第二話 そして目覚める
随分と長い間、眠っていた気がした。断言はできないが、そんな気がするのだ。
そして、行方の分からない寂しさが、心を満たしていた。
眼に温もりが広がる。
それは血液と共に次第に全身へと伝わっていき、全身の覚醒を促す。
「……ここは、どこだ」
目が覚めるとアトロは、見覚えのない草原にいた。
日光がまぶしく差し込み、近くに川があるのか水の流れる音が聞こえる。
そして、風が吹いて草木を揺らし、平穏な自然の音を奏でていた。
そんな草原の中でアトロは目を覚ましたのだ。
立ち上がってみると突然の倦怠感に襲われるが、それ以外に特に異変はなかった。
腰にさしてある勇者の剣も、仲間との冒険で手に入れた勇者の装備も取られてはいない。
魔力もちゃんと体を満たしているのを感じる。
「特に問題はなし、か」
だが、それでも最後に見た光景は忘れていなかった。
仲間たちと世界を救うために魔王に挑むはずが、謎の結界によって行く手を阻まれてしまったこと。
そして、結界の外で必死にアトロを救おうとしていた仲間たちの姿を。
「……ごめん、ガレン、オリバ、フィオ、カイ。俺が油断したせいで」
あの結界はかなり頑丈で良く作られものだった。
一体どれほどの魔力を注いで、どれほどの期間を懸けて作ったのだろうか。
現勇者パーティの攻撃を何度も受けても壊れずに、魔法をかき消す細工まで施してある。
更にはただ閉じ込めるだけでなく、次第に縮んでいく。
そしてそれを気付かれないように仕掛けておいてあったのだ。
あれほど立派な結界の罠を発動するまで誰も気が付かなかった。本当に謎が多い代物だ。
だが、その中でも一番の謎があった。
「……でも、どうして俺は生きているんだ」
アトロはあの瞬間、死を覚悟した。
何もできないまま薄れゆく視界。
人類にとっての因縁の敵、魔王の住処である魔王城を前にして無念の死を遂げる。
そう、覚悟したのだ。
しかし、実際は暖かな自然の中で目を覚ましたのだ。
あの結界に閉じ込めたということは、勇者であるアトロを殺すことのできる絶好の機会だったのに、わざわざ無事に安全な場所へ移動させてくれたのだ。
その意図は何なのか。アトロには全く見当がつかなかった。
だが、今すぐ導き出せない答えに頭を抱えるほど、アトロの表情は曇っていない。
「生かしてくれたならもう一度挑むまでだ。俺は止まらないからな」
アトロは自身の拳を握りしめる。これほど立派な拳にしてくれたのは、数多くの人たちの支えがあったからだ。
そして共に戦ってきた仲間たちのおかげだ。
だから、絶対に魔王を倒すという使命を果たすまではアトロは前進することを止めない。
それが託された勇者としての信念である。
「魔王め。俺を殺さなかったことを後悔させてやる」
その決意を噛み締めて、アトロは一歩を踏み出した。
大地もそれに呼応するように力が漲るのを感じる。
しかしアトロの行く先は具体的にはまだ決まっていないのだ。
魔王城へ行くという大きな目標はあるのだが、今はまだその時ではない。何故なら現在地も全くと言っていい程わからないのだから。
「それじゃあ、取り敢えずは適当に散策して……ん?」
その時、不意に誰かの視線を感じた。
警戒も兼ねて振り返ると、そこには木々の間から顔を覗かせる一人の少女がいる。
金色に輝く長髪で、整った顔立ちの少女だ。年齢はアトロと同じくらいのようで、可愛らしさもさながら、美しさも纏っている。
そしてその手には果実の入った籠を持っていた。もしかしたら、この近くに住んでいるのかもしれない。
だけどいきなり少女に木陰から見つめられ、アトロは驚きを隠せない。
しかしどうやら少女も同じようで、急に振り返られ、目があってしまい思わず目を逸らす。
初動で言葉を交わせないまま、二人の間に沈黙が走る。気まずいと思ったアトロは、一歩近づいて、
「あ、あの……急な質問で申し訳ないけど、ここって何処か教えてくれないか? 出来れば国も……実は道に迷っちゃてさ」
後頭部に手を当てて、少し照れながらそう尋ねた。
