プロローグ
初投稿です。よろしくお願いします。
初めて鏡を見たときの衝撃は、きっと生涯忘れられない。
「うっわ……今日の運勢、最悪なんだけど!」
テレビの占いを見ていたお姉ちゃんが、不服そうにコーヒーを飲んでいる。あんまり信じてないのに、なんで見るんだろうと思うけど、これは朝のルーティンだから必要なことらしい。
私はぼんやりとその様子を眺めながら、囓っていたパンを最後の一口で押し込んだ。……しまった、一口にしては大きすぎた。咀嚼しづらい。仕方なくカフェオレで流し込むように嚥下する。
「あ、ユイの運勢、一位だよ! 良い事あるかもね」
さっきの不服そうな様子から一転、我が事のように嬉しそうなお姉ちゃん。
「ラッキーアイテムはペンだって! やったじゃん。私のラッキーアイテム、貯金箱なんだけど難しすぎない?」
あんまり信じてないと言うわりに、なんだかんだとラッキーアイテムを気にしちゃうお姉ちゃんは、実はこの占いをわりと本気で信じてるんじゃないかと思う。きっと全力で否定されるから、絶対に言わないけど。
ぼんやりとテレビを眺めながら、カフェオレの入ったマグカップを傾けた。
テレビでは女子アナが自分のラッキーアイテムと思われる小物を持って運勢について読み上げている。それは楽しそうな声色で、ウキウキとした気分が伝わってきた。
テロップには花井咲と表示されている。画面に写る顔には、武田花菜と書いてある。
―――――今日も、どんな顔してるか、わからない。
我が家はありふれた、どこにでもある中流家庭だ。大恋愛の末に結ばれた両親、五歳年上の姉が居る、四人家族。
両親はとても仲が良いし、姉はとても優しいし、非常に恵まれた環境だと思う。
私は何の不安も無く愛されて育った。
私が三歳になる少し前の話。
私はまだ上手く話せないながらも、簡単な言葉は話せるようになっていた。姉は八歳で、よく私の面倒を見てくれていた。
テレビで見たか何かで、鏡を見せるとこどもが喜ぶという話を知った姉が、私に鏡を見せてくれた。
「自分の顔が見られるよ」
鏡に自分の顔を写しながら姉が言ったその様子に、私は胸を高鳴らせた。両親や姉の顔をイメージしながら鏡を覗き込んだそこに写っていたのは、未知の物体。
衝撃だった。
「いやぁぁぁぁぁ!!!!!」
私は衝撃のあまり、絶叫した。それはもう、力の限りで泣き叫んだ。
知らない顔。見たことないような顔。今まで見た誰の顔とも違う顔。
「ちがう、ちがうーーー!!!」
顔を覆って泣き崩れる私に、姉も母も困惑していた。
「ユイちゃん、どうしたの?」
「あのね、みんな同じ顔じゃないのよ?」
「ほら、お姉ちゃんとお母さんも、少し違うよ?」
「ユイちゃんはね、おばあちゃんにそっくりなのよ」
二人はオロオロしながらも懸命に宥めてくれた。
どうやら母と姉はよく似ているのに、私が二人と違う顔だから泣いていると思われたようだった。
だけど、そうじゃないのだ。
私にとって顔とは、細い線のようなものがのたくるものであって、決して私が見たような、キョロキョロしたものが二つと、真ん中に突き出したものが一つ、私が声を出すと開閉するものが一つ並んだものでは無かった。
怖かった。
ただひたすら怖かった。見たことのないその未知の何かが、自分の顔だという事実が恐ろしかった。
けれどそれをどう表現すれば良いかもわからない私は、ちがう、ちがう、と繰り返すばかりで、上手く伝わらなかった。
後に文字を学び、どうやら顔に書いてあるのは文字で、それは名前を表しているらしいと理解した。
絵本を読むようになり、どうやら顔とは私が普段見ているようなものではなく、目が二つと鼻が一つ、口が一つ並んだものであるらしいと知った。
私がかつて鏡で見た、あれが顔だった。
―――――だったら、私が見ている顔は何?
