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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

現代短編

わたしのまわりで誰も死なない

作者: 糸木あお

 子どもの頃、メロンソーダのお風呂につかってみたいと思っていた。それを作文に書いたら母が楽しそうに笑った。今は亡き母との幸せな記憶。親友が失踪して、わたしはとても息苦しくなり、その事を思い出した。湯船に駄菓子屋で買ってきたメロンソーダの粉を大量に入れて、そこにざぶんとつかる。安っぽくて甘いソーダの匂いに包まれる。

 

 お湯がしゅわしゅわと緑色に染まって綺麗だなと思っているうちにいつの間にか眠ってしまっていた。


 目が覚めたらわたしの下半身はどろどろに溶けてゼリーのようになっていた。綺麗な緑色が赤に混じってドブ川のような色になってしまって悲しいと思った。


 物心ついた頃から人の死が近かった。優しかった親戚のお兄さんが自殺をし、小学校の先生が通り魔に殺された。叔母が交通事故で亡くなり、隣の家の上のお姉さんが雷に打たれて真っ黒こげの死体になった。


 そして、母が膵臓癌で亡くなり、我が家は父子家庭になった。中学生の頃、クラスメイトが一家心中をしてその葬儀に出席した。鯨幕くじらまくは不吉だ。白と黒の縞々を見るとわたしは死を思って吐きそうになる。


 親友が失踪した時、わたしが考えたのは彼女が死んでいるんじゃないかということだった。これだけ周りで人が死んでるんだからきっとそうなんだと思ったのだ。ひとつひとつは珍しくはないかもしれないがここまで続くとまるでわたしが死を招いているようだ。


 父は単身赴任で宮崎に行っているし、大学も今は夏休みだ。だから、わたしはもうこの風呂場から出られない。だって下半身がどろどろに溶けている。腕だけで出るのは難しいし、それ以上に自分の身体を直視したくなかった。ずるりと腐り落ちているんじゃないかと思うと怖かった。風呂場で孤独死した死体の写真を見たことがある。わたしもあんな風になってしまうのだろう。ああ、もう一度Aに会いたい。


 親友のAは変な子だった。初めて会った時は生垣の中に頭を突っ込んでいたし、腕に自分と親の名前の刺青があった。それは下手くそでひと目で自分で掘ったとわかるひどいものだった。


 Aはとてもきれいな顔をしている。でも、頭の中はとっ散らかっていていつも苦しいと言っていた。彼女の苦しみに寄り添いたいと思っていたけど、結局わたしには何もできなかった。昔も、今も。


 腕にある刺青の名前の上に二重線が引かれていてAにどうしたの?と聞くと二人とも死んだと言っていた。Aは突然天涯孤独になってしまった。Aには他に友達もいない。Aにはもうわたししかいない。わたしは児童養護施設に引き取られたAに何度も会いに行った。


 わたしはAが好きだった。わたしよりも可哀想だから。きれいな顔をしているのに要領が悪くて、みんなから遠巻きにされていたから。頭が悪くてどの高校も行けないと泣いていたから。両親が亡くなって天涯孤独だから。めそめそ泣くAの側で、Aにはわたしがいるよといつも優しく囁いた。本当はAは頭が悪くなんてなかった。ただ、識字障害ディスレクシアだっただけだ。きちんと配慮がされれば高校も通えただろう。でも、そんな事をわざわざ教えなかった。


 中学生の頃に片親だからと塾で仲間はずれにされたことがあった。自分が望んで父子家庭になったわけじゃないのにそんな仕打ちを受けてかなり腹が立った。でも、言い返したら面倒だから無視した。中学生にもなって仲間はずれなんて陰険で子どもっぽいことして馬鹿だと思った。


 その時からわたしは他人に期待をすることをやめた。期待するのは自分にだけにすれば息苦しさは減った。自分のことなら努力でどうにかなることもあった。大抵のことは叶わなかったけど成績は良くなった。父もそれを聞くと嬉しそうだった。


 そうして他人に期待するのはやめても期待されるのは嫌ではなかった。父にとって理想的な子どもになりたかったから勉強も頑張ったし、ちゃらちゃらした服は着なかった。父が好きではないだろう音楽を家で聴くのが憚られたから早朝の散歩に出るのが日課になった。イヤフォンで音楽を聴きながら歩くのは良い気分転換になる。誰もいないのを良いことに歌を口ずさむ。そんな時にAに出会った。


 最初は酔っ払いだと思って早く離れようと思ったけど、たすけてと小さい声がしたから近づいた。生垣いけがきから引き抜くと予想以上にきれいな顔をした同世代くらいの女の子で驚いた。でも、その顔には痛々しい痣があった。


「これは、転んだの」


 聞いてもいないのに彼女はそう言った。その顔は怯える小動物のようだった。わたしは持っていたタオルで彼女を拭いてやり、自動販売機で水を買って渡した。


「良いの?」

「そのために買ったから。他のが良かった?」

「ううん。ありがとう。水、好きなの」


 変な女の子だと思った。それから彼女の腕にある奇妙な刺青が目についた。頭の中でこの子絶対におかしいと警報が鳴る。でも、彼女から目が離せない。そのまま放っておけなかった。


