第十四話 紡がれた鐘の音
本日何度目かの吹き飛ばしを喰らい、アトロの世界が目まぐるしく回転する。
そして遅れてきた痛みが全身を襲った。
しかしそれでも、アトロは歯を食いしばりながら態勢を整える。
何とか地面に着地し、一呼吸。そしてすぐに、グルブドの猛襲への備えとして剣を構える。
獣化したグルブドの瞬発力は恐ろしく、その一撃もかなり重い。
何とか僅かな魔力と、身のこなしで耐えてきたが、アトロの限界は近かった。
「ーー元々万全には程遠い体調に加え、魔力の残量も僅か。残された魔力は……恐らく攻撃と防御合わせて三回分が限界だな」
獣化したグルブドに有効な防御と攻撃を繰り出すには、少ない魔力では足りない。
そのギリギリを見極めたアトロの想定が三回だ。
「仲間がいないってことが、こんなに苦労するなんてな」
アトロには今までは仲間がいたため、強敵との戦闘でも一人の負担は少なく、魔力が減ったり疲労がたまればサポートをしてもらえた。
しかし、今のアトロにはその仲間はいない。
自覚はしていたつもりはあったが、いざ実際に一人での戦闘を迎えるとどれだけ支えてもらっていたかを実感する。
彼らには戦闘面ではもちろん、精神面でも本当に支えてもらっていた。だからこそ、彼らを失ってしまったことが本当に苦しかった。
しかし、今は悔やんでいる時ではない。
仲間は失えど、アトロの背には未だに多くの助けを求める人々がいるのだから。
「世界を救う勇者が、こんなところで負けるわけにはいかないんだよ」
吠えるグルブドがまたしてもアトロを強襲する。
鋭い獣爪が振り上げられ、全体重を乗せた一撃がアトロを地面に叩きつけようとする。
しかしアトロはその重い一撃を、轟音とともに剣で弾いた。
見れば、アトロの握る勇者の剣には魔力が纏わっている。更に、その両足も魔力で覆われている。
アトロは残された三回分の魔力の内、一つを剣に、一つを足に纏ったのだ。
両足に纏った魔力は、床との接着剤の役割を成し、グルブドの一撃に吹き飛ばされることを防いでいる。
そして剣に纏った魔力は、グルブドの一撃に押し負けない力を生み出している。
それらのおかげでようやく、獣化したグルブドの攻撃を防ぐことに成功したのだ。
だが、グルブドもまだやられて訳ではない。直ぐに浮いた態勢を戻し、アトロに襲い掛かる。
「ッウガァァァ!」
またしても振り下ろされる獣爪。
ただ、その軌道も威力もアトロは理解している。理解したうえで剣を振るって、グルブドの一撃を弾くのだ。
そして、グルブドの攻撃とアトロの防御の応酬が始まった。
大気をも引き裂く獰猛と、全てを守り抜く強さが、世界を轟かせながら幾度となく火花を散らす。
獰猛の一撃は、正しく凶悪である。
ただ目の前の獲物を屠るという本能による、無慈悲な即死攻撃の雨を降らしているのだ。
気を抜けば即死、掠れば即死、間合いが離れれば即死という理不尽をその巨体から絶え間なく放っている。
対する強さは、正しく勇敢である。
見るに堪えない体重差を前にしても振り返らずに、正面から立ち向かっているのだ。
そして、その輝く剣を巧みに動かし、精錬された力で正義を振りかざしながら応じている。
絶え間なく襲い掛かる即死攻撃にひるむことなく、全てを守り抜いているのだ。
互いに一歩も引かないその攻防は、まるで終わりなどないかのように均衡を保っていた。
しかし、どれだけ会心の一撃を繰り出しても、どれだけ完璧な守りを見せようとも、両者の限界は確かに近づいてきているのだ。
アトロは肉体の疲労と、使用した魔力の消費だ。
剣と足に纏ったと言え、魔力は徐々に消費されている。だからこそそう時間がかかることなく、アトロの防御は崩れてしまう。
残された一回分の魔力も、両足か剣のどちらかにしか割くことが出来ないため、今のような防御は不可能になってしまう。