怖くて誰にも言えなかった。
人の顔を覚えるのが得意なのね、と褒められることが多かった私は、決して人の顔を見ていたわけでは無いのだと知った。
名前を間違えるはず無かった。
だって私に見える顔には、全部名前が書いてあるんだから。
私はとても愛されている。
家族からの愛を疑ったことは無い。
ただ一つ、家族の中で私だけが違うことが、とても怖かった。
自分が普通じゃないと実感したのは、五歳の頃。
「ユイちゃんは笑わないわね」
それはお姉ちゃんと公園で遊んでるとき、同じく公園で遊んでた誰かのお母さんの言葉だったと思う。
「マイちゃんはよく笑うのに、不思議ね」
きっとその人は思ったことをそのまま言っただけで、特別何かしらの悪意だとかそういったものをもって発言したわけではないと思う。たぶん、単純な疑問だった。
だけど私は気づいてしまった。
それを言われたお母さんの体が、強張っていることに。私の手を繋いでくれていたお姉ちゃんの手も、力が入っていた。
これは本当のことを言われているのだと、気づいた。
けれど気づいたところで、私には『笑う』がわからない。それが何かもわからないし、どうすれば良いのかもわからない。
恐らく顔に関するものなんだろう、ということだけ、ぼんやりと理解した。
だってそれ以外については、私はお姉ちゃんを模倣して完璧に真似出来ているはずだったから。
私の見ている顔が、本当は顔じゃないと知った日から、私は私の目が、私の全てが、信じられなくなった。
だから模倣することにした。
お姉ちゃんの真似をしていれば、間違いは無いだろうと。
例え間違っていたとしても、両親が指摘して直すよう教えてくれるだろうし、間違えた原因について追求されることは無いだろうと。
そんなズルいことを考えて、お姉ちゃんの模倣をした。
結果として、これは成功だった。
間違えた場合にも、お姉ちゃんの真似をしたのね、とみんな勝手に納得してくれて、原因を深く追求されることは無かった。
こうして私は、お姉ちゃんの模倣品になった。
顔以外は。
帰宅して、少しぎこちない様子のお母さんとお姉ちゃんに、私はついに告白した。
「ひとのかお、わからないの」
それを聞いたお母さんとお姉ちゃんは、息を詰めた。
「だから顔が描けなかったのね?」
確認するように、お母さんが聞いた。たぶん、似顔絵が描けなかったことを言ってるんだなと思い、その通りだったので、私は頷いた。するとどこか安堵したように、お母さんは言った。
「心配すること無いのよ。少し珍しいけど、たまにあることなの。病院へ行って、テストしてみましょうね」
それは穏やかで優しい声だったので、私は失望されたわけでは無いのだと、ほっとした。
「顔がわからないんだから、笑えるわけないのにね」
私の頭を撫でながら、お姉ちゃんが明るい声で言った。私は心底安堵して、お姉ちゃんに抱きついた。お姉ちゃんは優しく抱き返してくれた。
病院で検査してもらい、私は【相貌失認症】と診断された。正確には少し、いやかなり、違う気もするが、他に表現……というか、適切に表す診断は無かった。
私も上手く伝えられなかったし、やや齟齬はあるかも知れないが、大まかなカテゴライズでは間違っていないと思う。
人の顔がわからない、という一点において、その通りだったから。
「あの……人の顔を覚えるのが得意なのかと思っていたのですが、顔がわからないということは、それ以外で判別してるんでしょうか」
お母さんが先生に問いかける。
「そうですね……ユイちゃん、どうやって人を見分けてるのかな?」
今度は先生が私に問いかけた。
「か、かみがた、とか、シルエット、とか、こえ、とか」
咄嗟に口を衝いて出たのは嘘だった。
相貌失認症についての説明を聞きながら、名前が書いてある、なんて症状は無かったから、これは言ってはいけないのではないかと直感した。
私はすっかり自分のことを信じられなかったから、そのままを言葉にするのが恐ろしかった。
「ユイちゃんは、人をよく見てるんだね」
納得したように先生が言って、お母さんもほっとしたように息を吐いた。良かった。やっぱり言わなくて正解だったみたい。
こうして私は、無事に【人の顔がわからない】こどもになった。
両親と姉は、顔がわからない私に、いろんなことを教えてくれた。
顔には目、鼻、口があること。凹凸があること。笑うと眦が下がって口角が上がること。怒ると眦が上がって口角が下がること。泣くと眦が下がって涙が出ること。
感情については声色で判断できていたけれど、表情についてはよくわからなかったので、とても勉強になった。表情の絵本を繰り返し読んで学んだ。
とくに、姉が何度も顔を見せながら触らせてくれたので、笑顔のときは柔和な文字になること、怒ったときは角張った文字になること、悲しいときは滲んだ文字になること、楽しいときは丸みを帯びた文字になることが、わかるようになった。
姉は面白がって、わざと声色と表情をチグハグにして、私にクイズを出題した。勿論、一つも正解できなかった。
私が見る顔には、名前が書いてある。たぶんその人の本名……というか、嘘偽りなく真名が書いてある。
自己紹介してもらうと、名前の上に読み仮名が追記される。我ながらとても便利だと思う。
家族は私を褒めてくれた。人をよく観察できていると褒めてくれる度に、なんだかズルをしているようで、少し居心地が悪かった。
よく観察できている、なんて、とんでもない。私はただ、そこに書いてある名前を読んでいるだけ。
人の違いがわからない私にとって、みんな同じ。のたくる文字の違いで判別しているに過ぎないから、双子の見分けだって容易いものだった。
褒められる度、違うのだと、私はただ顔に書いてある名前を読んでるだけだと、告白してしまいたかった。
だけど臆病者の私には、そんな勇気は持てなかった。
私は人の顔がわからない。だから、恋するということも、わからない。
いつか私も恋をしてみたい、と思うことはある。
だけど、どんな顔をしているかもわからない人に、恋をすることは出来なかった。
―――――恋をするのなら、顔のわかる人が良い。
きっと普通の人にとっては当たり前のことが、私にはとても、とても難しい。