井上の家
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天野岩兎を引きこもりから矯正する。その目的で協力関係になった妹、せせらと同級生、江口回向。
さて、手を組んだとはいえ、ふたりにはなんの策もなかった。
「どうしようか。あいつを連れ出す手っ取り早い方法は…」
天野家、居間のテーブルに頬杖をついてもごもごと呟く回向。
「やっぱり、デートと──」
「却下!」
これこそ正攻法だ、と言わんばかりの堂々とした口調のせせらを、回向は両手で机を叩いて制した。回向はスタンドアップしている。
「ダメ、ありえない、もっといい方法があるはずよ!」
顔を真っ赤にしながら吠えた。その顔は怒りに歪んでいる。
せせらの見解では、二人がデートにでも行ってしまえば万事解決なのだが、どうも事は上手く運ばない。そもそも、回向はなぜ、兄の矯正に躍起になっているのだろうか?自分は、あの芋兄貴をどうにかしたいという一言に尽きる。しかし回向の場合、これといった理由が見つからない。兄に惚れているのではないのなら、いったい何があるというのだろう?
せせらが、ああだこうだと考えていると、眉間を押さえて黙り込んでいた回向が突然口を開いた。
「天野くんって、人付き合いが恐くて引きこもったのよね?」
せせら情報だ。数刻前に受話器越しに行われた、岩兎についての情報交換という名の、一方的にせせらが教える作業の際に、回向が得たものである。
「じゃあ、クラスメイトが信頼のおける人たちだってわかれば、ちゃんと来てくれるかもしれないのよね?」
回向の瞳が輝いている。
「確かに。それは名案かもです。兄も、ああ見えて昔は懐に入った人はきちんと信じる人でしたから」
過去の岩兎は、まさしく優しくて人徳のある、スーパーお兄ちゃんだったのだ。
「お部屋訪問よ!」
「…………え?」
完全な不意打ちである。暗殺なんとかのスキルのようだ。回向は勝ち誇ったような笑みを浮かべており、せせらは思考停止状態。
固まること数秒。思考力が回復したせせらは、改めて『お部屋訪問』について考えてみた。
「つまり、兄をクラスメイトの方のお部屋に連れて行く、ということですか?」
「そうよ。信頼し合うには、相手の部屋に遊びに行くのがいちばんだもん」
「なんだかちょっと突飛な感じが──」
「わたし、ちょっと掛け合ってみる!うまくいけば、来週末には作戦実行できるわ」
せせらの指摘は、LEDと対決した豆電球のように、虚しくかき消された。
「あ、佳乃子?この間相談した件なんだけどね、そいつを、
──佳乃子の家に招こうと思って。
「え、即答?あー、まあ、そんなに乗り気ならいいけど、あいつ結構めんどくさいよ?…そこがいい、って。会って驚かないでよ?…はぁ、じゃあね。ありがとう」
携帯をしまい、回向が宣言した。
「ほんとに、整っちゃった…。じゃあ来週末、井上家に訪問よ!」
翌日。せせらが兄を朝食に誘うと、岩兎はいつものように、素っ気なく答えた。
「嫌だよ。扉の前に置いといて」
いつもならば、せせらはおとなしく引き下がる。が、今日からはそうしない。
「ご飯に来ないんだったら〜」
せせらはゆらゆらとした口調で、岩兎の心を揺さぶる。せせらから岩兎の表情を見ることはできないが、脂汗を滴らせる兄の顔が目に浮かんだ。
「土嚢どこにやったっけな…」
胸が締め付けられるような感覚をぐっとこらえて、せせらは脅しにかかった。
目の前が真っ白になるのを、岩兎は確かに感じた。
天野家にある土嚢は、計七十五キロ。この家は川沿いにあるため、水害に備えて置いてあるのだ。それらが全て積まれてしまえば、確実に扉を開けることができない。それどころか、最後の散々な体力測定から二年と十一ヶ月経っている岩兎には、二十キロの土嚢すら、押し除けることは絶対にできるはずもない。
せせらは相変わらず、扉の向こうで土嚢の場所を思い出している。土嚢は一階物置の右奥に積んであるのだが、口が裂けても言えない。
「あー、せせらさん?まさか本気?いやどっちだとしても、怖いからそんなこと言わないで!わかった!今日は一緒に食べるから、ゆるして!」
岩兎は鼻声で叫んだ。声が裏返っている。
「うーん、やっぱり物置の奥だったかな?じゃあ行ってみ──」
