第十三話 魔獣の力
グルブドは、無数のアトロの攻撃をまともに喰らったことで、壁にもたれかかるようにぐったりと倒れている。
攻撃の手を止めたアトロはこれで十分だろうと判断して、グルブドの膨れている腹に飛び乗った。そして微かにうめき声をあげているグルブドの眉間に剣を突き立てて、
「――これで終わりだな」
輝く眼差しを巨大な瞳へと向けた。
「……ぐ、がぁ……あ」
無傷なアトロとは対照的に、満身創痍なグルブドの口から発せられるのは、力の無い呻き声だけである。
実際に戦うまでアトロは、グルブドとの戦闘は難航するだろうと思っていたが、蓋を開けてみればこの結果だ。
拍子抜けと言えば拍子抜けだが、この意外な結末にアトロは疑問を抱いていた。
しかし、アトロはこの町を救いにここに来たのだ。何事も無ければそれでいい。
すると、虚ろであったグルブドの目線が泳ぎ始めて、ゆっくりとアトロに焦点を当てた。
「……まさか、ここまで……強いとは、な」
「御託はいい。これで、お前の支配は終わりだ」
「出来れば……これは、使いたくはなかったのだがな」
アトロの言葉を気にしていないかのように、グルブドは独り言かのように淡々と話す。
その雰囲気にアトロは違和感を覚えた。
何か、まずい気がすると。
「お前、余計なことは――」
考えるな、と言葉を紡ごうとしたその瞬間、グルブドの瞳が深紅に染まった。
「――!!!」
そして全てを張り裂くような咆哮が、世界に響き渡る。
咄嗟にアトロは後方へと跳び、剣を構えた。
そしてグルブドの方に視線を送ると、その姿が恐ろしい変容を遂げようとしていた。
壁から起き上がり、四本の足をついて地面に立つグルブド。
それは正しく、一匹の獣であった。
二足歩行のためにしなやかになっていた後ろ脚は、暴力的な質量を全体に抱え込み、その爪は鋭くとがっている。
前足も同様に肩から手の先までがまるで二本の大木の様に太く、そして力強くなっている。
瞳は血に満たされたかのように深紅に色づき、口元から突き出ていた牙は音を立てながらさらに伸びていく。
これらの全ての変化が獣としてのグルブドの獰猛さに拍車をかけていた。
アトロの眼前に佇むそれは最早先程までの二足歩行の魔物ではない。
四足歩行となり、獲物であるアトロへと純粋な敵意を向ける一匹の獣だ。
「……獣化か」
獣化。
それはグルブドのように獣の姿をした魔物が用いる捨て身の技だ。
体内に残された魔力を全て消費し、一時的に肉体を著しく強化することで通常の何倍もの力を得ることが出来る。
しかしその反動で理性を失ってしまい、本能で動く獣となってしまう。魔力を使い切り、理性までも捨ててしまうからこそ、捨て身の技なのだ。
だが、その代償で得られる力は恐ろしいものになる。
アトロも今までに獣化した魔物の相手とは戦ったことがあるが、あまりいい思い出はない。
ましてや、グルブドのこの巨体で本能での攻撃が繰り出されるとなるとかなりまずい。
そう覚悟した瞬間に、グルブドが動き出した。
「――ッガァッ!」
地面を粉砕するほどの蹴りとともにグルブドが襲い掛かる。その瞬発力はアトロの想像をはるかに超えていた。
一瞬でアトロの視界が、灰色でおおわれる。
左右からははち切れそうなくらいに肥大化した獣爪が、正面からは全てをかみ砕くであろう凶暴な牙が、アトロを蹂躙するかの如く迫りくる。
これには流石のアトロも回避には間に合わない。
咄嗟に剣を構えてグルブドの突進を受ける。鈍い音が響き渡り、アトロは上方へと吹き飛んだ。
しかしアトロは空中で回転して威力を殺し、魔力を足に纏うことで壁面に両足で着地――否、着壁する。
そしてそのまま攻撃の反動を両足に溜め、魔力を掛け合わせて壁を蹴り壊し、今度はアトロがグルブドへと突撃する。
アトロの軌道上にいる獣化したグルブドは、その場に留まり、深紅の瞳でじっとアトロを睨んでいる。
正面に静止するグルブドへとアトロは容赦なく剣を振り抜こうとした。その瞬間、
「な――」
グルブドが前足を軸にして、身体を捻って横に避けたのだ。
目標が急に消えたことで、アトロは地面に直撃寸前になる。
「グァァァ!」
しかしアトロが地面に直撃するよりも早く、グルブドの前足がアトロを薙ぎ払った。
そのカウンターをまともに喰らい一度、二度と、まるで水切りのようにアトロが地面で跳ねながら後方へと吹き飛んでいく。
グルブドが横に避けたのはアトロの攻撃をただ避ける為では無かった。
正面から受けようとすれば、弾丸のように飛んでくるアトロであるが、横から見ればその身体が無防備である。
グルブドはアトロを攻撃するという本能に従い、咄嗟の判断で一撃をねじ込むための攻めの回避をしたのだ。
そしてそれが、見事に成功したのだ。
しかしアトロは、まだ負けていない。
態勢を途中で立て直し、地面に両足を付けて立ち止まる。
咄嗟に魔力を使ってグルブドの一撃と、地面への直撃の威力を緩和したため重傷を負ってはいない。全身が痛みを訴え、視界がぼやけているが、戦えなくはない。
「くそ……油断した。まさか、あれだけ動けるなんて……」
再びアトロは剣を構え、グルブドへと挑もうと足を出そうとした。
だがそう思ったときには既に、グルブドが直ぐ目の前まで襲い掛かってきていた。
「ウガァァァ!」
今のアトロには、グルブドと単純に正面からぶつかり合っても勝てる自信はない。
それに加えて一旦一息つくためにもここは回避を選択する。
飛び掛かってくるグルブドの攻撃は、左右に避けるだけでは簡単に捕まってしまう。
跳躍しようにも溜めの時間は無く、残された魔力も回避のために使うには惜しい状況だ。
となると残された選択肢は、グルブドの下だ。
アトロは一瞬で飛び掛かるグルブドの足元へと滑り込み、背後へと回った。
しかしその瞬間、突如真上から強靭な後ろ脚が地面へと振り下ろされた。
アトロがグルブドの足元をくぐり抜けた瞬間に、グルブドは後ろ脚を下ろして反撃したのだ。
グルブドのその驚くべき反射神経には、流石のアトロも成す術がなかった。
「嘘だろ」
「――ガァァァ!」
まるで雷が落ちたかのような衝撃が、全身を襲った。
しかしアトロは何とか直撃だけは回避した。
それでもその衝撃には抗えず、粉砕した地面とともに宙に投げ出された。
宙に浮いてしまえば、魔力を使わなければアトロでも対応できない。
そして今はその魔力も、先程の攻撃と受け身に消費したため殆どなかった。
となればこの状況は、アトロにとって最も避けたかったものである。
だが、それすらも予感していたのか、アトロの眼前には既に鋭い獣爪が待ち構えていた。
「ウルグァァァ!!」