邂逅
初めて彼に会ったときの衝撃は、まさしく雷に撃たれたようだった。
帰宅途中、本屋へ寄った。昔から人の多い大型書店は苦手で、ひっそりとした個人書店にお世話になっている。
「こんにちは」
カラン、とドアに付いたベルが鳴る。いつもの癖で、挨拶しながら入店する。
足を踏み入れると、店内に立ち籠める書物の香り。行儀良く並んだ書架から漂う、この香りがとても好きだ。
入店の挨拶への返答は無いが、いつものことなので気にしない。店主のおじいちゃんはきっと、奥で本を読んでいるんだろう。
今日はどんな本にしようかな、と胸を高鳴らせて書架の間を歩く。背の高い書架にぎっしりと詰まった本。肺を満たす紙とインクの匂い。私はこの空間が大好きで、もはや愛してると言っても過言ではないだろう。
本は素晴らしい。あらゆる知識を、娯楽を、私に齎してくれる。欠陥品の私でも、本を読んでいる間は、ただの読者で居られた。
顔がわからないことを忘れて没頭できる、大切な趣味だ。
この書店は新書だけでなく、古書や古本も扱っていて、その幅広く雑多な品揃えがまた趣があり、落ち着く由縁だった。
私はとにかくなんでも読むので、あらゆるジャンルを手広く揃えてくれるのは本当に有り難い。また、店主のおじいちゃん一人しか居ないので、会計で見知らぬ人と遭遇することもなく、気心が知れていて気楽だった。
顔がわからないけど名前はわかる私は、初対面の人と顔を合わせるのが苦手だ。顔のどこを見れば良いか、わからないから。
いつもだいたい名前が書いてある辺りを見るようにしているが、私に見えているのは文字だから、ついそれを目でなぞってしまい、目線が泳いでしまうのだ。どうもそれが、思わせぶりな目線になってしまう、らしい。
中学生の頃。
私は駅前の大型書店に、常連と呼ばれるくらい通っていた。大きな店だから、たくさんの店員が居て、レジも毎回いろんな人に対応してもらった。
けれどいつの頃からか、気がつけば、私がレジに並ぶと必ず同じ人が対応してくれるようになった。私より少し年上と思われる、高校生くらいの男の人。
こんなこともあるんだな、なんて、とてもお花畑なことを考えていた。会計をする度、一言二言のやり取りをするようになった。たまにキャンペーンで余った付録なんかも貰うようになった。
この頃まではまだ、良い店員さんだな、サービス精神に溢れているな、と納得できていた。
おかしいと思ったのは、私が買ったわけではない書籍の付録や、キャンペーンの応募に必要なバーコードなんかをオマケにくれようとしたとき。さすがに、購入していない付録やキャンペーンに関するものを受け取るのはおかしいとわかった。
困りますと断るも、いらないものだから、と押し付けられそうになって、背筋が冷えた。もし良かったら連絡先を教えてほしい、今度二人で会いたいと言われて、目の前が真っ暗になった。
その人の顔に浮かぶ表情も、声色から読み取れる感情も、未知のものだった。途端にその人の全てが恐ろしくなった。
様子のおかしい私と店員のやり取りを見ていた他のスタッフが声をかけてくれて、事なきを得た。
バックヤードで店長やマネージャーと思われる人たちと話して、彼が私のために店員として褒められないことをしていたことを聞かされた。改めてぞっとした。
彼はしきりに、私のために何かしたかった、喜んでもらいたかったと話していた。私はただ体を強張らせて、その主張を聞いた。
ご迷惑をおかけしましたと頭を下げる私に、店長もマネージャーも、被害者だから気にするなと労ってくれた。今回のことは、彼の独断と暴走だと判断されたらしい。
警察に通報もできると言われたけれど断った。通報するには決定打に欠けるし、何よりこれは、私の甘さが招いた事態だと思ったから。
これからも常連で居てほしいと言われたけど、私は明確な返事をせず、二度とその店へは行かなくなった。
大型書店に限らず、人の多い店は、私が通うとトラブルを起こしてしまうと学んだため、小さな個人店にしか通わないと決めた。
小学校でも似たようなことを起こして、中学受験をしてまで閉鎖的な環境を作ったというのに、何たる体たらくかと、自分にガッカリした。
就学前に相貌失認症と診断された私は、小学校でも少し浮いていた。
顔がわからないはずなのに、人を間違えないどころか、双子すら見分けてしまう私を、周りはどう扱えば良いのか困っている様子だった。
私は全ての人を同じように扱った。人の顔には美醜があるらしいということは知っていたけれど、私にとってはのたくる文字が違うだけ。顔の美醜なんて、文字だけでは判別できない。
低学年の頃は良かった。なんだかんだで平和だった。
四年生の終わり頃、虐めの真っ最中らしい場面に遭遇した。咄嗟に、そこに居た全員の名前を読み上げた。すると、虐めていたと思われる側の生徒全員が、慌ただしく逃げ出した。どうやら、顔がわからないはずの私が全員を判別できたことに、恐れをなしたらしい。よくわからないまま、座り込んでる生徒に手を差し伸べると、その顔に浮かぶ文字はとても複雑な表情を表していた。