「お腹空いてない?」


 普段なら絶対にこんなことは言わない。小遣いだってたくさんあるわけじゃない。でも、痛ましく痩せている彼女に何か食べさせてあげたかった。人に対してそんな風に思うのは久しぶりだった。


 スーパーで買ったお弁当をAは掻っ込むように食べた。訳ありなんだろう。こんな時間に傷だらけで生垣に突っ込んでいるなんて。人助けは尊いことだけど父がAを見たら顔をしかめるだろう。それでも、予感がした。Aはわたしを幸せにしてくれると。


 Aはとにかく生きるのが下手だった。そして、おそらく親から虐待を受けていた。図書館で受験勉強のついでにAに勉強を教えたけれど、結局彼女は進学せず就職した。製菓工場の住み込みの仕事だ。意外と性に合っているようでAは楽しそうだった。Aからわたし以外の人間の話を聞くのは非常に面白くなかったけど、笑顔で相槌を打った。


「Mちゃん、聞いてる?」 

「聞いてるよ。先輩が優しいんでしょ? その人って男の人?」

「違うよ。女の人。男の人は怖いもん」

「ふうん。そう。わたしのことは怖い?」

「Mちゃんは怖くないよ。へんなMちゃん」


 わたしは父が望む薬剤師になるべく勉強をしていた。母が元気だった頃は総合病院に併設している薬局の薬剤師として働いていた。母は資格が大事だといつも言っていた。資格があればどこでも働けるから頑張りなさいと耳にタコが出来るくらい聞かされた。


 でも、いくら資格を持っていても死んだらお終いだ。闘病で痩せこけた母の手はしわくちゃでまるで老婆のようだった。棺に花を入れる時、不意に触れた手が酷く冷たくて怖くなった。人が死ぬとこんなに冷たくなるなんてそれまで知らなかった。


 湯船のなかでわたしの下半身は溶けきっているけれど、薄い胸はそのままだった。Aは結局わたしが男だということも知らないままいなくなった。勉強している時にAは時間をかけてわたしのノートの名前を読んだ。読み方が間違っていたが訂正しなかった。


 Aが男性に対して恐怖心があるだろうから、わざわざ教えなかった。その時は髪も結べるくらいに長かったし、男にしては背が低めで痩せていたからきっとAは勘違いしたのだろう。


 そうでなければAはわたしに触れたりしなかったと思う。あの夜みたいに。


 Aはどうしていなくなったんだろう。Aを探したくてもこの身体じゃどこにも行けない。このまま腐ってしまうんだろうか。スマホだってリビングで充電してるし、父が一時帰宅する2週間後にはどう考えてもわたしは死んでいるだろう。最後にAに会いたかったなと考えていると視界がぼやけてにじんだ。泣くのなんて一体いつぶりだっただろう。


 このままわたしが死んでも悲しむのは父くらいだと思う。ひょっとすると父も悲しまないかも知れない。母が亡くなってから仕事により一層打ち込むようになった父。高校生になる頃には1年のほとんどを地方出張に出かけていた父。たまにこの家で2人になるとどうして良いかわからず曖昧に笑う父は、わたしのことをどう思っていたのだろう。


 わたしがいてもいなくても世界は変わらない。ただ、わたしには明日が来ないかも知れないだけだ。熱で頭がぼうっとして目を瞑ると冷たい手が首に触れた。その白い腕には下手くそな刺青があった。


「ああ、A、ここにいたのか」


 わたしは人生の終わりにAがそばにいてくれることに安心した。甘いメロンソーダの匂いと何かが腐ったような臭い。もう、わたしのまわりで誰も死なない。



◇◇◇◇


「死後1週間ってところですね。追い焚きがついてたみたいでどろどろのぐちゃぐちゃでしたよ」

「お前ホトケさんのことそんな風に言うなよ」


「へへ、すいません。えっと、鑑識によるとどうやら2人分あるみたいなんですよねえ、一体誰なんだか」

「住んでいたのは秋神あきがみ美紀よしのり、T大の薬学部か。エリートじゃないか。父親には連絡が付いたのか?」


「はい。すぐに来るそうです。でも、宮崎からだから明日とかになるかもですねえ。しっかし酷い臭いだ」

「1人なら事故か自殺で済むんだが2人じゃなあ。確実に事件性ありだよな。心中にしてもこんな手段取らないだろうし」


「まあ、とりあえず俺たちに出来ることをしましょ。リビングから調べましょうか」

「そうだな。もう1人の身元も早く特定してやろう。家族が待ってるかも知れないからな。直近の捜索願もさらっておくぞ」


「はあい。とにかく始めますか」


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― 新着の感想 ―
[良い点] とても悲しいお話でした。
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