そして勇勢に見えるグルブドも、今の状態は本来の膂力を越えた自身の命を削る捨て身の技で生み出しているのである。
魔力の全消費と肉体の無理な変貌は、少ない代償では賄うことは出来ない。
今この瞬間にも、グルブドの体内ではただでさえ巨大な心臓が爆発しそうなくらいに膨れ上がり、全身の筋肉は断裂を繰り返し、骨も砕け始めてきている。
しかし、興奮状態にある本能の作用により何とか戦っているのだ。
「――うぉぉぉおおお!」
「――グルゥゥゥガァァァアアア!」
振り下ろされる一撃と、弾く剣撃によって生み出される轟音は、まるでこの戦いの終わりを知らせる鐘の音のようにも聞こえてきた。
逸る攻撃に、逸る防御。そして駆け巡る鐘の音が、その間隙を縮めていく。
振り下ろして弾く、振り下ろして弾く、振り下ろして弾く――弾く。
そして鐘の音はカツンと、儚い音に変わった。
グルブドの振り上げた手が、力なく地に落ちたのだ。
その瞬間、アトロは直ぐに剣を構えた。
長い攻防の末、生み出されたその静寂は留めを繰り出すには十分過ぎる間だった。
アトロは直ぐに前に駆けて行こうとした。
ーーだが、アトロの視界は巨大な灰色の獣ではなく、粉砕された床を映していた。
前に踏み出そうとした足が、動かなかったのである。
それでも前に行こうとする意志が、アトロの上体に作用して前方に倒れたのだ。
そして今度はグルブドの番であった。
アトロの失脚で生み出された時間。その時間に、グルブドは強引に腕を捻じ込んだ。
「……ガァ!」
倒れこむアトロの身体を抱え込むように、グルブドはその左手をアトロの身体と地面の間に強引に差し込んだ。
しかしそれは介抱してあげようなどという優しさとは正反対の感情。
疲弊しきったアトロに何とか留めを刺すための、悪意の優しさだ。
その悪意が、後方へとアトロを吹き飛ばした。
限界を迎えた身体に追い打ちをかけられたことで、アトロの意識は朦朧としてくる。
しかし、それでも負けを認めたわけではない。
何とか状況の打破を望もうとするも、空中での態勢の維持すらまともにできない。
だがそれよりも、アトロには一つの懸念があった。
このまま真っ直ぐ飛ばされれば、その先にはあるはずの壁が無くなっている。
何故ならその位置は、グルブドによって壁が壊され、アトロがレオを外に逃がした所と一致するからだ。
つまりこのまま行けばアトロは外へと飛び出し、アトロに留めを刺そうと追ってくるであろうグルブドが町に解き放たれてしまう。
それだけは何とか避けなければならない。
いや、そんなことは今に始まったことではない。
この城に、この街に来た時からアトロは覚悟していた筈だ。自分が倒されれば、町の住人たちを救うことは出来ないと。
そしてこの町に自分が来た意味を。何のために、皆から思いを託されたのかを。
「……忘れるところだったな。この世界を救うって気持ちを」
掠れてきた視界の奥では、臨戦態勢をとる獣の如くグルブドが後ろ脚に力を溜めているのが分かった。
あの猛獣は、この城から出してはいけない。この城で、アトロが倒さなくてはいけないのだ。
「ガレン、オリバ、フィオ、カイ。俺に、力を貸してくれ!」
かつての仲間の名前とともにアトロは声を上げる。
そして、目まぐるしく回転する世界の中から地面に狙いを定め、剣を突き刺した。
激しい音を立てながら、剣が地面を突き抜く。
しかし勢いは止まらない。
地面の岩石を斬りながら、アトロは後方へと飛んでいく。
壁際まであと十メートルもない。その先を抜けてしまえば剣を突き刺す床も無く、空中へと放り出される。それまでに止まらなくてはいけないのだ。
「クソ、クソッ! 止まってくれ!」
だが、アトロの願いは無念にも届かない。
すでに壁の手前であるが、勢いは十分残っていた。アトロの力が足りない訳ではないのだ。
地面が、脆すぎるのだ。