「これからは出てきて食べるから!ほんと、おねがい!」
威厳も風格もない。情けない兄にため息を吐いて、せせらは扉を開いた。
「目玉焼き焼いてくるから。お父さんたち今日から出張だって」
あんなに騒がしかった兄が、せせらの一言で無言になる。無表情のようで、嬉しいような、悲しいような、怒っているよな、嘲るような。思考の速度が極めて速く、人類最強で最悪な記憶力を持つ岩兎のみが見せる、深すぎる表情だ。
しかしその表情も、今では自分の前でしか見せないものとなってしまった。せせらは、そのことに少なからず罪の意識を感じ始めている自分に気づいた。
「じゃあ、作っとくから、十分以内に来てね」
その週の土曜日、朝日が差し込む天野家のダイニングキッチン。せせらは回向から聞いてきた学校の現状をひたすら岩兎に語り続けており、岩兎はうんざりしていた。せっかく引っ張り出されたのだから、愛しのお節介な妹との会話を楽しみたいと思っていたのだが。
「なあせせら。そういうのは、紙に書いてくれればそれで済むんだけど」
「お兄ちゃんは絶対読まないから」
「うぐっ」
「ほら図星」
岩兎は、そういう訳では、と言いかけたが堂々巡りになりそうなのでやめた。確かに岩兎は、紙を渡されただけでは読まないだろう。しかしそんな情報など、学校に行けばすぐわかる。
そんなことよりも、である。わざわざ食卓に誘い出して、一週間同じ話題なのだ。岩兎にしてみれば、まるで突き放されたような心地である。いつも自分の味方だった妹が、全く自分の話を聞いてくれない。それは、岩兎にとっては天変地異も同じことだ。
そして、どういうわけか岩兎は住宅街を歩いていた。そしてたどり着いた場所は、井上佳乃子の自宅であった。
ピンポーン
チャイムが押され、中から元気のいい返事が返ってくる。
「はーい!いらっしゃい回向!それと…後ろにいるのは。あ、やっぱり彼だぁ!」
出てきた時から高かった佳乃子のテンションは、岩兎を見つけた途端、何ランクか上昇した。
「佳乃子…。あなた、わたしが家行っていい?って聞いても断ったのに、こいつだと即答だったわよね…」
回向の顔からは、はっきりと呆れの色が見て取れる。
『出会って一ヶ月程度なのに、随分と仲がいいな。何か共通の話題でもあるのだろうか?とにかく、この場は無難に付き合っておこう』
しかしその選択が、岩兎の敗因だった。
なぜか居間をスルーし、一行は真っ直ぐに佳乃子の部屋へ向かった。女性の部屋に男が上がることの重大さを理解していない岩兎には、それはただ違和感のある行動としか感じられなかった。
部屋の前までやってくると、なぜか岩兎が先に通され、躊躇い、もたつく岩兎を押し込むようにして佳乃子が、そして最後は回向が部屋に入った。
回向は部屋に入ると、すかさず後ろ手に鍵をかけた。鍵とは言っても、手で回す側の鍵なので、出ようとすればすぐに出られる。出られるのだが、鍵を回せば少なからず、かちゃり、という音が部屋に響く。
『鍵を回す音の音量はそれなりだった。正面切って脱出しようものなら、たちまち見つかってしまうだろう』
岩兎はため息を吐きながらメモ帳に書き込む。
『つまり、江口回向がよしと言うまで、俺はここにいないといけない。とても面倒だ』
メモ帳をしまい、改めて部屋を見回す。万年ぼっちだった岩兎には、妹以外の女の子の部屋は物珍しい。家具の種類、配置、全体の色彩、そして匂い。何もかもが、岩兎にとっては初体験に近い。
「うぐっ」
二人に気づかれないように、岩兎はうめいた。頭がてっぺんからかち割られるような、酷い痛みだ。
岩兎は密かに顔をしかめながらメモ帳を開いた。
『好奇心に従ってはいけない。以前なら普通の心構えだったはずだ。とにかく、やたらめったら目や耳に入れないようにしよう』
回向は首を傾げていた。岩兎の様子が変だ。やたらとメモ帳を開いたり閉じたりしている。初めて押し入った時もそうだったが、メモ帳に何を書いているのだろう?
いや、と回向は首を振って思考を吹き飛ばす。今は岩兎が佳乃子にみじんの興味も持っていないことのほうが重要だ。なんとかして岩兎が佳乃子と会話する機会を作らねば。回向は首を捻る。
岩兎の矯正は、前途多難である。
やっっっと、本編です。予定より一話分遅れてしまいました。次回からしばらくは、井上家に関するお話です。次回も、乞うご期待!