道に迷った、というには国を聞くのは違和感しかないが、そのことに気づいた時にはアトロはもう口にしていた。
「え? 国って、道に迷ったのに?」
「あ、ああ。もしかしたら国境を越えたかもしんないからさ……道に迷って」
「そう、なのね。ええと、ここは北の国アイセルメルクで、テオールの町の近くだけど……」
少女はアトロの想定外の質問に驚きながらそう答えた。
驚きつつも丁寧に答えてくれて、アトロは素直にうれしかった。ただ、質問の仕方は気を付けようと反省もする。
現在地についてだが北の国アイセルメルクというと、仲間であるカイの出身国である。
それにテオールの町というのも聞き覚えがあった。確か、北方にある中規模の町で、一度訪れたことがあるはずだ。
当時は旅の必需品を揃えたくらいだが、見ず知らずの場所では無かったことにアトロは安堵する。
「テオールの街か……教えてくれてありがとな。じゃあその街に行ってみるよ。向こうに行けばいいのかな?」
アトロの指差す方向は、少女の背後である。
彼女の格好は旅人のそれでもなく、冒険者だとかでも無い。至って普通の街娘と言ったところだ。恐らく、彼女はテオールの町の住人なのだろう。
その為、彼女が来た方向に町があると思ったのだ。
「ええ、そうだけど……もし良かったら案内してあげようか? 私も帰るから」
どうやら少女は、案内してくれるようだ。
これには勿論、アトロには断る理由はない。
「本当か。それなら助かるよ。さっきも言った通り、道に迷って、ていうかどうしてここにいるのか分からなくて……」
「どうしてってその恰好、冒険者じゃないの?」
少女はキョトンとした顔をする。確かにアトロの格好は、明らかに戦闘を意識した装備をしている。
更に言えば、腰には剣を刺している。普通に考えたら、冒険者だろう。
ただ、アトロはいい意味で普通では無いのだ。
「いや冒険者じゃなくて、実は、その……俺は勇者なんだ。名前はアトロ、よろしくな」
そう言いながら、アトロは右手を前に出した。少女もそれを見て、自分の右手を前に出す。
「え、あ、アトロね。私はレイラ、よろしくね……で、勇者っていうのは?」
柔らかく、温かい握手を交わして、少女――レイラはそう尋ねた。
勇者って言うのは、とは一体。流石に勇者を知らない訳では無いだろう。となると、勇者がどうしてここにと言うようなニュアンスだろう。そう、アトロは解釈した。
「ああ、良く分からないんだけど気づいたらここにいたんだ。でも、俺は勇者だ。一度、テオールの町には来たことがあるんだけど、覚えてないか?」
「覚えてないけど……ううん、私の聞きたいことは違うの。勇者って、どうして冗談言うの?」
覚えていないと、そうレイラに断言された。案外、勇者と言う存在はそこまで大きく無いのかもしれない。
だが、そんな事よりもアトロに響いたのはその先の言葉、冗談だとそう言われた事だ。
「じょ、冗談って、俺は勇者なんだ。それを示すのは難しいし、そう見えないかもしれないけど信じて欲しい」
勇者の証みたいなモノが有れば良いのだが、アトロにはそう言った類の証明はない。
生まれた時から並外れた魔力と力を持ち、とある教会で勇者であることを告げられたのだ。
しかし、今身につけている勇者の装備も、アトロが勇者だからこそ身につけられる物だ。そしてアトロが勇者だからこそ、今まで多くの人々を救う事ができた。
その他にも勇者だからこそ、と冠を着けて言えることは沢山ある。まあ、見た目はただの冒険者の青年の方がしっくり来るが。
それでも、アトロは勇者としての誇りを持っている。魔王を倒す事はこの様な形で中断されたが、それでも何度だって挑む覚悟はできている。
何故ならアトロはまだ生きているからだ。生きていれば、何度だってなんだってできる。
だが――、
「信じるも何も、勇者ってもう死んだでしょ」
その決意にヒビを入れるかの様な言葉が、レイラの口から放たれたのだ。
その言葉を受けてアトロは思った。
この世界は何かがおかしい、と。