかで、お姉ちゃんの顔も、ふんわりと柔らかくなっていた。

「おめでとう」

 お姉ちゃんの声も、顔も、とても優しかった。




 こうして私は、生まれて初めての彼氏ができた。

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