グルブドが城として使っているため、ここの地面は何度もあの巨体で踏みつぶされいる。そして今日の戦いで、もう床としての役割を果たしていないのだ。
突き刺す剣からは金属がぶつかる音がするが、それも全て粉々になった小石に当たっているだけである。
実際には岩石ではなく、土に剣を刺しているのと変わらない。
そして更に追い打ちをかけるようにグルブドが、膨大に膨れ上がった後ろ脚を解放し、突進してきた。
粉塵が上がるくらいに地面を蹴り上げ、命を削った猛進で襲い掛かってきたのだ。
このままでは、グルブドを止められない。町を、守れない。
「いや、守るんだ。何としても、俺が皆を守る!」
アトロは残された魔力を全て剣に込めた。
そしてこのまま剣をもっと深く差し込めば、アトロは止まるだろう。
しかし、そうすれば剣はもう使えない。それでもこのまま何も出来ずに外に投げ出されるくらいなら、身体を使って止める。
それくらいの覚悟なら、何年も前からアトロは出来ている。この世界を救う使命を受けてから、自分の全てをもって、誰かを助けることへの躊躇いはない。
その覚悟の元、地面に剣を深く突き刺そうとした瞬間だった。
突如、不思議な温かい力がアトロを包み込んだ。
それはまるで、慈母のような優しさと心地よさに満たされていた。
「――負けないで、アトロ」
その声が聞こえてきたのと同時に、アトロの身体は静止した。
丁度、床から足が飛び出る限界の位置だった。
「……ありがとう、レイラ」
振り返らずに、アトロはその一言だけを呟いた。
それだけで十分だった。それだけで、二人の思いは互いに伝わった。
アトロ一人では、敵わない強敵でも仲間がいれば勝てる。それくらい、心強い仲間がこの町にはいたのだ。
「――ウゥゥゥガァァァ! ガッ!」
突進してくるグルブド。
アトロは残りの魔力を全て込めた剣を、その顎めがけて振り上げた。
「うぉぉぉ!」
金属がぶつかり合うような鈍い音が響き渡る。
グルブドが全てを以てして生み出した突進と、アトロの全てを纏った剣の一撃。
本日で一番の鐘の音が鳴り響いたが、その軍配はアトロへと上がった。
グルブドの突進の威力に負けることなく、アトロがグルブドを押し返したのだ。
だが、その一撃はグルブドの勢いを弾いただけだ。
上体が浮き上がるが、まだグルブドの目は死んではいない。
対するアトロも、再び剣を構えなおしてグルブドへと留めを刺そうとした。
まだ剣に込めた魔力は消えていない。動き出しも、アトロの方が早かった。
ーーだが、
「な……」
アトロの視界が突如に消えた。いや、微かに見えるが殆ど見えなくなったのだ。
それは度重なる疲労と魔力の使い過ぎが招いた当然の反動だ。
しかしあまりにもタイミングが悪い。視界は回復魔法をかけてもらえれば直ぐに回復するだろう。
だがそんな余裕はない。今にもグルブドがその凶器である爪牙を振り下ろしてくるはずだ。
「くっそ、こんな時に……」
せめて距離感だけでもつかめれば、アトロは今までの経験からグルブドを仕留めることが出来る。そう、グルブドとの距離感が分かればいいのだ。
アトロが必死に視線を目の前にいるはずのグルブドへと向ける。
「――!?」
その時、アトロはグルブドの腹であろう灰色の中央に黒い点があるのに気付いた。
それは、レオの魔法の一撃が当たったことによりできた焦げ跡だ。
その大体の大きさをアトロは覚えている。
「……ありがとう、レオ」
土壇場で見つけたその目印は、アトロが託されたものだ。
レオが込めた思いによって、生み出された目印。
その思いを、託された思いに応えるようにアトロは二歩前に飛び出た。
そして、その目印をめがけて剣を振り上げた。その手に伝わるのは、確かにグルブドの重さだ。
「これで、終わりだ!」
轟くアトロの声に続いて、長い、長い一日の終わりを告げるような鐘の音が鳴り響いた。