こういう場合、次のターゲットは私になりそうなものだが、なぜかそうはならなかった。
こどもは残酷だけど同時に狡猾だから、きっと異分子である私に手を出すことを躊躇ったんだろう。
わけのわからないものに関わることを恐れたんだと思う。
グループ分けのときや、掃除のとき、外見で弾かれている子に手を差し伸べるのは、私の役割だった。男女関係なく、孤立している子には手を差し伸べた。入学時から変わらず同じことをしているだけだったけれど、学年が上がるにつれて、それは当たり前ではなくなっていった。
そうすれば先生もほっとした様子だったので、自己満足ながらも、自分の役割を果たしていると思っていた。
そんな風に、集団に弾かれていた子たちに手を差し伸べた結果、みんな私にべったりと貼り付き、五年生が終わる頃には、お互いに競い合うようになった。誰が一番私に好かれているか、なんて、聞いたときには呆れてしまった。
みんながみんな、私の役に立ちたいとか、手を差し伸べてほしいとか、私の一番になりたいとか、よくわからないことを言って争うようになった。
「ユイちゃんに見つめられると、特別な人間になった気持ちになれる」
みんなが口を揃えてそんなことを言うので、冷水を浴びせられた気持ちになった。
無意識に文字を目でなぞる癖がある私は、顔を見ながら、その文字をなぞるのが常だった。どうやらその目線が、諸悪の根源らしい。
私は何も言えなくなって、ただ、ごめんなさいと繰り返すことしかできなかった。先生に、みんなに謝って、もう誰の顔も見られなくなった。
お姉ちゃんに相談して、両親とも話し合って、中学受験をすることに決めた。学校にも掛け合い、担任の先生以外は誰にも何も言わず、口外しないよう約束まで取り付け、こっそりと受験し、みんなと同じように卒業した。
またね、と手を振り合うみんなに、何も返事をできないまま。
厳しいと評判の中高一貫校である女子校を選び、なるべく人の顔を見ないで、人と関わらないようにした。
小学校時代のみんなと関わりたくない一心で家から遠い学校を選んだ。寮に入ることも検討したけど、お姉ちゃんが家を出るから一緒に暮らそうと言ってくれた。
両親は、辛い思いをするくらいなら環境を変えるのは間違いじゃないと背中を押してくれたし、お姉ちゃんは、一人暮らしをしてみたかったからラッキーだよと言ってくれた。
「ユイの瞳はとても綺麗だから、勘違いしちゃうのもわかる気がする」
お姉ちゃんが真面目くさって言ったら、両親も頷いていたので、これが親バカと姉バカってやつか……と、少し面白かった。
家族は、迷惑ばかりかけてしまう私でも、無条件に愛してくれる。何も返せない自分が、とても悔しい。
「いつか、ユイちゃんが真っ直ぐ目を見つめたい人ができたら、絶対に紹介してね」
それは家族の口癖だった。私は何も言えずに、ただ頷いた。
書架に並ぶ背表紙を眺めながら、上段に気になるタイトルを見つけた。手を伸ばしてみるも、案の定届かない。
ここの書架は背が高いから、私が背伸びしたところで届かない。だけど、脚立を取りに行くのは、自分が小さいことを認めるようで、とても癪だ。
限界まで背伸びして、これ以上は伸びないだろうと思うくらいに手を伸ばすと、指先にちょこっとだけ、本の背表紙が触れた。
……これ、いけるんじゃない?
とりあえず手に持っていた鞄を下ろして、全身で背伸びする。あ、なんか、背骨がすごく伸びてるのを感じる……。
「も、少し……」
ともすれば身長伸びるんじゃないかと思うくらいに、爪先から指先までピンと伸ばしていると、視界にふと影が差し、知らない匂いに包まれた。
「これ?」
落ち着いた、小さい声が問いかける。
私の後ろから伸びてきた手が、すんなりと本を手に取り、私に差し出した。
「ありがとう」
そっと受け取ると、影が引いた。知らない匂いも離れてしまい、どうやらかなり密着していたらしいと気付く。
振り向くと、いつも見るようにしている位置には、顔が無くて驚いた。そのまま視線を動かして、顔を上げると……。
――――デッッッッッカ!!!!!
見たことないくらい、大きな男の人が立っていた。もはや壁では?
細身ながらもしっかりと男の人の体に、くたっとしたシャツに着古したボトムス、緩めのカーディガンを羽織っている。やや長めの黒髪はボサッとしていて……。
名前がわからない。
「脚立が重いなら、声かけてくれたら動かします」
私が呆気に取られてる間に、その人はぼそぼそと声かけをして、離れていった。
背が高いはずの書架も、彼と並ぶとそこまで高さを感じない。それだけ彼の背が高いんだろう。
いや、あの、一旦落ち着こう。
私は彼の顔を見た。
なのに名前がわからない。
つまり、彼の顔は、のたくる文字ではなく、正真正銘、本来の意味通りの顔があったのだ。
―――――私が自分以外で初めて見る、人の顔だった。